トキコ28


 台風第28号に関する情報 第1報 20XX年10月28日04時44分 気象庁発表


『フィリピン東方沖で熱帯低気圧の最大風速が17.2m/sに達し、台風第28号(フィリピン名:トキコ Tokiko)が発生しました。非常に強い大型台風に発達すると予測されます』




 男は錯乱した。いや、狂喜した。

 朱鷺子が帰ってくる。

 男の顔は恐怖に慄き、その裏で歓喜に満ちていた。相反する感情は反発するように渦を巻き、形のない凶器と化して心を削る。違う。むしろえぐってくれ。この薄汚れた心で良ければ喜んで差し出そう。

 朱鷺子。

 かつて妻と呼んだ女。この世で唯一人愛した女。そして、この手で殺した女。

 とろけるほどに愛していたのに。すべては愛し合うことで成り立っていた。しかし危うい天秤は裏切りという最悪な形で瓦解した。

 朱鷺子が愛していたのは台風だった。

「生まれ変われるのなら、私は台風になりたい」

 朱鷺子は最期にそう呟いて船から落ちた。それを聴いて、男は人ならざる者へと堕ちた。

 男は朱鷺子を船から海へと突き落とした。

 ちょうど台風が産まれる場所、フィリピン東方沖での一幕であった。

 朱鷺子が沈む時、小さな渦が沸き起こった。やがて渦は26.5℃の暖かな海水に揉まれ、空気を掻き乱して上昇気流を作り出す。台風のタマゴが産まれた。亜熱帯の燻った空気が吹き込まれ、熱い風がひゅるりと巻けば、いよいよ台風の誕生だ。

 産まれたばかりの台風は太平洋高気圧を蹴散らすように突き進む。偏西風の煽りもものともせず、台風28号は異常な速度で成長を続けて日本列島の真ん中、東京を目指した。

 暴風が巻き起こすフェーン現象で人の体温まで温められた豪雨を引き連れて、連なった秋雨前線を死装束のように白く身に纏い、トキコは北上を続けた。

 中心気圧880hPa、瞬間最大風速は100m/sを超え、超弩級の大型台風にまで成長したトキコは、ぎろり、その眼を剥いた。

「生まれ変わった私を見て!」

 台風の目玉ははるか上空から男を見つめていた。

 その視線に心を穿たれた男は歓喜した。喜んで君へ吸われよう。


   ……つづく

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