19話:若月「リハビリが拷問?」
◆◆◆
園田さんが取り乱した姿は相当ショックだった。
病院がいじめてくるなんて、ありえないことを本気で口にする園田さんに、僕の胸に巣食っていた黒い点が更に広がったのを感じた。
一度冷静にならないといけない。次の日は初めてお見舞いに行かなかった。代わりに、くも膜下出血についてもう一度調べ直した。家族がそれを患ってしまった人のブログを読み漁った。
やっぱり園田さんみたいに思い込みや感情の調整ができなくなる人が多いみたいだ。それを確認して、声を荒げてしまった自分を思いきり殴り飛ばしたくなった。だけど自分自身を殴るのは難しい。頭を勉強机に打ちつけた。
園田さんはくも膜下出血になったせいで感情の調整がまだ上手くできない。それは仕方のないことだ。それに比べて僕は、健康体のくせして感情を抑えられなかった。
こんなの幼児と変わらないじゃないか。
とにかく園田さんにちゃんと謝ろう。
そう決めて一日だけ間を開けて、また病院に向かった。
僕がどれだけ反省しても、夏の暑さと蝉の鳴き声のボリュームは変わらない。世界は本当に人間の為にあるんじゃないんだな、と再確認した。
病院に到着する。午前の外来の時間は終わっている。いつもなら誰もおらず、ガランとしているロビー。椅子に座り、黒いTシャツを着た見覚えのあるポニーテールの後姿が見えた。
早く来すぎたか。ポケットからスマホを取り出した。午後二時半と表示されていて、むしろいつもより遅いくらいの到着だった。
声をかけようか迷う。そもそも僕と千堂さんは仲が良いわけじゃないし、声をかける義理もない。共通の話題といえば園田さんのことだけど、園田さんの様子は病室にいけばわかる。
このまま気付かなかったことにして横を通り過ぎよう。
どうか気付かれませんようにと願いながら歩く。
「若月」と声をかけられた。
立ち止まって顔を向ける。千堂さんがデニムパンツを履いた足を組んだまま、こちらに真っ直ぐ視線を向けていた。
千堂さんが手をこまねいてこっちに来いと催促してくる。声をかけてきたんだからそっちから来いよ、とは思ったけど言わない。僕はあっさりと従った。
千堂さんは訝しげに問いかけてきた。
「あんた、昨日なんかあったの?」
心臓がギュッとなった。
昨日、僕がお見舞いに来なかったことを知られているんだとわかった。
「外せない用事があったんだ」
嘘をついた。
嘘だとバレる可能性も考えたけど、千堂さんは僕には興味が無いのが助かった。「あっそ」と呟いただけで、それ以上の追求はなかった。その代わり、別の質問を投げかけてきた。
「ナコさ、一昨日なんかあった?」
更に胸が締め付けられる。
僕が怒鳴ってしまったということまで千堂さんに筒抜けなのかと不安になった。だけどそれは違うってことが、千堂さんの暗い表情を見て悟る。
もし僕が声を荒げたことがわかっているなら、こんな暗い表情ではなくて猛獣のような視線を向けてきているはずだからだ。
「なんで?」
僕のことを言っていないとすれば、どうして千堂さんは一昨日のことを聞いてきたのだろう。
千堂さんは僕の表情から何かあったのかを読み取ろうとしているのか、じっとこちらに鋭い視線を向けながら教えてくれた。
「昨日からリハビリをしなくなった」
胸がざわつく。言葉がでない。
ご飯のことを聞かれれば、何かしら表情に出ていたかもしれない。でも、リハビリをしなくなったということに関しては全く理由がわからない。
それを千堂さんも察してくれたのだろう。
「あんたもわからないか」
そう呟いた後、園田さんに何があったのかを教えてくれた。
「リハビリの時間になると、拷問だって泣き喚くようになった」
リハビリが拷問? どうして急にそんなことを言い出した。何故ご飯だけじゃなくて、リハビリまでそんな風に考えるようになったのかわからない。
いや、違う。わからないなんて、そんなことを言い出した理由を探すな。これはくも膜下出血の後遺症なんだ。昨日調べただろ。思い込みや妄言を吐くようになることもあるって。だから理由なんてない。園田さんは思い込んでいるだけだ。
それはわかっているのに、僕の知っている園田さんとは別の人物になってしまったみたいで苦しい。
尚も言葉が出てこない僕をよそに、千堂さんは言葉を続ける。
「あたしもリハビリするように言ったんだけどダメでさ。あんたからも言ってくんないかな」
「わかった」
僕が頷いたのを見て、千堂さんが「そんじゃ」と言葉を残して病院から出て行く。歩きながら髪ゴムを外す。髪の降りた背中を見て、それを言う為に残っていたんだなと悟った。
本当に千堂さんは園田さんのことを大切な友人だと思ってるんだな。それに比べて僕は、一昨日声を荒げてしまった。
そんな自分が更に惨めになって嫌になる。
今度こそ自分の感情を抑えて、優しく冷静に園田さんと話をできるだろうか。いや、今日は一昨日とは違う。昨日お見舞いに来るのを止めて頭を冷やした。だから大丈夫だ。
でも明日は、明後日は、その次の日は、来週は?
そこでようやく気付いた。
出来ていると思い込んでいた覚悟なんて、全く覚悟のうちに入っていなかった。
園田さんは病気になったんだ。それでも一命を取りとめて、どんどん回復している。それで一番辛い現実を乗り越えたと考えていた。手術から目を覚ました時に目にした後遺症も、それらは全部ネットや本で調べてわかっていたことだからと耐えることはできた。だけど、それは後遺症の上澄みを掬っただけだったのかもしれない。調べただけではわからなかった、後遺症が引き起こす更に重い現実が底に沈んでいることに気付いた。
一昨日、後遺症による本来の現実が少し顔を覗かせただけで、声を荒げてしまった。
そんな僕が、このまま園田さんと付き合っていけるのだろうか。そんな不安が頭を過ぎった。
突然、病室に行くのが怖くなる。足が竦んで動かなくなった。
ああ、なんて弱くて愚かな奴なんだ。
怖気つきそうになる自分をクソ野郎だと心の中で反吐を吐いた。
だけど、ここで病室に行かなければ僕はもっと最低な人間のクズになる。
重い足を無理矢理動かして非常階段を上る。これまではゲンを担ぐために上っていた階段も、少しでも病室に着くのを遅らせている為のような気がして嫌になる。それと共に、針で突いたくらいだった胸の黒い点が握りこぶしくらいに大きくなっているような気がした。
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