14話:園田「若月くんは、私の彼氏だ」
☆☆☆
長く寝ていた気がする。寝すぎて頭が呆けているせいか、目を開くとそこは、色褪せた灰色染みた世界だった。
視界が酷くボヤけて見えた。そこに何かがあるのはわかるけど、輪郭がはっきりとしない。体が重たくて息苦しさも感じる。自分が今、どういう状況にあるのかもわからない。
声が聞こえてきた。その声には覚えがある。
私は、自分でも何て言ったかわからないけど返事をした。
声がほとんど出ない。発音もおかしい。唇の左側が動かせない。この唇は誰のものなの?
それでも、私の声はそこにいる人には届いたようで、滲んだ視界の先にいる誰かが「弟じゃないけどね」と言ったのが私の耳に微かに届いた。
その後も何か会話をしたような気がする。その人以外の誰かとも会話をしたような気がする。だけど、内容が全く覚えていられない。
LINEで一つ会話をするたびに消去していくみたいな感じで、何を言われたのか、どう返したのかが頭に残らない。
だめだ。眩しくて目を開いてられないや。少し、目を閉じよう。
次の瞬間、声をかけられて瞼を開く。
色鮮やかな絵を誰かが私に見えるように持っているのがわかった。
この絵、凄く綺麗だな。もっと見てたいな。
そう思いながらも、すぐに眠たくなって目を瞑る。近くで何かを置かれたような音が聞こえた。その音に反応して起きると、食器のようなものが置かれているのがわかった。食べ物の香りがした。同時にお腹が減った感覚を覚えた。
横に立っているお母さんが、スプーンを手に「どれが食べたい?」と優しく問いかけてきた。
ああ、やっぱりこれはご飯なんだ。やった。
声には出せないけど、心の中で喜んだ。
視界に入る目の前の食器の中に視線を落とす。黄色いスープみたいなもの。茶色いスープみたいなもの。緑色のスープみたいなものがある。
あれ、なんだろう。さっきよりも視界がボヤけてない? うーん、どうだろ。ついさっきのことなのに、どんな風に見えてたのか覚えてないや。
とにかく、何から食べようかな。どんなご飯があるのかな。
食器の中に視線を向ける。
黄色いドロドロとしたもの。茶色いドロドロとしたもの。緑色のドロドロとしたものがある。なんだろ。これさっきも見た気がするな。うーん、どうだろ。見てないかも。まあいいや、ご飯を食べよう。
左手を動かしてミキサーでスープにしたような黄色い何かを指差そうとする。だけど、左腕が重しをつけられたように重くて動かせない。自分の腕だと思ってたけど、違う人の腕なのかな? しょうがないから、右手でスムージーみたいな緑色の液状のものを指差した。
「うん、これは園田さんと一緒に登った山の絵だよ。覚えてる?」
男の子が優しい声で私に話しかけてくれた。
あれ、ご飯はどうしたんだろう? 目の前にはもうないみたい。まあいいや。それよりも、凄く綺麗な色の絵。この絵に描いてある山に登ったことあるんだ。覚えてないや。少しだけ、絵に触ってみてもいいかな。触ったら、思い出せるかな。
左手を動かして触ろうとするけど、左手がとても重くて動かせない。他の人の腕なのかな。あれ、なんだか前にも同じようなこと考えた気がするな。まあいいや、それなら右手でいいや。私は右手をゆっくり動かして、緑色のそれに指を近づける。
「これがいいのね? はい、口あけて。あーん」
お母さんが緑色のスープをスプーンで掬って、私の口の中に流し込んでくれた。
美味しい。久しぶりに食べたそれが、とても美味しい。山の絵ってこんなに美味しいんだ。違う。これは絵じゃなくてご飯だ。だから美味しいんだ。絵は食べられないもんね。
「また零れちゃったわね。ごめんね、お母さんいつも下手で。毎回零しちゃうね」
お母さんがそんなことを言いながら、私の左頬辺りをタオルで拭ったのが見えた。拭われているのに、触られてる感覚はなかった。
また零れた? 前にもそんなことあったの?
まあいいや。美味しいから、なんでもいいや。
「今日から病院の敷地内だけだけど、車椅子に乗って外に出ていいみたいよ」
ご飯の途中、お母さんが突然そんなことを言い出した。そうなんだ。そういえば、ずっとベッドの上にいたな。たまには外に出たいな。
その前にご飯を食べなくちゃ。あれ、ご飯はどこだろ。さっきまでまだまだあったのに、なんでもう目の前に食器が無いの?
「車椅子でお散歩するから、はりきって食べてくれて、お母さん嬉しいわ」
そっか、全部食べたんだ。全部、いつの間にか食べちゃってたんだ。
あれ、なんだろこのベッド、凄くガタガタ揺れる。不良品なのかな。
「ひな、見て。花壇のお花が綺麗ね」
あっ、ほんとだ。花が咲いてる。色褪せた花だな。なんていう花なんだろう。それにいつの間に部屋に花なんて飾ったんだろう。あれ、ここは本当に部屋? 違う、外だ。ベッドじゃなくて車椅子に乗ってる。外は暑いのか寒いのかわからない。
ちょっとお腹が苦しくなってきた。吐きそう。でも、ご飯なんて食べてないし、吐くものなんて無いよね。
「ひな、ごめんね? 急に動いて苦しかったよね。さっき食べたご飯、戻しちゃったね」
お母さんなに言ってるの? ご飯なんて食べたっけ。なに食べたかな。ダメ、思い出せないよ。それよりも、私の方こそごめんね。吐いちゃってごめんね。
お母さんが車椅子を押して、急いで部屋に戻ろうとしているのが理解できた。私はただそれに身を委ねることしかできなくて、車椅子の上でボーッと色褪せた世界を眺めていた。
ふと、とても色鮮やかでカラフルな男の子が視界に入る。
男の子の服装は黒い学ランで、髪の毛は癖っ毛の強い黒色。全体的に黒が多いのに、その色は花や空なんかよりも鮮やかに輝いて見えた。
男の子のきらきらした小さな三白眼の目と私の視線が合致する。
その瞬間、男の子を起点にして灰色の世界が色味を帯びていく。同時に胸がざわついた。
やだ、恥ずかしい。
どうしてだろう。男の子にはこんな姿見られたくないって思った。こんな姿を見られたら嫌われちゃうって凄く胸が締め付けられた。
恥ずかしさと嫌われるかもっていう不安がどんどん込み上げてきて、目から涙が溢れだす。涙を止められない。せめて顔だけは見られたくなくて、私はあっちを向こうとする。でも、体が思ったように動かない。
男の子との距離が近づいてくる。男の子はとても驚いた表情をして固まっている。お母さん、嫌だ。止まって、男の子から離れて。嫌だ、嫌だよ。
お母さんは車椅子を押して男の子のすぐ前を通り、建物の中に入っていった。
私の頭の中に男の子の名前が思い浮かんだ。
若月くん。
そうだ、若月くんだ。私が見てる世界に突然現れて色を持ち込んでくれたあの男の子は若月香くんだ。若月くんは、私の彼氏だ。
そっか。だから、私は見られたくないって思ったんだ。
若月くんは凄いな。夜道を照らす月みたいに、私の世界にカラフルな色を届けてくれた。
振り返って若月くんの顔を見たいと思った。でも、服をこんなに汚してしまっているのは見られたくない。結局、振り返ることはできず、車椅子に揺られて病室へと戻った。
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