24話:若月「何があっても変わらない景色は、どれだけ僕達に無関心なんだろう」
◆◆◆
『若月君、ひなから電話きてないわよね?』
週に一度の園田さんのお見舞いに行こうと、まさに家を出ようとしたときにかかってきた礼子さんからの電話。その第一声がそれだった。
「なかったですね。どうしたんですか?」
礼子さんの声があまりにも焦っているようで、何があったのかを問い返す。
『ひながどこにもいないの。今、看護師さんも探してくれてるんだけど』
それを聞いて、咄嗟には言葉が出て来なかった。
一瞬、理解ができなかった。だけど、すぐに思考が巡り、僕は礼子さんに尋ねた。
「病院から逃げ出したってことですか?」
礼子さんはそれを肯定も否定もせず、『姿が見えないの』ともう一度口にした。僕はすぐに病院に向かうことを伝えて電話を切った。
玄関のドアを開く。八月下旬の熱された外気が、空調で冷えた家の空気と混ざり合い、気持ち悪さを感じる空気となって僕を包んだ。
この二週間で、園田さんは少し変わった。
リハビリを再開させたし、一口も食べなかったご飯を少しずつ食べるようになった。
そのおかげか、頼りない足取りだけど歩けるようになった。元々の運動神経が良いおかげか、こんなに早く歩けるようになったことを理学療法士も驚いていた。
園田さんはやっと努力をし始めた。
それはわかってるのに、僕の心の中は『黒』に随分と侵食されてしまった。
園田さんが手術を終えたばかりの頃の僕なら、今の園田さんの姿を見て心から良かったと安堵していただろう。傍にいて僕に何ができるか考えていたと思う。だけど、今の僕は安堵はしても何ができるかなんて考えなかった。
僕が感じている安堵も園田さんが歩けるようになったという素直なものではない。獣のように感情を爆発させる園田さんに腹を立てなくて済むという、自分勝手なものだ。
それが痛いほど自分でもわかる。自分自身を嫌いになっていく。同時に、園田さんのことが好きかどうかがわからなくなっていった。
だから礼子さんから提案されたように、会う頻度を減らした。ゆっくりと園田さんとの関係を考えようって思った。それなのに、今度は歩けるようになってしまったせいで、園田さんが病院から一人で逃げ出してしまったかもしれない。また、みんなに迷惑をかけてしまっている。
もう何が良かったのかわからない。
歩けないままの方が良かったんじゃないか。手術は成功したけど、目を覚まさない方が良かったんじゃないか。そっちの方が誰も園田さんのことで、こんなにも暗い気持ちにならなかったんじゃないか。
そんな最低な考えが過ぎる。
クソ、反吐がでる。僕はクズだ。
重い足取りで自転車のペダルを漕いだ。灰色の雲が空を覆っていて、今日は刺すような痛い陽射しはない。代わりに、雨が降る前の湿気を含んだ空気が肌にまとわりついて鬱陶しい。
気持ちも重苦しい。それなのに僕の足は急ぐようにペダルを漕いでいた。
園田さんのことが好きかどうかわからなくなってるくせに急いでしまう。
これは園田さんのことが心配だって優しい気持ちじゃない。
そりゃ心配する気持ちも多少はある。だけど、それよりも僕はみんなに見せたいんだ。心配で飛んできた彼氏という理想の姿を見せたいだけで、世間体を気にしているだけだ。
僕はいつからこんな世間体を気にするような器の小さい奴になってしまったんだろう。こんな風になるくらいなら、園田さんが助かって生きていてくれて良かった。それだけを考えられる純粋な子供の方が良かった。
そんなことを考えながら、蝉の鳴き声がうるさい夏の、重くて熱い空気を押しのけるようにして病院へと向かった。
駐輪場に自転車を置く。
園田さんが見つかった可能性を考えて、一度病室へと向かった。
ドアを開くと、強い芳香剤の香りが漂った。その香りに「またか」と小さく溜息をついた。
部屋の中を見回す。空調が優しく効いた程良く冷えた部屋。布団が雑にめくられたままだ。枕元には、園田さんのスマホといつか僕が持ってきた絵本が置いてある。
そろそろ返さないといけない。返却期限は二週間だ。もう過ぎてるよな、とぼんやりと考えた。棚の上に芳香剤が四つも置いてあった。
一週間前に来たときは三つだったのに、また一つ増えていた。それも全て同じグリーンアップルの香り。匂いだけで少し胸焼けをするくらい匂いがキツい。
中には入らずドアを閉めた。
園田さんはいない。ということはまだ見つかっていないということだ。僕は一階に下りて正面玄関から外に出た。遠くから「日菜ちゃん」と園田さんの名前を呼んでる声が聞こえた。それに続いて「ひな」と礼子さんの悲痛に満ちた痛々しい叫び声も聞こえる。
こんなにも迷惑をかけてることを園田さんは知っているのだろうか。胸にモヤモヤが募る。
リハビリ病院の敷地は広い。敷地内に病院だけではなくて、保育所に老人ホーム。デイサービスやリハビリ施設なんかもあって、大きな建物が四つもある。
その分、駐車場も広い。隠れる場所だって随所にある。
園田さんは最近、少しだけ歩けるようになった。だけど歩く速度は早くない。足元もおぼつかず、基本は壁伝いに歩くことしかできない筈だ。
病室の正面玄関に目を移す。そこから出たとして、壁伝いに歩いて建物の裏側へ行っているかもしれない。僕は園田さんの名前を呼びながら裏側へと向かって歩いた。
普段あまり人が通らない場所。室外機がいくつもあって、轟々と空気を排出する音が響いている。ここが病院だということもあってか、なんとなく気味悪く感じた。
建物を一周しても園田さんはいなかった。何度も名前を呼んでみたけど反応もなかった。
僕の探偵ぶった推理は見事に外れてしまったわけだ。やっぱり足を使って探した方が良さそうだ。
建物の陰。ベンチが置いてある東屋の裏。女子トイレは男だから入れない。一応、トイレの外から園田さんの名前を呼んでみたけど、返事は無かった。
どこを探しても園田さんはいない。それでもまだ探していない場所も多い。
次は坂を上って、この敷地で一番高い位置にある砂利の駐車場へと向かった。そこは割と急な坂を上らないと辿り着けない場所だ。まだまだ歩くのに不安が多い園田さんには来れないだろうと途中で引き返すことも考えた。だけど、万が一があるかもしれないから、向かうことにする。
そこはたまにドクターヘリの離着陸を見ることができる場所だった。
駐車場にたどり着く。たった数十メートルの坂とはいえ、夏の外気はそれだけで体力を奪い、運動不足気味の僕は軽く肩で息をした。
大きく息を吸い込んで名前を呼んでみる。返事はない。やっぱりここには居ないみたいだ。
僕は、すぐにその場所から離れようと歩き始める。
その瞬間、声が聞こえた気がした。
僕は、「園田さん!」と、さっきよりも大きな声で名前を呼ぶ。
やっぱり、どこかから微かに声が聞こえる。
まさか本当にこんなとこにいるのか? あの急な坂を後遺症で左足が動かし辛くなっている園田さんが上ってきたのか。そんなことを考えながら何度も名前を呼んだ。返ってくる声が遠ざかると、そっちの方向にはいないと判断して引き返す。
それを繰り返していくうちに、どうやら砂利の駐車場から一番近い建物の裏から声がすることがわかった。僕はその建物の裏側へと向かう。すると、こちらに背を向けて蹲った、赤いパジャマを着た華奢で栗色の髪の女の子を見つけた。
「園田さん、こんなとこで何してんの」
僕は溜息交じりに声をかけた。
園田さんの背中がびくりと一瞬、強張ったのが見てとれた。
恐る恐るこちらに向けた顔は青ざめていて目は真っ赤だ。頬に涙の痕が残っている。
遠くから蝉の鳴き声に混じって、バイクのエンジン音が聞こえてきた。
「わか月、くん」
園田さんは、か細い声で僕の名前を口にした。
「とりあえず園田さんのお母さんに知らせるから」
そう言って、ポケットから電話を取り出す。
「わか月くん。けいさつに、電わして!」
園田さんが突然、涙で枯れた声でそんなことを口にした。
「はあ?」
僕は眉間に皺を寄せて冷たくそう言い、大きな溜息をついた。
「まあそれは置いといて、園田さんのお母さんに電話するから」
「そのまえに、けいさつに!」
僕は園田さんの言葉を無視して、礼子さんに電話をかける。
『若月君! いたかしら?!』
ワンコールも鳴らないうちに礼子さんは出た。心配で苦しそうな声だった。
「はい、上にある砂利の駐車場から近い建物の裏側にいました」
僕は落ち着いた口調で伝える。礼子さんは僕ではなく、近くにいるらしい看護師か誰かに『見つけたみたいです』と伝えているのが聞こえた。
その後、すぐに向かうからと礼子さんは言って電話は切れた。
「今から園田さんのお母さん達がくるから。とりあえず、ここにいて」
「わか月くん。けいさつには? はやく、逃げなきゃなの!」
園田さんは壁に手をついて立ち上がると、すがりつくように僕の服を右手で握った。
「何があったのさ。それに逃げなきゃって、どうやって」
上目気味に見つめてくる園田さんの目を見ないように、目を逸らす。
「あそこから、ヘリコプターが飛ぶんだよね? それにのって、逃げるの!」
園田さんが、僕の背中の後ろへと視線を向ける。その先には、別の病院がある。
「ヘリって、ドクターヘリのことだよね? 無理だよ」
僕は冷静に園田さんにそれに乗ることはできないと伝えた。
園田さんの表情が絶望に変わる。声を震わせながらどうして乗れないのかと聞いてくる。
「だって、あれは病気とか怪我の人を迅速に運ぶために飛ぶんだから」
「だったら、わたしは病気だよ。だから、乗れるよね」
「いや、無理だって」
「どうして? どうして乗れないの! わたしだけ、なかまはずれなの?!」
園田さんが突然ヒステリックに金切り声を上げた。その声が僕の鼓膜を刺激して、きんきんと耳の奥が痛んだ。
「仲間外れとかじゃなくてさ」
口にした言葉に溜息が混じる。どうやって説明したら良いかわからない。
「それで、なんで園田さんはこんなとこにいるのさ」
ヘリに乗れる乗れないという押し問答を繰り返すのが面倒になって話題を変える。それがわかれば、園田さんが逃げようとした理由がわかる。
「わか月くん」
園田さんがまた僕の名前を口にした。
「なに?」
首を傾げて園田さんを見つめる。
園田さんは、「あのね」と前置きを置いた後、物凄く真剣な表情で見つめてくる。その表情はどこか怯えているように見えた。そして、リップが塗られた艶やかな唇を僅かに動かして、逃げようとした理由を口にした。
「病院が、せんきょされたの。だから、逃げなきゃ。いえに帰りたいよ」
病院が占拠された。そう言っているのはわかった。でも、どうして占拠されたと思ったのか、その理由がわからなかった。
僕の胸に巣食っていた『黒』が更に広がり、より濃い漆黒へと変わっていくのを感じる。
「誰に占拠されたってんだよ」
自分でも寒気を感じるほど、冷たい口調で尋ねる。
「おじいちゃんと、おばあちゃんたちに」
園田さんは怯えた表情で、声を震わせながらそう言った。
後ろから砂利が踏まれる音が聞こえた。だけど、その音が聞こえると同時、
「いい加減にしろよ!」
僕は、がなり声で怒鳴っていた。
「なんだよそれ?! おじいちゃんおばあちゃんが病院を占拠した? 意味わかんねえよ! なんでそんなことを思ってんだよ! んなわけねえだろうが!」
ダメだ。
「それでみんなが迷惑かけられてるのがわかってねえのかよ! みんな園田さんに振り回されっぱなしだ! ご飯のことを泥水って言ったり、リハビリを拷問って言ったり。挙句の果てに病院が占拠された? そんなこと言ってる自分がおかしいって思わねえのかよ!」
言葉が止まらない。
「散々人に当り散らして自分の殻に閉じこもって、みんな困ってんだよ。それでも辛抱強く園田さんの為にご飯を用意してくれて、リハビリの為の時間も作ってくれてる。礼子さんも毎日来て、園田さんが何かをするたびに頭を下げてんだよ! それも全部、園田さんのせいなんだよ!」
感情が抑えられない。
「なあ、教えてくれよ。それ本気で思ってんの? 病院が占拠されたって、本気で心からそう思ってんのか?! 本当はただの嘘なんじゃねえの。病気を盾にして、思い込みをしてるって演技して帰ろうとしてんじゃねえの?! なあ、どうなんだよ。教えてくれよ。もうこれ以上迷惑かけんなよ! 本当は倒れた時にそのまま死」
自分の言葉に我にかえる。僕は確かに今、「そのまま死んでいれば良かった」と言いかけた。瞬間、肩を誰かに掴まれた。力強く体を引っ張られて、僕は後ろを向いた。
辺りに激しく叩かれた音が響き渡った。遅れて左頬が痛んだ。強烈な平手打ちを叩き込まれたことを理解した。
「あんた最低だよ」
聞き覚えのある、冷たい口調。
そういえばさっきバイクの音も聞こえてたっけな。
「ナコは全部、本気で思ってるに決まってんじゃん。あんた本当に最低のクズだわ。もうここには来んな。帰れ」
視線を、平手打ちをしてきた相手、千堂さんに向ける。
殺意が篭っているような視線で僕を睨みつけている。髪も結わずに一目散に来たのか髪は下ろしていた。
僕はその場から歩き始める。千堂さんの後ろに看護師が苦笑いで立っていた。その横で、目を伏せて今にも泣きそうな礼子さんの姿が見えた。
僕はその横を何も言わずに通り過ぎようとした。
「謝れよ!」
千堂さんが僕に向かって怒鳴った。
「・・・・・・すみませんでした」
僕は立ち止まり、誰にも目を合わせずに顔を伏せたままポツリと口にして、また歩きだす。
一歩、二歩、進んだところでまた背中越しに声をかけられた。
「わか月くん!」
今度は園田さんの声だった。
また立ち止まる。だけど振り返らない。あんなことを言ってしまった後だから、園田さんの顔を見れなかった。
それなのに、園田さんは相当酷いことを口にした僕にこう言った。
「また来てね。わたし、待ってるよ」
不安混じりのその言葉に、僕は何も返せなかった。走ってその場から逃げた。
駐輪場で自転車に跨って、下を向いたままペダルを漕いで家に向かう。
帰り際、僕は後悔と懺悔で胸がいっぱいだった。頭の中で僕の怒鳴り声を、悲しそうな表情で聞く園田さんの姿を思い出していた。赤いパジャマが砂埃で汚れていた。
あの急な坂道を、園田さんは何度もこけながら上ったということは、その汚れた姿から明白だった。そこまでして園田さんが上ったのは、そこに行けば逃げられると思ったからだ。
逃げられると思った理由は、僕が以前、ドクターヘリの話をしたことがあって、それを覚えていてくれたからだ。
病気になって苦しんでる園田さんに、怒鳴り散らした僕は感情を抑えられない怪物みたいだ。
帰り際に見る景色は、あんなことがあってもいつもと変わらない町並みで、初めて僕はこの風景を怖いと感じる。
何があっても変わらない景色は、どれだけ僕達に無関心なんだろう。
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