その男は今
その男はきっと、存在しない。
私が創り出した、一時の慰めで、欲望で、逃避だ。
ミラーハウスの中、私は一人、何人もの自分と向き合う。
立ち止まり、動かずに、息を潜める。
そこに、一人の男を創造する。
最初はマネキンのような姿。
私は服を着させる。
白いYシャツに、ベージュのスラックス、茶色の革靴。
少しずつ、命を宿らせる。
髪は無防備な黒色、瞳には厳しさと優しさの両方を込め、横顔を美しくする為の高い鼻、唇には触れた時を想像させる肉感的な魅力を。
鏡の前で男もまた、何人もの自分と向き合う事になる。
「あなたを創り出したのは私。だから、私が聞きたい言葉だけを話せばいい」
鏡に映るいくつもの偽物と、たった一人の本物の私。
鏡に映るいくつもの偽物と、たった一人の本物の男。
「大丈夫ですか?」
男は私にそう聞いてきた。
私が望んだ言葉を、低い声で抑揚なく、まるで心がないかのように。
「違う。もっと優しく言って」
男の感情を創造する。
私が望むから、男は話す事ができるのだ。
「大丈夫ですか?」
今度は心の込もった声で、男は聞いてきた。
それでも、足りない。
「もっと、私を心配して。嘘偽りなく、心の底から心配して」
感情を得た男は考える。
どうすれば、私を心の底から心配できるのかを。
「どこにいますか?」
男は本物の私を見極める為、自分で考えた言葉を口にする。
本物の私がどれなのかが分からないと、心の底から私を心配できないからだ。
「私はここよ」
私は男の感情を弄ぶかのように歩き出す。
そして、男を錯乱させる。
「私はとても不安なの。誰かにそばにいて欲しいの。偽りのない目で見つめて欲しいの。偽りのない声で聞いて欲しいの。偽りのない姿で抱きしめて欲しいの」
本物の私だけではなく、偽物の私も男を求める。
本当に男を求めているのは本物の私だけなのに。
どんなに偽物が沢山いても、声を出せるのは本物の私だけなのに。
「どれが本物のあなたですか?」
本物の男は、私の声を頼りに本物の私を探し彷徨う。
偽物の男も、本物の男に従い私を探し彷徨う。
「動かないで」
私の声で男は止まった。
私も止まり、男を錯乱させるのをやめる。
男は言った。
「あなたを心の底から心配したいから、あなたもどうか、僕を求めて」
私が創造した男なのに、男は勝手に喋りすぎだ。
感情が成長しすぎたのだ。
「いい?自分の思い通りになると思わないで。ただ私を心の底から心配して、よそ見なんてしようとしないで。本物の私を見つけられたら、その時に言えばいい。その時に私はあなたの言葉を許可する。あなたが選んで、あなたが望んで、あなたが私に伝えたい言葉を」
男は再び考える。
止まったまま、考える。
自分の言葉を声に出す事を禁止され、心の中で一人語り続ける。
「私は本物のあなたに、本物の私を見つけられる瞬間を待っているの。その瞬間を知りたいの。その瞬間に本物のあなたが発する言葉を聞きたいの」
男は頷き、一人一人の私を見つめる。
どれが本物なのか、真剣に見つけようとする。
私が望む瞬間を、男も望んでくれている。
「私はここよ。今見つめているのは偽物」
その時、男が歩き出す。
「そんな簡単に決めちゃっていいの?私が創造したあなたに、そんな簡単に本物が見極められるとでも思っているの?」
男は一人の私の前で立ち止まる。
「決めた?」
男は頷いた。
「それじゃあ、目の前の私を抱きしめなさい。そして初めて、自分の体に宿った力を知りなさい。もし、偽物の私なら、あなたは途端に消えてしまう」
男は恐怖から体を震わせた。
偽物にもその震えは伝わる。
「私を抱きしめて。目の前の本物の私を・・・」
男はさらに一歩近づき、両手を広げた。
そして、私を・・・
「大丈夫ですか?」
目を開けると、私を抱えながら見下ろす男がいた。
「私・・・」
男は真っ直ぐに私を見つめる。
「気分は悪くないですか?本当に、大丈夫ですか?」
私を見つめるその目は、微かに濡れていた。
「大丈夫です。でも私、何があったのか・・・」
「突然倒れたんです。心配しましたよ」
私を抱える男の手から震えが伝わる。
「どうして私を助けてくれたんですか?」
「どうしてって・・・そんなの考える時間はありませんでした。でも、今思えば・・・あなたがそう望んでいるようだったから。そして何より、僕がそう望んでいたから・・・」
私は男を見つめる。
髪は無防備な黒色、瞳には厳しさと優しさの両方が込められ、正面から見ても美しい高い鼻、唇には触れた時を想像させる肉感的な魅力。
その男は今、存在している。
私が創りたかった、一時の慰めで、欲望で、逃避だ。
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