そんなに愛せば、可哀想・・・誘拐犯の目的
「お前の妻を誘拐した。身代金・・・100万円を用意して、12時に遊園地に来い。誰にもバラすな」
「えっ、妻?でも・・・美雪は無事なんですね?」
「お前次第だ」
「娘は?娘は無事なんですよね?」
「お前の妻を誘拐したんだ」
「すみません、あと遊園地というのは、どの・・・」
「今、お前が思い浮かべた遊園地に行けばいい」
そこで電話が切れた。
ボイスチェンジャーを使って声を変えた男は、僕の妻の美雪を誘拐したと言うのだ。
今現在、10時17分。
急がなければならない。
高校に入学した娘の秋穂は、この時間なら授業を受けているだろう。
娘が学校にいるうちに、美雪を救い出せばいい。
僕はスマホと、家にあった現金を全て入れた財布とキャッシュカードも持ち、家を出た。
危機的状況なのに、現実感がない。
早くしなければ、という焦る気持ちと、早く走りたいのに足がもつれる、あの夢みたいな現実を受け入れ切れなかった。
「美雪・・・」
走りながら、一人呟いても意味がないのは分かっていても、僕はその名前を呼び続けた。
コンビニのATMで現金を引き落とすと、タクシーを拾い、遊園地に向かう。
現在、10時29分。
遊園地は、車で1時間くらいだから、約束の時間までには何とか間に合うだろう。
そこで、メールが届く。
『どうして自分の車で来ない』
誘拐犯は、どこかから僕を見ているという事なのか。
仲間がいるのだろうか。
僕は、横と後ろを走る車を見た。
もはや、タクシー運転手すら怪しく見えてくる。
僕と同年代に見える、この男が共犯者なのか?
そう言えば、かなりタイミングよく拾えたもんな・・・
僕は返信した。
『すみません。さっきまで、お酒を飲んでいたので運転はできません。妻は、無事ですか?』
すると今度は、電話が掛かって来た。
美雪が誘拐された事がバレてはいけない。
さっきは共犯者かと怪しんだものの、何も関係ないただのタクシー運転手の可能性もあるから、勘繰られないように自然に電話に出た。
「はい」
「こんな時間から酒を飲んでたなんて、贅沢だな。お前の妻は、誘拐されて辛い思いをしていたのに」
誘拐犯は、僕を嘲笑った。
「妻は、無事なんですね?」
「お前次第だ。あっ、そうだ。もしもお前が約束の時間に間に合った時の為に、長い時間拘束されて喉もカラカラで可哀想な奥さんに、飲み物でも買っておくといい。いや、今すぐ買え。今すぐだ」
きっと、時間に間に合わせなくする為にそう言ったのだろう。
でも、従わないわけにはいかない。
「分かりました」
電話は切れ、コンビニに寄るよう運転手に頼み、急いで飲み物を買いに行った。
5分のタイムロスだ。
焦る気持ちが増す。
遊園地に少しずつ近づいている車内で考えていた。
犯人の目的がよく分からない。
単純に考えればお金なんだと思うが、なぜ美雪と僕をターゲットにしたのかが分からないのだ。
なぜなら犯人は、美雪と僕の関係についてしっかり把握できていない。
それなのに・・・
どうして、遊園地の事を知っているのだろう・・・
その後はしばらく何の連絡もなく、現在、11時20分。
道も混んでなく、あと10分ほどで着きそうだ。
そこで再び、電話が掛かって来た。
「はい、もしもし」
「お前の妻は、お前が自分を助けに来るわけがないと言ってるぞ」
男はまた、僕を嘲笑う。
「どういう事ですか?」
「自分みたいな女は、はしたないから、救うわけがないと」
「助けに行くに決まってると伝えて下さい」
「娘の為か?」
「え?」
「娘から母親を奪うわけにはいかないからな。でも、もしもだ。娘がいなかったら、それでもお前は妻を救うのか?」
さっきから何度か運転手に見られた気がして、声のボリュームを下げる。
「当たり前です」
「じゃあ例えば、お前の家の隣に住む女が誘拐されても、お前は救いに行くのか?お前だけが、誘拐されている事を知らされたとして」
「助けます。僕にだけ知らされているなら、そうするしかないです」
「じゃあ、さっきコンビニに行って飲み物を買った時。あの時の店員が誘拐されたとしても、お前は救うのか?」
「もしも、僕しかその事を知らないなら、助けに行くでしょう」
男はまた笑った。
「まあ、それもそうか。自分が救わなかったせいで誰かが死んだら、その後が辛いもんな。つまり、お前は、妻じゃなくても、誰が誘拐されたとしても、救いに行くという事だな」
「それは・・・」
男は何が言いたいのだろうか。
「妻だから、救いたいというわけじゃないんだよな?自分の為に救いたいだけなんだよな?後味悪いのが嫌なだけだろ?」
男は本当に何が言いたいのだろう・・・
「今僕が、怒りとか悲しみとか色んな感情でぐちゃぐちゃになってるのは・・・妻だからです。妻だから、救いたいんです。妻だから、泣いてしまいそうなくらいなんです。それでも必死に堪えてるんです」
これまで堪えていた涙が一気に溢れてきそうで、上を向いてどうにか我慢する。
僕は涙を止める強さが欲しくて、つい強気になってしまう。
「どうして、こんな事を・・・妻が何かしたんですか?あんなに優しい人をどうして・・・どうしてこんな事ができるんですか」
そう言った時、結局涙は流れてしまった。
運転手は心配するように僕を覗き見ていた。
「お前が救いに来るところまでは理解できる。救いに来ないと後味が悪いからな。でも、あんなに優しい人を・・・とか、そんな事まで言うところを思えば。重症だな」
「重症?」
「ああ、重症だ。いいか、お前の本音を言え。妻が誘拐されたと聞いて少しも、ざまあ見ろ、と思わなかったか?ざまあ見ろ、は言い過ぎにしても、バチが当たったんだ、とかそれくらいは思っただろ?」
「そんなの思うわけないです」
「本音を言えと言っただろ?」
「思いません。そんな酷い事」
「お前はどれだけ人に良く思われないんだ。誘拐犯にまで良く思われたいか?」
「本当に、思いません。バチが当たった?そんな事、一瞬たりとも思ってません」
男は黙った。
僕は男が喋り出すのを待つ。
その間、運転手と目が合い、すみません、の意味を込めて、軽く会釈しておいた。
そしてようやく、男の声が聞こえた。
「とにかく来い。待ってる。着いたらさっきのメールに返信してくれ」
電話が切れ、僕の涙は気まずそうに頬に残されていた。
遊園地に、行くのは8年振りだった。
秋穂が小学2年生の時に家族3人で行って以来。
あの日、3人一緒なのはこれで最後と分かっていたのは、僕と妻の・・・
僕と元妻の美雪だけだった。
僕らはあの日、離婚したのだ。
思い出作りというのはおかしいが、家族3人で遊園地で一緒に過ごした。
その思い出を欲しがったのは、僕だ。
「頼むから、最後に一日だけ一緒に過ごしてほしい」
僕は、妻を嫌いになれないのに離婚する。
そういう立場だったからだ。
離婚の原因は、美雪の不倫だった。
美雪は、僕の事をもう、好きじゃないと言った。
好きじゃないのなら、仕方がない。
好きな人ができたのなら、仕方がない。
出会う順番のせいで、そうなってしまっただけ。
美雪と結婚できた日々を思えば、結婚できなかったであろう順番で出会わなかっただけマシだった。
僕は娘と2人で暮らし始め、僕は会えないものの、娘には時々、美雪と会わせていた。
そうして、8年の月日があっという間に流れていった。
11時35分、遊園地に到着。
「何だかお騒がせしてすみませんでした」
代金を払う時、運転手に先に何か言われるのを避ける為、先に謝っておく。
泣いてしまったあの電話を切った後でも、何も聞かないでいてくれたくらいだから何も言ってこないとは思ったが、急いで謝った。
この運転手は共犯でも何でもないだろうと、そう思いたかった。
タクシーを降り、入力しておいた到着のメールを送る。
入り口まで走り、指示を待った。
中に入る事も許されず、気持ちは急く。
楽しそうに入り口ゲートを潜り抜けて行く家族が羨ましい。
秋穂が高校生になった今、もう僕とは遊園地来てくれないとは思うけれど、もしも離婚していなかったら、あの日が家族最後の遊園地という事には絶対にならなかっただろう。
ようやく電話が掛かって来た。
僕は、さっきみたいに感情的にならないよう気をつけた。
美雪を救う事。
とにかく今は、それだけだ。
「もしもし。どこに行けばいいですか?入り口の前にいます」
「すぐに帰れるとでも思ってるのか」
すぐには美雪を解放してくれないという事なのだろうか。
「どうすれば・・・」
「一日券を買って中に入れ」
「はい、分かりました」
僕は急いで券を買い、その間も電話が切れていない事を確認し続けた。
「買いました」
「中に入って、俺を探せ。12時までにだ」
「美雪も一緒なんですか?」
「いいから探せ」
電話が切れ、僕は走り出した。
誘拐犯は誰なのか。
正体が分からないのに、どう探せばいいのだろうか。
「美雪・・・」
僕はまた、そう呟く。
美雪が誘拐され、それによって久しぶりに呼んだ名前ではなかった。
美雪と別れてからも、僕はその名を呟く事があったのだ。
例えば・・・こんな例えは良くないが、もしも美雪と僕が死に別れたのなら、僕は天に向かって美雪の名前を呼び続けるだろう。
でも、美雪が生きているのに、僕が一人で美雪の名前を呼び続けるのはおかしい。
それは危険だ。
生きている美雪に僕は絶対に迷惑を掛けたくない。
だから、美雪を死んだと思い込み、僕は一人、その名前を呼ぶ事があった。
つまり僕は、美雪に未練タラタラの、一途な男なのだ。
一途な僕は今日、美雪が生きている事を思い出したかのように、美雪を救う事を望んでいる。
再び電話が掛かって来た。
時刻は、11時46分。
一度止まり、電話に出る。
「はい」
「今お前は、何を思っていた?」
「何をって、美雪を救いたいと」
「どうしてお前は、そんなに妻にこだわる」
「そんなの・・・結婚した相手だから当然じゃないですか」
「何をされてもか?」
「何をって・・・あなたは一体、誰なんですか?どこまでを知ってるんですか?」
「いいから答えろ。何をされても愛するのか?」
僕は迷った。
何をされても愛するわけではない。
どんなに愛していても、許せない事はある。
でも今この男は、僕を試しているのかもしれないと思った。
本当の事を言うべきなのか、嘘でも良いから、何をされても愛すると言うべきなのか。
「早く答えろ。正直に話さないと、命はないぞ」
僕は・・・
「何をされても愛するわけではありません。ただ、妻に・・・別れた妻にされた事は僕にとってはまだ、許す余地のある事だっただけなんです。その余地を・・・時間を掛けて埋めていこうとしているところなんです」
「努力しているのか?余地を埋めて、ちゃんと憎もうと・・・」
「はい」
「本当にか?本当に全力で、憎もうとしているか?むしろ、愛を深めているんじゃないか?会えないのを良い事に、好き勝手想像してるんじゃないのか。本当の事を言え」
「すみません・・・妻を永遠にするような想像はもうやめますから」
「他には?」
「休みの日に、早い時間からお酒に逃げるのもやめます。ちゃんと憎める日が来るように、もっと努力します」
僕は必死だった。
「それなら、その努力に必要なものがある」
「はい。何ですか?」
「その必要なものが俺だ。早く俺を探せ・・・」
電話は切れる。
僕は男に懺悔し、努力に必要なものを考えた。
僕が美雪を憎む為に必要なもの・・・
僕を裏切った美雪を憎むべき理由・・・
「そんな・・・」
頬に涙が伝う。
僕はもう一度、走り出した。
僕が今呼ぶべき名前は美雪じゃない。
そうだ、美雪なんかじゃない。
僕を裏切った美雪を・・・そんな名前を呼んではいけなかったんだ。
僕は一瞬にして気づかされる。
ボイスチェンジャーを使ったその声に、教えられる。
この危機的な状況が、僕を正しい判断へと導く。
メリーゴーランドの前に行くと、そこには予想通り、誘拐犯がいた。
現在、11時54分。
正しく言うと、誘拐犯ではない。
誘拐犯のふりをした、娘だった。
「秋穂」
僕は、娘の名前を呼ぶ。
秋穂は、悲しそうな笑顔を僕に向けた。
「ごめんなさい。こんな方法しか思いつかなかったのは、ごめんなさい。でも、もう見てられない・・・」
僕は悲しくてたまらない。
でも、僕が感じる悲しみよりも、秋穂はもっと大きな悲しみの中にいたはずなのだ。
「秋穂。こんなお父さん最悪だよな。別れた妻の事ばっかり考えてるお父さんは、酷いよな」
娘は首を横に振り、涙を流した。
そして、
「そんなに愛せば、可哀想だよ」
と、訴えた。
「そうだよな。こんな重い男、負担で仕方ないよな。別れても愛されてるなんて気付いちゃったら、お母さんが可哀想だよな」
「違うよ!」
秋穂は僕に近づいて、悔しそうに見つめてきた。
「可哀想なのは、お父さんだよ。そんなに愛せば、可哀想・・・そうなってしまうお父さんが可哀想・・・だって、その飲み物も・・・」
誘拐犯に言われて、美雪の為に買った飲み物を、僕は持っていた。
「それ、お母さんの好きなジュースでしょ?」
「ああ、そうだな。っていうか、緊迫した状況なんだから、好きなジュースを選んでる暇なんかないのに、ダメだな。一番手前にあるやつを取って、さっさと買えばいいのに」
「もう、本能に刻まれちゃってるんだよ。お父さんにとっての一番手前は、お母さんの好きなジュースなんだよ。どうしようもなかったんだよ、きっと・・・」
「秋穂、そんな事も試そうとしたのか?」
「うん・・・」
「さっき、懺悔するよりも前から、お父さんが秋穂がいない平日の休みに、早くからお酒飲んでる事も気づいてたのか?だから、タクシーで来る事も・・・」
「そうかなって思ってたから、確かめたかったの。私は、お父さんをお母さんから救いたかった。私だけがちゃんと、お父さんと向き合いたいの」
「秋穂・・・」
「一緒にお母さんの事、憎もう?私も分かってるよ。もうすぐ大人だし、どうしようもない感情がある事くらい。でも、私達は憎まないと」
「うん、そうだな」
秋穂は僕を優しく抱きしめた。
メリーゴーランドの前で抱き合いながら泣く親子を、周りの人達はどう見ていただろうか。
いや、もしかすると・・・
僕が別れた妻の事を考え過ぎた8年の間に。
僕らが親子ではなく、恋人と間違えられても良いくらいに、秋穂は成長してしまったのかも知れない。
「お父さん。私、そのうち反抗期になるかもしれない。だから今のうち、遊園地で一緒に遊んでおいた方が良いと思うけど」
「それで一日券を買わせたわけか」
「まあね。こうやって日常から離れて遊んだ方がいいよ。お父さんみたいな人は、きっとそう」
「ありがとう、秋穂。お父さん、努力する。本当の努力をするよ」
秋穂は明るく笑い、僕の手を引いて歩き出した。
「そういえば、何で“妻”って言ったの?最初に誘拐の電話が来た時、それで一瞬戸惑ったから」
僕が聞くと秋穂は、
「だって、元妻を誘拐した、なんて台詞的におかしくない?どっちにしても、お父さんは必死になって救いに来たと思うけど、それでも何となくそうしただけ」
と言った。
「まあ、私の事もすぐに心配してくれて良かったよ。学校に電話掛けて、安否を確認されてたらそこでバレてたけどね」
と言い、
「私がメリーゴーランドに乗りまくってた事、ちゃんと覚えてくれてたんだね」
と言って、嬉しそうにもした。
美雪が誘拐されたと聞いた時も、今も、僕の緊張状態は続いている。
娘にこんな事までさせてしまった8年を思い、自分の罪の深さを感じている。
僕は美雪を・・・
別れた妻を憎もう。
許す余地がないほどに。
閉園まで目一杯遊び、遊園地を出ると、僕を乗せてきたタクシー運転手がタクシーの前に立っていた。
その顔を見て、本気で心配してくれていた事が伝わる。
僕と娘の楽しそうな姿を見て、ホッとしてくれている。
「すみません。心配させてしまいましたよね」
僕が声を掛けると、
「もう、大丈夫なんですね?」
と、それでもまだ心配してくれた。
「はい。大丈夫です。娘が僕を救ってくれたんです」
秋穂は僕と運転手を交互に見ていた。
運転手は娘を優しく見つめる。
「お願いしてもいいですか?」
僕はタクシーを指差してそう言い、娘はタクシーで帰れる贅沢を喜んだ。
「誘拐犯に100万円渡す予定だったから、これくらいの贅沢してもいいだろう」
僕の発言に秋穂は笑い、
「その誘拐犯の正体は、私だからね」
と言って、ちょっと照れながら微笑んだ。
その照れ笑いは、別れた妻に少しだけ似ていた。
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