20話:若月「林檎の芳香剤の香り」
園田さんの病室の前に到着する。ドアをノックすると、中からか細い声で返事があった。
ドアを開くと、林檎の芳香剤の香りがふわりと病室から廊下に抜けて、鼻をくすぐった。
「わかつきくんだ。よかった」
園田さんは布団の上で上半身を起こし、壁に体を預けていた。栗色のウィッグから覗かせた表情が少し安堵したように見えた。うっすらと化粧をしているのがわかる。
頭の中にさっき聞いた千堂さんの言葉が過ぎった。
いきなりリハビリの話をするのは良くないかなと空気を読む。何も知らないといった様子で、「昨日は来れなくてごめん。用事があって」と、さらりと嘘をついた。こんなに自然と嘘をつけてしまう自分が少し怖く感じた。
「ううん。わかつきくんにも、ようじはあるし、きにしてないよ」
園田さんが微笑んだ。麻痺が残る左頬は動いた様子はなかった。一昨日までは何とも思ってなかった目に見える後遺症が、今の僕には深く胸に突き刺さり、目を逸らしてしまった。
病室がいつも以上に綺麗に整頓されている。その片付いている病室には不釣合いなくらい、園田さんが座っている敷布団のシーツが乱れていた。
ああ、と察してしまった。
きっと園田さんは、リハビリに行かないと言って暴れたんだ。物を投げつけたりもしたのかもしれない。それを看護師か礼子さんか千堂さんかはわからないけど綺麗に片付けた。だけど、園田さんが座っている布団は綺麗にできなかった。近づくことすら拒否をしたのかもしれない。だから、シーツは不自然に乱れたままなんだろう。
病室を見回しただけでそれを想像できてしまい、胸が張り裂けそうなくらい痛む。園田さんだけじゃなくて、乱れたシーツも見られなくなる。
息苦しい。長居できそうにない。できるだけ早く外に出たい。逃げたい。そんな思いが僕を支配した。
「わかつきくん」
ポツリと僕の名前を園田さんが呼んだ。
僕は目をそちらに向けられず、顔を伏せたまま「なに?」と小さく聞き返す。
園田さんはすぐには何も言わず、空調の音と外から聞こえてくる蝉の鳴き声だけが響く。
少しして洟をすする音がした。そのすぐ後に、小さな呻き声が聞こえた。
「園田さん?」
そこでやっと、僕は園田さんに顔を向けた。
園田さんが右手で掛け布団を握って目に当てている。肩が小刻みに揺れていて、泣いているのがわかった。
「わたし、ころされるの?」
胸をナイフで突き刺されたみたいに激痛が走った。顔が熱くのなるのを感じる。
園田さんはまた突拍子も無い思い込みをしている。それはわかった。だけど僕は「なんで?」と、聞くだけで精一杯だった。
胸に巣食った黒が、また広がっていくのを感じたからだ。
「このびょういん、おかしいよ。びょういんは、びょうきをなおすところなのに、わたし、なおらないもん」
「そんなことないよ」
気休めだ。
「りはびりだって、いくらしても、ひだりて、うごかないもん」
「そんなことない。少しずつ、動くようになるよ」
ダメだ。やっぱり気休めしか言えない。これ以外の言葉が思いつかない。
園田さんと二人きりでいられない。どんどん僕の心が黒くなっていく。
「きっと、りはびりじゃなくて、ごうもん、なんだよ!」
園田さんが、ヒステリックに声を荒げた。
痛い。息苦しい。寒さも感じる。
「ごめん、この後また用事あるから。もう、帰らなきゃ」
僕はまたそんな嘘をついて逃げるように病室から出た。
ドアが閉まる寸前、「ごめんなさい」と言った園田さんのか細い声が聞こえた。
返事はできなかった。口を開いたら「謝るなら最初からそんなこと言うな」と、また怒鳴っていたかもしれない。
怒鳴るくらいなら聞こえないフリをした方が良い。そう考えた僕なりの最善策だった。
閉まったドアに背中を預けて、天を仰ぐ。
僕はなんて短気なんだろうか。
園田さんが口にした、「病院が自分を殺そうとしている。リハビリは拷問だ」という言葉を聞いて頭に血が昇った。それらは後遺症のせいだとわかっているのに、「それは園田さんの思い込みだ。馬鹿みたいなことを言ってみんなを困らせるな」と怒鳴ってしまいそうになった。
やっぱり僕はお見舞いに来たらダメなんだろうか。
園田さんの意味不明な言葉を聞いて、平常心でいられる気がしない。
どんどん園田さんを好きではなくなってしまいそうな気がした。
太陽が照りつける猛暑の中を、ゆっくり自転車のペダルを漕いで帰る。風が吹くと、滲んだ汗がひやりと冷たく感じた。
家に帰るまでの風景は僕の気持ちとは裏腹に、様々な色で彩られたいつもと変わらない町並みだった。
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