5話:若月「夏の花火大会」

 ◆◆◆


 けたたましい蝉の鳴き声にうんざりだと溜息をついた、八月一周目の日曜日。

 アスファルトの上は蜃気楼がたちこめ、外にいるだけで汗が流れてくるような猛暑。


「夏の暑さの何割かは蝉の鳴き声のせいだと思う」

「私は蜃気楼のせいだと思うな」

「電柱がそこら中に立ってて狭苦しい。それが余計に体感温度をあげてる気がする」


 図書館の窓から見える道路の脇に木と電柱が立つ景色を見ながら、僕と園田さんは冷房の効いた図書館で時間が過ぎるのを待っていた。

 今日は花火大会当日で、僕達は一緒に花火を見に行く約束をした。

 僕は最初、昼間は暑いし夕方頃に集まろうと提案した。


「せっかく浴衣着るんだし、長く着てたいからもう少し早く集まろうよ」


 だけど園田さんがそう言って、早めに待ち合わせすることになった。女子の気持ちはわからないけれど、浴衣は着る方も気分が高揚するのだろうか。

 僕たちは、太陽がまだ高い位置にある昼の三時に集まった。でも、この熱気に浴衣は相当暑いらしく、涼をとれる図書館に逃げ込んだというわけだ。

 園田さんの来ている浴衣は紺地で、黄色の帯に薄桃色の花の柄が描かれている。紺地が夜空、黄色の帯が月で薄桃色の花火が咲いている。そんな光景を思い起こさせる綺麗なものだった。

 それに、容姿端麗で姿勢も綺麗な園田さんの浴衣姿は目眩がするほどに似合っていた。


「私、本見てくるね」


 園田さんが小さく耳打ちをしてくる。ふわりと、甘い桃の香りが鼻をくすぐる。僕は短く「うん」と返事をした。

 可愛らしい鼻緒の下駄でカラコロと歩いていく園田さんの後姿を眺める。栗色の髪を左耳の辺りで一束にまとめてサイドテールにしているのが、いつもと違う雰囲気をかもし出していた。

 園田さんの姿が本棚の陰に隠れる。僕は視線を外に向けて風景を楽しむことにした。

 さっきは電柱が立ち並ぶ光景が更に体感温度をあげていると文句を言った。でも案外この町並は嫌いではない。電柱という無機質な存在と道路の脇に並んでいる柔らかみのある木とのコントラストが胸をくすぐる。

 僕は斜めがけの鞄から、スケッチブックと色鉛筆を取り出した。

 下書きなんて書かずに最初から最後まで色鉛筆で描いていく。中学、高校と美術部ではある。だけど、どちらも名目上の顧問はいるけど、ちゃんと教えてくれるような人はいなかった。そのせいもあって、絵を描く基礎はほとんど知らない。だから好きなように描いていく。

 電柱の古びた灰色。植えられた木から若々しい緑の葉が生い茂っている。図書館の敷地内の地面は、ほとんど白に近いタイル調で、道路のアスファルトは濃い灰色だ。道路を挟んだ向かいには警察署と青色がイメージカラーのコンビニが並んでいる。

 ふっと短い息を吐いた。とりあえずベースとなる絵はできた。ここで一旦絵を描くのは止めにする。続きは家に帰ってから他の色を足して混ぜていけば良い。

 まだ園田さんの姿は無い。図書館内の時計を確認する。本を見てくると言ってから四十分くらいは経っていた。

 もしかしたら園田さんの美貌に、悪い虫が寄ってきているんじゃないか。そんな不安を覚えて、少し慌てるようにスケッチブックと色鉛筆を鞄に入れ席を立つ。

 図書館の中を歩く。インクと古くなった紙の匂いが鼻をくすぐる。一つ一つの棚の間に視線を向けていき、小説のコーナーで立ち読みをしている園田さんを見つけた。

 僕の不安は外れてくれて、安堵した。

 すぐに声をかけようと思ったけど、園田さんの横顔を見て、僕は息を飲んだ。涙が見えたからだ。

 どうやら今は本に没頭しているらしい。そんなときに声をかけるのは忍びない。僕は棚から適当な本を手にとった。館内の中央に設けられているソファーに向かって腰掛け、その本に視線を落とした。


 

「若月くん」


 遠くから僕の名前を呼ぶ声が聞こえて飛び起きた。

 辺りを見回す。一瞬、ここがどこだかわからなかったが、すぐに図書館だということを思い出した。


「よく寝れた?」


 隣に座っている園田さんが、大きな目を三日月みたいに細くさせて笑みを浮かべた。


「あれ、僕寝てた?」

「うん。気持ち良さそうだった」

「読んでた本はつまらなかったけどね」

「あはは、そうなんだ」


 園田さんが口元に手を当てて、ころころと笑った。いつもクラスメイトに向ける笑顔と同じ笑顔だった。


「ところで園田さんは何を読んでたの?」

「えっとねー、これ」


 そう言いながら僕にタイトルが見えるように持った。それは、少し前に流行った恋愛小説で確か映画にもなったはずだ。感動作と銘打たれたその本は、ネットのレビューでは、陳腐な展開と酷評する人も一定数いるような、よくある設定の物語。


「あ、似合わないって思ったでしょ。私に恋愛ものなんて」


 園田さんは恥ずかしくなったのか、手に持った本で顔を隠した。その姿がとても愛らしく、僕の胸は不覚にもときめいた。


「そんなことないよ。女の子は恋愛小説で泣くくらいの方が愛嬌がある」


 僕は似合わないと言った園田さんをフォローしようと、何気なくそんなことを言った。


「え、泣いてるの見たの?」


 園田さんは隠していた顔から目だけを覗かせる。僕はしまったと苦笑いを浮かべた。


「うん、見た。ごめん」


 園田さんは、顔を赤くさせて俯いてしまった。

 その姿はとても可愛らしくて、完全無欠のように思える園田さんも年頃の女子なんだなと実感した。

 そういえば何時だろうと館内にある時計に目を向ける。そこそこ良い時間になっていた。


「そろそろ行こうか。屋台も始まる頃だろうし」


 園田さんは小さく頷いた。それを見てソファーから立ち上がる。それに続いて、園田さんも腰をあげた。


「で、それ借りるの?」


 少し悪戯っぽく問いかける。


「もう、そんな言い方して」


 園田さんは少しムッとした表情を浮かべた。ごめんと僕は笑いながら謝罪する。貸し出しカウンターで本を借りる手続きを済ませてから図書館を出た。

 蝉の鳴き声はまだまだうるさくて空も青い。暑さも全く和らいでいなかった。それでも、園田さんと一緒にいる今年の夏は、この暑さも含めて良い思い出になるんだろうなって思った。

 いつもは歩くのが遅い僕の少し先を園田さんが歩く。だけど今日は、園田さんが下駄だからか隣を歩くことができた。それでも油断すると遅れてしまう。自分のペースより少しだけ歩く速度を上げて隣をキープしつつ、花火大会会場の河川敷に向かった。

 河川敷に到着すると、屋台を見て周る。花火を見ながら食べようと、二人分のカキ氷を買った。思ってたより量が多くて、園田さんは途中で食べられなくなった。僕もお腹は大分膨れていたけど、園田さんの残したカキ氷を一生懸命最後まで食べた。

 その食べてる姿を横でじっと見られたのは恥ずかしかった。

 食べ終わった後は、暗くなった夜空に舞う花火を見ながら、目を輝かせる園田さんの横顔に見惚れた。だけど僕の目には、図書館で見た恋愛小説で涙する園田さんの横顔の方が美しく見えた。

 園田さんはよくある設定の恋愛小説で涙を流すような女の子だ。

 僕はまた一つ、園田さんの新たな一面を知れたことを嬉しく思った。

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