27話:若月「薄情」
◆◆◆
九月に入ったというのにまだ夏の暑さは残っている。その熱された空気が舞い上がり、入道雲になって浮かんでいる。ついさっきまで青空だったのに、入道雲が強い陽射しを遮っている。この雲のせいか雷の音が轟き始めた。
雨が降るのかな。傘、持ってないし、このまま帰ってしまった方が良いだろうか。
二学期初日の学校帰り。僕は留守電で園田さんからの呼び出しを受けた。聞かなかったことにしても良かった。だけど、園田さんの言葉はとても真剣で、それを無視する程の度胸もなく、病院へと向かうことにした。
それなのに、病院に行かなくて良い言い訳を探してしまう。そんな自分に辟易としながら自転車のペダルを漕いで病院へ向かい、到着する。
駐輪場にバイクは見当たらない。千堂さんはいないみたいで少し安堵する。自転車から降り、鞄を肩にかけて何日かぶりに病室へと向かった。
ロビーを抜けて、エレベーターホール横の非常階段を上る。園田さんの病室の前で立ち止まる。
破裂するんじゃないかってくらい、強く心臓が脈打つ。
園田さんと顔を合わせるのは、砂利の駐車場で怒鳴ってしまって以来だ。また来てねって言われたのに、結局僕は行かなかった。どんな顔をしてこのドアを開けば良い。
笑顔で「久しぶり元気?」って問いかけるべきか。
そんなのできるはずない。怒りのまま声を荒げた事実を無視しているみたいだ。開口一番、謝罪をするか。それも違う。たぶん園田さんはそんなことは望んでいない。謝って気が楽になるのは僕だけだ。
毎日ここに通っていたのに、今はもうどんな表情で会えば良いかわからない。
中にいる園田さんには聞こえないように、静かに深く呼吸を繰り返した。
表情なんてどんな顔でも良いや。こうやって、うじうじドアの前でいても仕方ない。早く入って話を終わらせて帰ろう。
半ば投げやりに、僕はドアをノックした。
返事がない。
もしかしていないのか? もう一度ノックをしようと軽く握った拳を持ち上げた。瞬間、閉じられたドアの向こうから、か細く「どうぞ」と声がした。
僕は返事をせず、ドアノブをまわして、ゆっくりとドアを開いた。ツンとキツイ芳香剤の香りが部屋の中から溢れ出し、鼻をついた。
無意識のうちに顔を俯かせて、園田さんを見ないようにしていた。
「ひさしぶり、だね」
俯いている僕の頭の先から、柔らかな口調で園田さんがそう言った。
「うん。ごめん、来れなくて。絵のさ、コンクールが近いから、忙しくて」
咄嗟に言い訳を口にする。それも嘘だ。自分に嫌悪感でいっぱいになる。
「ごめんね。忙しいときに、呼びだしちゃって」
僕の嘘に、園田さんは申し訳なさそうにそう言った。
「違う! 園田さんが謝ることじゃない」
僕はズキリと胸が痛んで、思わず違うと少し声を大きくして否定した。
園田さんは「ありがと」と呟いた後、「わか月くん」と僕の名前を呼んだ。
「なに?」
僕は、相変わらず顔を伏せたまま返事をする。
「ちょっとまってね」
園田さんはそう言った後、ごそごそと動き始めたのがわかった。やがて、地面を何かが擦るような音が聞こえてくる。
俯く僕の視界に、白くて細い手が入り込んできた。その手は僕の手を優しく握った。
驚いて顔をあげる。
目の前に綺麗に化粧されて、眉をハの字にした笑みを浮かべる園田さんの小さな顔があった。
「やっと、わか月くんの顔、みれた」
目と目が合わさる。園田さんは、「ちかくで見ると、照れるね」と、顔を赤くさせて俯いた。
元々体温が低いのか、それとも空調が効きすぎているせいか、僕の手を握った園田さんの小さな細い手は氷のように冷たかった。
空調の風に乗って、甘い桃みたいな香りが漂った。その香りと近くで見る園田さんの顔。それに握られた手に僕の胸は高鳴って、強く拍動する。
「こっち、来て」
心臓が脈打つだけで、動けないでいた僕の手を引いて、園田さんは左足を引きずりながら病室の中を歩き始める。
その手に引かれるままゆっくりと歩いてついていく。
「すわって」
園田さんは、パイプ椅子の前で立ち止まり、僕にそう告げた。その言葉に従うままパイプ椅子に腰掛ける。それを確認してから、園田さんはすぐ向かいに敷かれた布団の上にアヒル座りした。背中を壁に預けなくても、姿勢を保持できている。
「わか月くんは、男の子、だよね」
突然、園田さんがそんなことを尋ねてきた。僕は「そうだね」と答える。
「それじゃ、えっちなことに、興味もあるの?」
園田さんが、真っ直ぐこちらに視線を向けて、首を傾げた。
突然そんなことを言われても、その意図がわからず「そうだね」と言えない。
誤魔化そうかとも考えた。だけど、園田さんの真剣な表情を見たら、誤魔化してはいけない気がして、素直に答えることにした。
「もちろん。でも、男ならそれが普通だと思う」
「うん。わたしも、そう思うよ」
僕の返事に園田さんは満足したように、ころころと笑った。
懐かしく思った。
久しぶりに聞いた園田さんの笑い声だったからだ。園田さんはすぐに笑い声を顰めると、自分の胸に右手を置いて、ゆっくりと呼吸を始める。緊張しているのだと感じた。
ぽつぽつと雨の雫が一度、二度窓を叩き、すぐに強い雨が降り始めた。
カーテンの隙間から見えた空には、灰色の雲がかかっていた。今まで気付かなかったけど、電気のついていない病室はやけに暗かった。
「電気つけようか」
僕は静寂を嫌い、そう言って立ち上がろうとした。
「まって!」
園田さんが大きな声を上げた。僕は中腰のまま動きを止めて、園田さんを見た。
「でんきは、つけないで」
窓を激しく叩く雨音に掻き消されそうな程、か細い声。
僕は、「ごめん」と謝ってパイプ椅子の上に座りなおした。また雨音だけが部屋に響く。どうしようか。話あるんだよねってこっちから話し始めても良いのか。
僕の視界の端で、園田さんの手が動き始めたのが映った。
左手の掌は上手く開けなくて、たどたどしい動き。それでも、右手を上手く使って、病院着にしている赤いパジャマのボタンを上からひとつ、またひとつと外し始めた。
僕は言葉が出ず、ただ息を飲んだ。
やがてボタンは全て外される。パジャマの下は、水色の下着。
僕は顔を咄嗟に背けた。
「待って! 服を着て」
やっと声をあげることができた。だけど、園田さんは僕の言葉に頷くことはなかった。
「わか月くん。ちゃんと、見て」
園田さんの声は震えていた。だけど、有無を言わせない力が篭っているように感じた。僕は顔を上げて園田さんに視線を向ける。
園田さんは顔を真っ赤にさせながら、右手を自分の背中にまわして、下着のホックを外した。窮屈そうだった下着が、ふわりと余裕を持ったように少し体から浮かんだ。
それを麻痺の残る左腕で抑えて、落ちてしまわないようにした。
「わか月くん」
園田さんが小さく僕の名前を呼んだ。返事はできなかった。それでも園田さんは構わず続けた。
「これが、わたし、だよ。覚えててね」
左腕をおろして、下着が園田さんの足の上に落ちる。
暗い病室にやけに目立つ白い肌。あばらが浮いていて、お世辞にも健康的な体とは言えない。その浮いたあばらの少し上に、掌にすっぽりとおさまってしまいそうな小ぶりの胸が露になっている。
「わか月くん。えっち、なんだよね」
部屋は暗くても、園田さんの目から涙が溢れたのがわかった。
「うん」
僕は、ただそう答えるしかできなかった。
「ねえ、わたし、きれい?」
園田さんが、ポツリと問いかけてきた。
「・・・・・・服を着よう」
骨と皮だけみたいな体を見て、僕は綺麗だと言えずにそんなことしか口にできなかった。
会話が無くなる。雨音の音が響き、するすると布の擦れる音が聞こえる。
「ふく、着たよ」
園田さんの悲しい声色に顔を上げる。
赤いパジャマをちゃんと着ていた。まだ僕の胸は高鳴っていた。瞼の裏に、園田さんの裸が焼きついているみたいだった。
「わたしたち、別れよう」
園田さんがたどたどしい口調でそう言った。
「え?」
短く声が漏れて、聞き返したみたいになった。だけど聞こえなかったわけじゃない。しっかりと園田さんの声は聞こえていた。
「もう、別れよ」
園田さんは顔を俯かせて、もう一度、別れを口にした。
「わかった」
ほぼ考える間もなく、僕はそれを了承した。園田さんが息を飲んだ音が聞こえた。
「それが今日僕に伝えようとした話なんだよね。うん、それならわかった。別れよう」
僕は、淡々とした口調でそう口にする。
「うん」
僕の言葉に園田さんは俯いた。
「今までありがとう」
感謝の言葉を口にする。園田さんは何も言わず、俯いたままだった。
僕は鞄を肩にかけなおして、パイプ椅子から立ち上がった。
「これ、返しとくね」
枕元に置いてあった、返却期限の過ぎた図書館の絵本を手に取る。返事は無かった。もう会話もしたくないのかもしれない。
僕は園田さんに背を向けて歩き、ドアを開けて部屋を出た。閉まったドアにもたれかかって床を見つめる。
歩き出してから一度も振り返らなかった。園田さんの姿を見なかった。
なんて薄情な奴だ。自分のことを心からそう思った。
それは振り返らなかったことだけじゃない。
別れ話を切り出されて、僕は安堵してしまった。こっちから別れ話を切り出さなくて済んだ。これで今の辛い現実から逃げられる、そう思ってしまった。それがあまりにも薄情で嫌気がさした。
短く息を吐いて歩き出す。
もうここに来ることも無いだろう。エレベーターに乗って一階に降りる。
そういえば雨降ってたけど傘持って無いな。そんなことを考えながら正面玄関を出たけど、それは杞憂だったようだ。雨は通り雨だったのか、もう上がっていて太陽が顔を覗かせていた。
近くの木についた緑の葉から雨粒が滴ったのが目に入った。駐車場にできた水たまりに青い空が反射していた。
雨のおかげか、空気がいつもより澄んで見える。
駐輪場へ向かう。一歩踏み出す度に水が撥ねる音がした。
僕と同じ制服を着た男女数人とすれ違った。その顔は見覚えのある顔で、クラスメイトだということはわかった。向こうは僕のことには気付いていない。声をかけられることも、かけることもなく遠ざかる。
たぶん、園田さんのお見舞いに来てくれたんだろう。
良かった。別れたばかりの園田さんが一人にならなくて。
自転車に跨る。雨色の残る町並みを目に焼き付けるように、ゆっくりとペダルを漕いで家路についた。
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