31話:若月「クソ野郎」

 ◆◆◆


 スケッチブックの上をひたすら走らせていた色鉛筆を止める。

 窓の外はもうかなり明るくなっていた。今日は月曜日で学校があるというのに、結局一睡もせずに夜通し絵を描き続けてしまった。

 寝なかったのは今日だけではない。土曜から日曜にかけても寝ずに絵を描き続けた。

 何か描きたい風景や題材があったわけじゃない。手を止めてしまうと、恋愛小説の主人公と自分を比べてしまう。だから、絵を描いて考えないようにしただけだ。

 書いている途中は一心不乱で、何を描いているのかすらわかっていなかった。完成した絵を両手に持って、僅かに顔を覗かせる太陽の光に当てて見る。

 心臓が強く締め付けられて、息苦しくなる。

 どうして僕はこの絵を描いた。

 理由を考えても思いつかない。ただ無意識でその絵を描いたのだから。

 これ以上、この絵を見ていると目眩で倒れてしまいそうだと思った。スケッチブックからそのページを破る。破った絵を手で球みたいにくしゃくしゃにしてしまおうと力を入れた。手が動かなくなる。どうしてもくしゃくしゃにできない。結局、卒業証書を筒に入れるみたいに、丸めてゴミ箱に入れた。

 部屋の時計に目をやる。学校に行く用意をしないと遅刻する。急いで服を着替えて歯を磨く。朝ご飯は胸のモヤモヤで食べられそうになかったから食べなかった。鞄を持って家を出る。やたらと朝日が眩しく感じた。あまりに強烈な光を浴びたせいか、ふわりとした感覚が僕を襲い、寝不足で頭が呆けていることを自覚した。

 自転車に乗る。かなりの寝不足でも信号が赤だという認識くらいはできて、無事学校に着いた。駐輪場に自転車を置いて、昇降口で靴を履きかえる。階段を上って教室へ向かう。

 ドアの前で一つ、静かに深い呼吸をする。

 もう千堂さんがいるかもしれない。たぶん、別れたってことは伝わっているだろうから、できれば顔を合わせたくない。泣きボクロが特徴的な目で睨んでくる姿を想像するだけで、心が落ち着かなくなる。

 このまま教室に入らないわけにもいかない。少し気合を入れてドアを開いた。一瞬だけ、黒板近くにいる千堂さんの姿が視界に入った。その辺りは見ないように目を逸らす。

 教室にいたクラスメイトの視線がこちらに向く。やってきたのが僕だとわかった瞬間みんな視線を戻し、会話や宿題をしたりと、各々自由な行動を再開させた。

 僕は、窓から見える町の風景に視線を意識的に釘付けにして、自分の席に座った。顔は外に向けたまま、机の上に肘を置いて、手に顎を乗せる。

 町並みは変わらない。色とりどりの車が学校の前を走っていく。

 運動場には朝練をしている陸上部と野球部、それとサッカー部の姿があった。狭いグラウンドで互いが邪魔にならないように綺麗に住み分けられていて、いつも見事だと感心する。

 そういえば鞄の中から教科書とか出してなかった。

 いつもなら登校してすぐ、教科書を鞄の中から取り出して机の引き出しに入れる。今日は千堂さんに視線を向けないということを意識しすぎていて、それを忘れていた。

 机の横のフックにかけた鞄のチャックを開く。

 いつも絵を描くときに使用するスケッチブックが目に入り、どきりとする。

 一心不乱に書いた絵が頭に浮かんで胸が締め付けられた。

 もうあの絵は捨てたんだからと、心の中で自分に言い聞かせる。教科書とノートを取り出す為に鞄の中に手を入れた。


「にしてもさー、ちょっと園田ちゃん、ショックだったわー」


 ふと、男子のそんな言葉が耳に入って、動きを止める。

 久しぶりに学校で園田さんの名前を聞いて、意識がそちらに向いた。視線だけを声がした方へ向ける。病院の駐車場で擦れ違った男女のグループだった。

 視線を戻して何もなかったかのように、教科書を鞄から取り出した。


「わかる。水とか口から零れててさ、ちょっと、なんつーかさ。ねえ?」


 一人の女子が、少し笑いを堪えたような口調でもう一人の女子に話を振った。それにしても声が大きい。


「ねー。汚かったよね」


 僕の動きがまた止まった。胸がざわついた。

 声が大きいとは思っていた。だけどなんとなく『汚かった』という言葉は、他の言葉よりも大きく聞こえた。その声は教室中に響いている。千堂さんにも聞こえているだろう。

 あーあ、千堂さんがキレても知らないぞ。


「きて、くれて、うれしい、よ」


 男子がわざとらしく、大げさにたどたどしい言葉を吐いた。それが園田さんのモノマネだということはすぐにわかった。それに対し、他の女子二人がケタケタと笑った。


「似てる! まじ馬鹿みたいな話し方!」

「マジウケる」


 一瞬で顔が熱くなった。

 千堂さんがキレる。僕はそんなことを考えて、教室にいたくないなと思った。


「ふざけんじゃねえぞ」


 静かな、だけど確かな怒りが込められた声が鼓膜に響いた。

 ほら見たことか。だけど、それと同時に少し変だなと思った。

 クラスにいる全員の目がこちらを向いている。座っている生徒の頭は、僕の視線よりも下にあった。


「てめえら、あの姿を見て笑えんのかよ!」


 怒号が飛んだ。その声は女子にしてはハスキーで低い千堂さんの声、よりも遥かに低い、男子そのものの声。


「マジで頭おかしいんじゃねえか?! 頭に虫湧いてんじゃねえのか?!」


 さっきまで笑い合っていた男女三人グループが驚いた顔で僕を見ていた。

 黒板の前にいた千堂さんも、目を丸くさせてこちらを見ているのがわかった。


「なあ! なんとか言えよ! なんで笑えんのか教えてくれよ」


 僕の足が動く。園田さんの真似をしていた男子に詰め寄った。机の上に座っていた男子が立ち上がって、後ずさった。

 そこでやっと気付いた。

 ああ、怒鳴ってるのは千堂さんじゃなくて、


「教えろよクソ野郎!」


 僕だ。


「園田さんが汚い? 馬鹿みたい? ふざけんじゃねえぞ!」


 さっきまで男子が座っていた机を思い切り蹴飛ばした。引き出しに入っていた教科書やノートが床に散らばり、机が倒れて教室内にけたたましい音を響かせた。


「てめえらのクソみてえな会話の方が馬鹿みてえなんだよ! それで笑うてめえらの心の方が汚ねえんだよ!」


 怒りが止められない。目の前にいる三人の男女を本気で殺してやりたいと憤る。


「必死にもがいて、だけど思うように体が動かなくて、喋れなくて、考えられなくて、それでも頑張って生きようとしてんだよ! それをなんで笑えるんだよ!」


 怒りだけを込めた僕の咆哮が教室に響く。口を閉ざすと、誰も何も言わなくて、動きもしない。息をするのも忘れたように、静けさが教室を包んだ。


「そんなに不自由に話したいってんなら、てめえが身代わりになれよ!」


 視界が滲む。


「クソ野郎が」


 最後にそう吐き捨てると教室を出て廊下を駆けた。朝の予鈴が鳴るのを聞きながら、誰もいない場所を目指して走った。

 走りながら目を腕で拭う。何度拭っても涙が溢れる。

 悔しかった。園田さんがあんな風に馬鹿にされて、笑われるのが苛ついて腹が立った。

 階段を一段飛ばしで駆け上がる。屋上に出る手前の踊り場に到着する。蛍光灯はついていない。朝日も入らず、薄暗くて埃っぽい。

 僕は壁に額をくっつけて、声を漏らさないように我慢した。

 壁の冷たさが額から伝わってきたおかげか少しずつ冷静になる。怒りに任せて怒鳴り散らしたことが良かったのか、疑問に思い始めた。

 僕はあの三人と同列にいる人間じゃないのか。園田さんの後遺症に耐えられなくて、砂利の駐車場で本人に怒りをぶつけた。別れを切り出されて、すぐに了承して病室を出た。

 そんな僕が怒る資格なんてあったのだろうか。

 だけど、怒りを抑えることなんてできなかった。僕と園田さんはもう別れている。別れたときに少し安堵したのは、僕がそれをどこかで望んでいたからの筈だ。それなのに、どうして僕は怒ったんだ。答えはわからない。

 階段を誰かが上ってくる足音が聞こえた。

 振り返ることができない。どんどん近づいてくる。踊り場の壁に顔を向けている僕のすぐ後ろにまできて、足音は止まった。


「あんたさ、結構短気だよな」


 少しハスキーな千堂さんの声。


「自分でもそう思う」


 壁に顔を向けたまま、僕は言葉を返した。


「前、病院でナコに怒鳴ったときはすっごいむかついた。でも」


 千堂さんはそこで一旦口を噤んだ。一呼吸置いて、続きを口にした。


「さっきのは良かった。ナコの為に怒ってくれてさ。ありがとう」


 お礼の言葉が意外で、僕は思わず振り返った。

 千堂さんが、こちらに冷たくて鋭い視線を向けていた。


「なに? 意外そうな顔してさ。あたしだってお礼くらいは言えるんだけど」

「そりゃそうだろうけど、僕にお礼を言ったのが意外で、僕のこと嫌いだと思ってるんだけど」

「大嫌い」


 千堂さんはキッパリと言い切った。僕は「やっぱりね」と呟いた。


「心の底から嫌い。前は気に食わないってだけだったけど、ナコに怒鳴ってからは大嫌い。あんたの顔見てると、殴り飛ばしたくなる。ボコボコにして立てなくなるくらい殴りたい」


 そこまでの怒りを僕は買ってしまっていたんだな。だけど、それも当然のことだ。僕はそのくらい酷いことを千堂さんの親友である園田さんに言ってしまったんだから。


「千堂さんになら、殴られても文句は言えないかな」

「じゃあ殴る」


 僕の言葉に千堂さんは距離を詰めてきた。

 殴られる。それも仕方がない。歯を食いしばって目を瞑る。薄暗い踊り場のせいか、瞼を閉じると真っ暗な世界だった。

 一発、強い衝撃が胸に響いた。痛みが走る。だけど、耐えられない程の痛みじゃない。


「でもさ」


 千堂さんの小さな声。僕は目を開いた。胸に千堂さんの振り上げられていた手が止まっていて、その手には何かが掴まれていた。


「あたしはこれでも女だから、どんだけ本気で殴っても、男のあんたにはちょっとしかダメージ残せない。その代わり、ナコに殴ってもらうことにするよ。ほら」


 千堂さんは手に持っていたそれを僕の目の前に差し出してきた。

 薄暗さにまだ慣れていない目を凝らしてそれを見る。


「手紙?」


 手に掴まれていたのは、可愛らしい花の絵が描かれた封筒だった。そこに『若月くんへ』と見覚えのある字が書かれていた。


「園田さんが?」


 千堂さんが小さく頷いた。


「ナコに頼まれたんだ。あんたに手紙を書くから渡してくれって。でも本当は渡したくなかった。だけどさ、さっき教室でキレたあんた見て思い直したよ。渡してやる」


 僕はおもむろに手紙を受け取った。


「その手紙はナコの全身全霊を込めた全力のパンチだよ。強烈な一撃喰らえ馬鹿」


 千堂さんはそう言った後、続けて「馬鹿なことしたな」と呟いたのが聞こえた。

 花の絵が描かれた封筒を開く。中身を取り出して、文面に目を落とした。

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