15話:若月「リハビリ病院に転院した」
◆◆◆
園田さんが倒れてから、一ヶ月半近く経った七月の下旬。
梅雨は明けて、蝉が鳴き始めた。熱されたアスファルトが蜃気楼を作り出し、夏独特の季節の香りが鼻をくすぐる。見上げれば、濛々と天の頂まで届きそうなほどに高く舞い上がった白い入道雲が、目も眩むほどの青い空に我が物顔で浮かんでいた。
高校は夏休みに入り、本格的に学生の夏がやってきた。
僕は、毎日園田さんのお見舞いに通っている。
この一ヶ月半で園田さんの身に良い変化と悪い変化が激流のように押し寄せてきた。
まず悪い変化。
だけど、その二つは病院側の迅速な対応で事なきを得た。
次に良い変化。点滴で直接栄養を送っていた状態から、ご飯を食べられるようになった。とは言っても、
次に、HCUから一般病棟に移動になった。同時に病院の敷地内だけだけど、車椅子に乗って散歩にも行けるようになった。
だけど、初めて散歩に行った際、園田さんは久しぶりに座って体を揺られたせいか途中でご飯を戻してしまった。終業式の後、お見舞いにきた病院の玄関先で僕は、吐瀉物で衣服を汚した園田さんの姿を目撃してしまった。
園田さんは、僕を見て何か呻きながら体をもぞもぞと動かしていた。何か言いたかったのかもしれないが、僕にはなんと言おうとしたのかわからなかった。
園田さんの身には日々何かしらの変化がある。僕にとって一番大きな変化は、園田さんが僕のことをを思い出したことだ。
『わかつき、くん』と、たどたどしいけど、ちゃんと名前を呼んでくれるようになった。僕のことを存在しない弟ではなく、彼氏だとも認識してくれている。
それは単純に嬉しかった。このままどんどん回復していくんだろうなって希望が見えた。事実、日に日に喋ることのできる言葉も増えていった。
だけど、それとは別に残念なこともある。
園田さんに、後遺症が残ってしまった。
少しだけ、園田さんの体の機能が低下してしまった。
それと、記憶や意識が回復していくにつれて、園田さんは自分の状況を理解し始めた。そのせいか、感情的になってよく泣き、暗い顔をする日が増えていった。
落ち込むことが多くなった園田さんとは裏腹に、医者も脅威的だというスピードで病状は回復していく。
僕自身も、しばらく描いてなかった絵をまた描くようになった。完成したら持っていくようにした。
園田さんは絵を見ると、直前まで落ち込んでいても右頬を少しだけ上げて微笑んでくれた。それが刺激になって、少しでも良い方向に進んでくれたら、と願わずにはいられなかった。
八月の初旬から中旬に差し掛かった頃、園田さんは今入院している病院と同系列のリハビリ病院へ転院することになった。転院できるということは、着実に回復しているってことだ。
それがただ嬉しくて、僕も礼子さんも、千堂さんも心から喜んだ。
園田さんが転院したリハビリ病院は、手術をした病院から北に六キロほど離れた場所にあった。
リハビリ病院の周りは田畑や木が多い。日中は蝉がよく鳴き、日が暮れると蛙の合唱が始まる。他にめぼしい建物と言えば、歩いて五分くらいの場所にコンビニがあるのと、リハビリ病院の隣に別の総合病院が建っているくらいだ。
隣の総合病院にはドクターヘリが配備されていて、リハビリ病院の駐車場からドクターヘリの離着陸を見るのは見応えがあった。そのことを園田さんに話すと、「見てみたいな」と言っていたので、歩いて外に出られるようになったら見に行く約束をした。
手術をした病院は、面会時間が決められていたが、リハビリ病院は夜の八時までなら好きな時間にお見舞いに行って良い。
夏休みということもあって、僕は朝から一日中病院に居たかったけど、午前中は毎日千堂さんがお見舞いに行っている。
僕のことを良く思っていないらしい千堂さんと鉢合わせになるのは気まずい。だから、午前中は家で宿題をしたりや絵を描いて、午後にお見舞いに行く。それが夏休みに入ってからの日常になっている。
今日もまた、昼ご飯を食べてから蜃気楼がたちこめるアスファルトの上を自転車でゆっくりと走る。家からリハビリ病院までは、ゆるやかな上り坂になっていて、片道を走るだけで太ももがパンパンになる。
今日は少し遠回りをして図書館に寄り、絵本を借りた。
園田さんは病気になる前とは違ってゆっくりな口調ではあるが、会話をするのには問題はない。だけど、文字を読むのには一苦労しているようだった。
読めない漢字も多く、平仮名を読むのも苦労しているみたいだ。それでも、リハビリをすれば回復する可能性は高いらしく、その為の絵本だ。
リハビリ病院に到着する。ポケットからスマホを取り出して時間を確認する。午後二時を少し回っていた。丁度、園田さんがリハビリを終える頃だ。
老人ホームや保育所がある広い敷地内を歩いて、リハビリ病院の自動ドアを潜る。一階の自販機で飲み物を買って非常階段へと向かう。
園田さんが入院しているのは四階。エレベーターはあるけれど、ゲン担ぎで毎回非常階段で四階まで上がっている。
四階に到着すると、アルコールスプレーで手の殺菌をしてから、園田さんのいる病室へと向かった。二人部屋で、隣に脳梗塞を起こしたらしい年配の女性と同室。並んでいるベッドの奥側が園田さんのベッドだ。
しかし、病室に入った所で違和感を覚えた。
いつもなら病室の入り口からでも見える園田さんの私物が見当たらない。
恐る恐る部屋に入って、奥を確認する。
そこに園田さんはいなかった。ベッドも綺麗に片付けられていた。
隣の女性は談話室にいるのか留守だった。病室を出て、ナースステーションへと向かい、園田さんのことを尋ねた。
部屋を移動したとのことだった。昨日の夜中、園田さんが一人でトイレに行こうとした際、ベッドから立ち上がろうとして、こけて動けなくなった。パニックになった園田さんが、泣き叫びながら何度も助けを呼んだらしい。そういう事情もあって、今日の朝にトイレから一番近い個室に移動することになったと教えてくれた。
僕は頭の中で、夜中にこけて泣き叫ぶ園田さんの姿を思い浮かべる。可哀想だという思いで切なくなった。
看護師にお礼をして、教えてもらった病室のドアを開いた。
冷房の風が開いたドアから廊下に向かって流れ出て、僕の火照った体を撫でた。
部屋の中はかなり整頓されて片付いていた。
ベッドは無かった。その代わり、壁際に分厚いマットレスが地面に敷かれていて、その上に敷布団と掛け布団が置かれている。そこに園田さんは横たわっていた。チョコ色とクリーム色のユニットマットが下に敷かれているのが、マットレスの端から見えた。
布団のすぐ横に点滴のスタンドがあり、園田さんの腕に向かって管が伸びている。
昨日来たときにはこんなものは無かった。もしかして、昨日こけたときに怪我でもしたのだろうかと、不安になる。
園田さんが寝ている反対側の壁際にパイプ椅子を広げて座る。軋んだ音が微かに鳴った。
静かな寝息が聞こえてきた。その寝息を聞きながら、園田さんの様子を観察する。
いつもはしていない化粧をしているけど、顔色は大丈夫そうだ。頬は少しこけているように見えるが、倒れてから一ヶ月と少しの間、口から食事をとれていなかったから仕方ないことだ。
他に変なところは無いか、注意深く見てみたが問題は無さそうだ。それじゃ、この点滴はなんだろう。たまに頭痛がすると言っていたし、それを和らげる薬なのかもしれない。それだったら、外見でわからなくても仕方ない。
そのことは園田さんが起きてから尋ねることにして、僕は持ってきた鞄の中からスケッチブックと色鉛筆を取り出した。描きかけの園田さんの絵の続きを描く為にスケッチブックを開く。
病室を移動して、ベッドから布団に変わってしまっている。でも、寝顔は変わらないから、問題はない。
スケッチブックの紙の上を色鉛筆が走る音が室内に響く。病気になって、頬もこけてしまった。それでも、パーツ一つ一つが整っている園田さんの寝顔はとても美しかった。
睫毛が長く、閉じている目は愛らしい。唇はとても柔らかそうで、鼻は筋が通っていて小高い。千堂さんが買ってくれた栗色でミディアムヘアーのウィッグを、寝ている今も着けている。
寝てるときくらい外せば良いのに。でも女の子だし、やっぱり髪の毛がないのは嫌なんだろうな。
最初はそんなことを考えながら色鉛筆を紙に走らせた。しばらくその音を聞いていると気分が乗ってくる。描けば描くほど、集中力が高まっていく。時間も忘れて没頭する。
どのくらいの時間が経ったかわからなくなった頃、ドアをノックする音が響いた。返事をする前に、音をたてないようにドアがゆっくりと開かれた。
やってきたのは礼子さんだった。ということは今は午後四時頃だろう。
礼子さんは、一日のなかで午前中とこの時間の二度、病院にきていた。しばらくの間、会社の配慮でリモートで仕事をして、時間も短くしてもらっているらしい。
「寝てる?」
「はい」
問いかけに小さな声で頷いてみせる。礼子さんは、園田さんに優しい視線を向けた。そして、そのままの表情でこちらを向いた。
「いつもありがとうね。莉歩ちゃんと若月くんには本当に助けてもらってるわ」
「いえ、来たくて来てるだけですから。そういえば病院なのに布団って大丈夫なんですか?」
病院といえばベッドだという先入観から尋ねた。
「昨日ベッドから立ち上がろうとしてこけちゃったから、ひながベッドを怖がるようになってね。看護師さんが、それなら布団にしましょうって言ってくれたの」
「こけたってのはさっき僕も聞きました。怪我とかはしてないですか?」
「それは大丈夫よ」
怪我はないとのことで安堵する。
「それならよかったです。それと、これはなんですか?」
次に、点滴を指差して尋ねた。
その問いかけに礼子さんは小さく「若月君は食事のときいないものね」と呟いて、困ったように笑みを浮かべた。礼子さんの言う通り、僕はいつも食事の時間にはもういない。
「ひなね、一昨日からご飯を食べてないの」
「えっ」
そんな話、聞いていない。胸がざわついた。
「それでね、食べないから栄養をちゃんと体に与えるために、点滴をしてるのよ」
「どうして食べないんですか? ご飯が美味しくないとかですか」
「まだ液状に近い食事だけど、そういうわけじゃないと思うわ」
「だったらどうして」
僕の追従するような物言いに、礼子さんは少し言い淀む。その姿を見て、自分の失態に気付く。礼子さんは僕に心配させたくなくて、言わなかったのかもしれない。それなのにしつこく訊いてしまったことを反省する。
「ごめんなさい」
「いいのよ。その、これを言うと若月君も莉歩ちゃんもショックかなって思ってね。言わなかったんだけど」
やっぱり僕達のことを考えて隠そうとしていてくれたらしい。
「大丈夫です。僕は何があっても覚悟をしているつもりですし、千堂さんもそうだと思います」
例えば、物を飲み込む嚥下作用に後遺症が残り、そのせいで上手くご飯を飲み込めなくなっているということなら、調べて知っていることだ。全くショックを受けない、といえば嘘になるけど覚悟はできている。
だけど、礼子さんは二度、三度、首を横に振った。どうやら違うらしい。
「それじゃどうして」
礼子さんが静かに息を吸い、声のトーンを沈ませてご飯を食べなくなった理由を口にした。
「ご飯がドロドロなのは病院が自分をいじめてるからだって言い出してね」
「えっ」
僕の口からは、漏れたようにそれしか言葉が出なかった。
病院が園田さんをいじめてる? そんなことは絶対にない。液状の食事だって、嚥下機能にまだ不安が残る園田さんの為だ。
それを園田さんは理解をしていないということか。
「一昨日、それでご飯全部ひっくり返してね。今は看護師さんのこと嫌いみたいなの」
胸が痛んだ。いつかできた胸の奥にある黒い点の存在を思い出し、それが少し広がったような気がした。
「昨日の夜中にこけたとき、看護師に助けてもらったんですよね?」
礼子さんは小さく頷いた。
「それでわだかまりは解けたということは?」
「無さそうね。夜中のことだから私は見てたわけじゃないんだけど、助けは呼んだものの、看護師さんには凄くキツイこと言って拒絶したみたいよ」
「そう、ですか」
信じられなかった。
病気になる前の園田さんは、いつもみんなの中心にいて、どんな相手にもころころと太陽みたいな笑顔を浮かべていた。それが今は、いじめられてると言い、助けにきてくれた看護師に対し敵意を剥き出して辛く当たった。その姿が想像できない。
重い空気が病室に漂う。この重さは僕だけが感じていることなのだろうか。いや違う。きっと夏の湿気を多く含んだ空気のせいだ。
そう自分に言い聞かせた。
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