3.久方の邂逅
人混みの合間を縫って、邪魔にならないように水槽の隅の方に体を収める。あの日々の中で私が立っていた、彼ら彼女らを見つめるための定位置。ここに来るのは何年ぶりだろう。あの日を境に、私がこの場所を訪れなくなってから一度も来ていないと考えれば、それなりの年数は経っているはずだ。周りを見回しても、視界に入るのは懐かしいものばかり。何ら変わらぬままのこの場所に、どことなく、安息を覚えた。
あの頃に使っていたものよりもずっと新しくて高性能になった愛機を取り出して、ゆるりとそれを構える。ああ、対して私は変わってしまったな。と、ぼんやりと思わされた。本当に、私はきっと変わってしまった。
ファインダーを覗いてピントを合わせれば、これまた何も変わらぬ、愛しくて堪らなかった瞳がこちらを向いた。この場所に来ればいつだって私を癒やしてくれた、優しい優しい大好きだった瞳。
こちらを認識したかと思えば、びっくりしたように見開いて、きゅ、とその瞼が細まった。カシャリカシャリとシャッターを切ると、確証を得たらしい。その音と共に見たこともないようなスピードでずんずんとその体が近づいてくる。何年も顔を出していなかったのだが、どうやら覚えていてくれているみたいだ。
「やぁ、随分と久しぶりに会うね。」
ぴたり、目の前でその動きが停止した。記憶の中の動きよりどことなく機敏な動きをする彼女を見て、一人満足する。くるりくるりと回ってみたり、こちらをのぞき込むように体をくねらせていたり、逆さまになっていたり。
あの日々と何ら変わりのない、温かい邂逅。愛しさと優しさだけが詰まっている雰囲気に、やはりこの場所はあのままなのだろうな、と思う。この動き方も、両方の目がこちらを見ていることも、私を覚えてくれていることも。全部があのままだ。なんだか無性に嬉しくなって、ふにゃり、口元が緩む。ファインダー越しに合っているその目が、どことなく嬉しそうに見えたのは、私の思い違いだろうか。
相変わらず何年経っても、あなたはかわいい、かわいいね、そう口からこぼしながら顔をカメラから離すと、その先にあったのは、じぃ、とこちらを見つめる二つの目。真っ直ぐな、可愛さと愛しさを目一杯に詰め込んだような、そんな。ぱちん、と何一つの隔てもなくかち合う。キラリと、あなたの瞳が煌めいた。
あぁ、あなたが、こちらを、見ている。目が合っている。覚えていて、くれている。いつの間にか変わってしまった私を、私とわかってくれたまま。変わらず、関わろうとしてくれている。
私は、私は、私は。必死に忘れようとしか、していなかったのに。
次の瞬間、思い切り夢心地から放り出された。それはまるで、外洋の真っ只中で、ライフジャケットも無しに船から放り出されたような気分で。
はく、と無意識に息を呑む。
溺れそうだった。無理矢理忘れて封じ込めていた愛しさと、その行為を責め立てる自責の念。対局にある感情に挟まれて、呼吸がままならなくなりそうだった。
くるしいから、かなしいから、つらいから。そう言い訳をして全部忘れてしまおうとした。一つもあなたのことなんて考えずに、ただ、逃げた。藻掻き苦しんでまで掴みに行く勇気が私にはなかった。あなたの隣に立つ資格を持つための努力すらしなかった。あなたの隣に行くと、そう言っていたのに。これはきっと、酷いことだ。あなたにとっては、きっと。直感的にそう思った。
だって、あなたの中に私の足跡が残っているなんて、これっぽっちも思わないじゃないか。それも、ここまで時間を空けたとしても覚えていてくれるレベルだなんて。ずっとずっと、一方的だと思っていたのに。私のことなんて、どうだって想っていないのだろうと思うようなことばかりだったのに。あなたは一体どう感じたのだろう。悲しかっただろうか、寂しかっただろうか。それとも何も思っていなかっただろうか。
「ごめん、ごめんね」
ぽろりと呟いて下を向く。あなたがどう思っていようが、こんなの、合わせる顔がないじゃないか。一人耐えられなくなって。大切だったのに、何よりも私の中心だったのに、それを会う度会う度に伝えてきたのに。最後は消えてしまった。なんの知らせもなく、私の勝手な都合で。
何かとんでもないことが起こっていると思ったのだろうか。どうしたどうした、とでも言うような顔で、あなたはぼふりと泡を出す。ぴゅう、と可愛らしい鳴き声を出してこちらを見ている。余計に顔が上げられなかった。そんなこと、してもらう資格なんて、ない。それだけだった。
あなたが、待っている。目の前で、私を、待ってくれている。わかっている、わかっているのに。体は動かないままぐるぐると思考だけが悪い方向に回っていく。
ごめん、ごめん、ごめん。
そのうちにこれは無理だと悟ったのか、もう一度、ぴゅい、とだけ鳴いて身を翻してしまった。どことなく、後ろ髪を引かれるようにして。
行ってしまった。無視していたのは私なのに、自分勝手にも寂しさを覚える。あの頃であれば、あなたはずっとこの場にいてくれたのだろうか。私が、あなたのことを忘れようだなんてしなければ。
泳ぎ去っていった姿を見て、ふと、大切なものを失って、この場所に逃げてきた日を思い出した。懐かしい懐かしい、今では寂しいだけの、思い出。頼る場所がなくて、縋るように来た場所が、相変わらずここだった。いつも通り、カメラを構えてはみたものの、上手く笑えずにいた。心が上手く現実と向き合えないまま、惰性であたなと戯れていた。気がつけば、あなたは目の前からいなくなっていた。そういえばそうだ。あのときもこうだった。あまりにもグズグズして気のない私を見かねて、あなたは行ってしまった。励ますようでもなく、側にいるでもなく。ただ、同じ空間にいる、それだけのこと。それでも、瞳だけがこちらを向いていた。
記憶に釣られるようにしてちらりと水槽を見上げる。視界に、あなたを見つけた。目だけが、こちらを見ている。あの日に私が見た、どこなく、こちらを気にするような瞳。ガツン、と頭を殴られたような感覚。あぁ、違う。こんなの、私の独りよがりだ。あの日と同じだ。あなたは、何一つとして何も変わってなどいない。優しい優しい、けれどどこか自分勝手で気ままな、あなたのままなのだ。私がいようがいなかろうが、変わることなんてない。フラッシュバックのように、そう、再確認する。私が影響を与えたなんて、思い違いもとんでもない。ここにいるのは、私が大好きだったあなただけだ。夢を諦めたあの日も、居場所がなくて苦しかったあの日も、大切なものを失ったあの日も。あなたはただここで泳いでいるだけだった。私が辛いときほど、あなたはこちらを見てくれはしなかった。それでも、私はその姿を見ては勝手に救われていた。ただ、ここに居てくれればそれで良かった。それぐらいに、あなたは私の心の中心で、生きる理由だった。
そうだ、そうだった。
あなたは、私にとって一番の生きる理由だったじゃないか。隣にいることが大事だったわけではない。あなたという存在が有ってくれれば、その存在を認識できていたなら、私はそれで十二分に幸せだった。目の前に来てくれなくとも、目が合わなくとも。なんだって良かった。あなたが、そこにいて、生きていてさえくれれば。
いつからだろう。ここに詰まっているものが私の全てだと思っていたのに、それが苦しいと思うようになってしまったのは。愛しいその瞳を見ることが、大好きなこの場所に来ることが、辛いと思うようになったのは。あぁ、そうだ。忘れていた、それも随分長いこと。心の底から湧き上がってくるような、どうすることもできないような愛しさを。私が出会った日に一番に覚えた、あなたが教えてくれた、優しい優しい感情を。どんな物よりも大切な、私を突き動かしてきた原動力。私はあなたを知りたいと、あなたの隣にいたいと、そう思わせてきたもの。これを忘れてしまえば、ああなってしまうのも仕方がない。だって動く原動力がないのだもの。一番に大切なそれを、忘れてしまうんだもの。私はきっと、我儘になりすぎたのだろう。隣にいたいと、願いすぎてしまった。そりゃあ、苦しくもなるだろうな、一人苦笑いをこぼす。当たり前だ、あなたと私は違うのだから。それでも、だからこそ、私はあなたが愛しいのだ。その違いこそが、私達を繋ぐものなのだ。捨ててしまったそれを拾い上げて、もう一度、胸に丁寧に抱き直した。大丈夫、もう大丈夫。私は一生、忘れたりなんかしない。そんな確信があった。
光で満ちていた視界が陰る。意識の焦点を現実に合わせれば、私の前にやってきたあなたが見えた。顔には、漸く思い出したか、と書いてある。どうやら何でもお見通しらしい。やっぱり敵わないなあ、と笑みが溢れた。私が元気になれば、あなたは当たり前のようにここにやってきてくれる。これもあの頃と何も変わっていない。そしてきっと、これはいつまでも変わらない。今日も、明日も、その先も、ずっとずっと。
私が元気なときしか遊んでくれないあなたに、励ましたりなんてしないくせに。現金な奴め。そう愛しさを目一杯に詰め込んで呟く。分厚いガラス板越しだけれど、私の声が聞こえたのだろうか。今度はむっとした顔でそっぽを向いてしまった。ぷい、と険しそうな顔をして、それでもこちらを見つめる瞳に思わず吹き出してしまう。えー、ごめんって。
そんな見つめ合いが始まって数十秒。私とのにらめっこにも飽きてしまったらしい。体が浮上体制に入っていく。ちらりと見上げれば、今一度目が合った。また後でね、と言われたような錯覚に陥る。
ぴゅーい、と私の前から離れていくあなたが、たまらなく、愛しかった。
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