第一章 村での出来事

1-01.夜明け前から朝まで

 夜、いつものベッドで寝て不意に目が覚めた。違和感がある。……草? うつぶせに寝る癖があった俺は、頬に草の感触があることに驚いて起き上がった。


 そこは外で、辺りを照らす灯りひとつない闇夜だった。少し見上げれば星空。草のさざめきに混じって虫の鳴き声が聞こえる。……なんだこれ、何処だ。俺はなんでここで寝転がっていたんだ。


 眠る前のことを思い出す。SNSを軽く流し見て、もう寝るかと灯りを消した記憶。……あれ、なんで寝る前のことを思い出せているんだ。夢だよなこれ? 夢なら荒唐無稽なストーリーが始まったり場面転換が起こるはず。なのに何も起こらない。眼前の闇夜は先ほどからそのままだ。


 立ち上がって辺りを見回す。起き抜けのせいか頭はボンヤリしておりフラついた。月は出ておらず、外灯などの闇を照らすものもない。周囲に何があるかもよく見えず、環境音の他には何も聞こえてこない。


 背筋がゾッとして、身体が硬直する。だって今の状況は有り得ないから。こんな訳の分からない事態に何かをする勇気など湧かない。何が起こるか分からないと思うと声も発せない。結局、俺はその場に座り込むしかなかった。




 そのまましばらく闇を見続けていると目が慣れてきた。ここは周囲よりほんの少し高い丘なのだろう。はっきりとではないが遠景まで見通せる。周囲はおそらく草原で、風が吹けば背の高い草がさざめく。星でいっぱいの夜空と地上の境目には山の輪郭を感じた。


 ふと、頭上に揺れる葉音に気付く。……どうやら自分のすぐ背後には木が立っているようだ。手探りで位置を確かめてみようとしかけたが、木の幹に虫がいるかもしれないと思い直した。


 弱い風が頬をくすぐる。草の匂いがする夏夜の風。薄着なので少し肌寒いが、震えを感じるほどではない。時間の経過とともに心が少し落ち着いてきたのか、今の自分の格好に気が回った。


 Tシャツとボクサーブリーフ。最近の寝るときの格好だ。今は座り込んでいるので、布地越しの尻に薄っすらと地面の湿気が伝わってきた感じがする。……いや、ケツなんかのことより他に考えなくてはならないことがある。なんで今、こんな状況なのか。寝る前とは違う場所にいる。


 いつものベッドで寝た。一人暮らし用アパートの2階にある部屋。今はどこかの草原、そこの低い丘にいる。いくら寝相が悪くてもここまで位置が変わるわけがない。誰かのいたずらとか……拉致? いや、それなら何でこんな所で放置されている。ぞもそも俺が拉致されるってこと自体あり得ない。そうする意味がない。


 夢遊病……? いや、そんなのは創作以外では知らないし、自分がなるようなものとは到底思えない。しかしそうなると、ここにいる理由が何も思い付かない。


 ……創作みたいな状況か、まさか異世界転生とか。……アホか。こんな気の利いていない、何の説明も脈絡もない迷惑があってたまるか。




 そのうちにぼんやりと空が明るくなり始め、薄暗くはあるが世界が見え始めた。まだモノクロームの視界だが、景色が見え始める。


 薄っすら分かっていたけれど、知らないところだ。同じ場所にしばらく留まっていたのが良かったのか、不安混じりながらも心は不思議と落ち着いていた。パニックを起こしてもいない。俺は泰然と周囲の状況を確認した。


 俺の背後にはお寺とかにありそうなサイズの大木が生えていた。太く高く幹はまっすぐに伸びており、それを支える太い根が地面に張り出している。巨木というほど飛びぬけたサイズの木ではないが、近くに一本だけということもあってか存在感がある。……この匂い、クスノキだろうか。神社で見たことがある。


 そして空が白み始めている方……東の方角には広い草原、ところどころ背の高いススキのような草が群生している。草原の向こうには木々に包まれた小高い丘、小さな山が幾つか連なっており、更に遠くには標高の高そうな山の峰々が見える。


 雄大な景色ではあるが、今の状況では『癒される』という気持ちが起こるわけもなかった。むしろ不安が増した気がする。そこにあるのは自然の草木や山だけだ。建物はもちろん、人の姿なんてない。


 そういえば俺のスマホはどこかに落ちていないだろうか。足元周りの地面を見回すが、それらしきものは見えない。この辺りには背の低い草が生えているだけだから落ちていたら分かるはずだが……。草を分けて軽く探してみたが、少なくとも近場にはなさそうだ。もっと探そうにも見える範囲は草だらけ。ここから見つけ出すのは難しい。


 目覚ましアラームはバイブ設定で、鳴動するのを待つにしてもまだ夜明け前だ。それなりの時間を待つことになる。そして近くになければ多分振動音も聞こえない。待ちぼうけになるだけだ。……スマホは運良く見付けられることを祈って、他を見てみよう。


 今、俺が見付けたいのは地名が書かれた標識なり、駅や交番といった施設だったが、そんなものが近くにありそうな雰囲気ではない。……いや、ここがどんなド田舎にしろ、山には送電用の鉄塔とかがあるんじゃないか。


 立ち上がってぐるりと周囲の山々を見渡すが、それらしきものはない。どの方向を見ても空との境目は山。ここはどうやら山間の盆地のようだ。自分の住んでいる街の近くにはなさそうな風景。車やバイクで何時間か走らなくては似たような景色は見られないだろう。しかし……電線の類がどこにも見えない田舎って日本に存在するのか、大体どこでも電気は通っているだろ……?


 少し遠くでパタパタと羽音がした。鶴くらいのサイズがある鳥が、草原の上を低空で飛んでいる。普段は見ない大きさだ。一羽だけだが渡り鳥なのだろうか。


 その鳥は明るくなり始めた空の反対側……西に向かって飛んでいく。


「あっ」


 飛んでいく鳥を目で追っているときに、丈のある草に隠れて土肌が続いているのを見付けて思わず声が出た。アスファルトこそ敷かれてはいないが、あれは道だ。大型トラック一台くらいなら通れそうな幅の乾いた土肌の道。いかにもな田舎道ではあるが、その内にジョギングしてるおっさんとか犬を散歩している人が通ったりはしないだろうか。


 そうだ、ここにいても草が多くて藪蚊やらに刺されるだけだ。取りあえずはあの道まで移動しよう。少しも楽観できる状況ではないとはいえ、それでもやっと目標らしきものが見つかって、俺はホッとした。


 俺は夜半からずっと不安で、軽い緊張状態だった。少し気を抜けたことで初めて自分に尿意があることに気付いた。少しためらったが周囲には何もないし、誰もいる気配はない。こんなところでトイレを探していたら見付ける前に限界が来る。


 あの道まで移動する前に、木の根元に放尿することにした。もしこれが夢だったら寝小便になるのかなと思った。小便が尿道を通っていく感覚と、それで濡れていく木の根元。夢にしてはリアル過ぎる。……何となく分かっていたけど、これは夢じゃなさそうだ。




 道まで移動しようと思って、靴を履いていないことのまずさに気付いた。向こうに見えた道までは草原を20Mほど突っ切らなくてはならない。膝ほどの高さの草に隠れた地面に尖った石や折れた固い茎などがあってもおかしくない。……だが近くには靴や、その代用にできそうなものは見当たらない。


 どうしようか考えたが、足先でよく探ってから地面に足を下ろすという方法しか思い付かなかった。危険な虫とかカエルとかを踏んだら嫌だなあと思いつつ、草むらの中をそっと足先で探り、草を踏みしめながら歩を進める。


 そうして、ようやく土肌の道へとたどり着いた。慎重に歩いたので一苦労だった。こんなに気を遣う歩き方をしたのは初めてだと思う。休憩を兼ねて座り、道の地肌で足裏を確認する。草の汁や土で汚れてしまったものの、ケガはないようだ。


 そこで背後に強い光を感じ、振り返って目を細めた。日の出だ。じゃあ今は5時過ぎくらいだろうか。周囲の明るさが増していく。夜の内から起きていたせいか頭はボーッと重い。


 取り合えず道に沿って歩いてみようと決めた。日の光に少しポジティブさを貰えた気がする。……少し疲れてきて大雑把な思考になっただけかも知れないが。




 道は今いる周辺でゆるく湾曲し、西と南へ伸びている。


 道に着いてからも周囲を見渡したが、西の道先にも南の道先にも何か建物が見えるわけではない。標識だってない。なら悩んでも仕方ない。西に伸びる道へ行くことに決めた。朝日を背にして進んだと感覚的に憶えておけば思い出しやすいはず。たったそれだけの理由だ。


 この道には薄くだが轍の跡がある。自動車のタイヤ痕のようなものではないが、何か車輪付きのものが行き来した跡だ。人通りがある証拠だ。こんな状況で出会う人間というのも何者か分からなくて怖いのだが、それでもいてほしい。道を歩き続けて誰もいなかったら、どうしていいか分からない。


 しばらく歩き続けると、道が右側、北方向に湾曲していた。そちらにはそこそこ広そうな林がある。道を目でたどると林の中に続いている。……道選びに失敗したかもしれない。道があるとはいえ、森や林の中にうかつに入るのは危険ではないだろうか。遭難とか野生動物とか……そう思うとドキリとして足が止まった。


 ちょっと落ち着こう。軽く息を整える。不安に高鳴りかけていた心臓の音が収まり、周囲の音が良く聞こえた。……せせらぎの音がする、川の流れる音だ。


 そういえばここまで水を飲んでいない。目や唇も乾いているようだ。それに気付いた途端、喉の渇きを覚えた。けれども喉が渇いたからといって川の水なんて衛生的に良くない。できればペットボトル、水道の蛇口、何かしらの安全を感じる水が飲みたい。でも、今のところ道以外に人工らしきものは見掛けていないから、水道が近くにあるか自体が怪しいものだ。


 取り合えず川がどんな感じか見てみよう。もしも橋があるなら名前のプレートとかで今いる場所が分かるかも知れないんだし。


 川を見付けようと林間の道を進んでいくと、やや遠くでザブッと水音がした。……今のは、水をバケツかなんかで汲んだ音に聞こえた。


 人が出した可能性がある音は今日初めてだ。自然と早足になった。均された道を行くとはいえ、足裏が傷付くかもという不安はそれでも消えていない。走るのは少し怖かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る