2.諦観と夢
トレーナーというこの夢を、諦めようと思った。私には無理なのだと、ある日突然、そう思った。今更に、やっと理解したのだ。命を預かるその意味と、付随するとてつもなく重い責任を。夢見た幼い日にわからなかった、その重みを。私自身に、それを持つことのできる能力も器もないことも。突き通る硬い硬い芯をどこかに捨ててしまおう、そう思った。これまで私を突き動かしてきた、十数年と持ち続けたそれを。この手であの子達が苦しめるような事態にでもなれば、あまりにも、耐えられない。そんな未来は私にとって、可能性が僅かにでもあるのなら確実に避けなければならない、とてつもなく恐ろしい未来だった。
不可抗力。電車に揺られる体の内側で、そんなことを思い浮かべる。
あの場所に行くのも、今日で最後。やめるんだ、もう。隣に立てない苦しさが勝るようになってしまった私に、到底行けるような場所ではない。純粋に愛せないのなら、行ってはいけない。私なりの、自戒だった。この苦しさごと全部忘れて、もう関わらないようにしたい。またどこかで、もう一度目指したい、だなんて思い出さずに済むように。僅かな可能性ですらぐちゃぐちゃにすり潰して、実現してしまわないように。想像の中でふっと、この手であの子達を苦しめてしまう未来がちらりと見えた。そうしたら、やっぱり怖くてたまらなくなった。
到着が近いことを示す放送が鳴る。随分と聞き慣れたものだ。このアナウンスを聞く度に心を踊らせていたあの日常か懐かしい。一体、この長いようで短い人生の中で何度聞いたのだろう。来る日も来る日も、飽きることなんてないまま。
自宅の最寄りからの定期券で改札を抜けて、エスカレーターに乗る。駅を出れば、視界が開けた。そういえばここで、デモをしている人たちを見たこともあったな、と思い出す。あれは嫌だった。本当に。今はもう、どうも思わないけれど。
信号を渡って、観光で来ている人なら通らないような裏の道を歩く。こっちの道のほうが早いことを、私はよく知っている。昔はあっちの道を通っていたのに、気がつけばこちらに切り替わっていた。なるべく、早く着きたかったから。一分でも、一秒でも早く、あの子達に会いたかったから。少しづつ、鼻から抜ける匂いに潮の匂いが混じっていく。あと少し、もう少しで着いてしまう。これまでとは打って変わって、それがどことなく怖いと思う自分がいた。きっと着いてしまえば、もうそれで最後になってしまうからだろう。最後の一日が、始まってしまうから。私を突き動かしてきた硬い硬いどうしたって折れなかった芯を、引っこ抜いてしまおうとしているのだから。私の中に張り巡らされた、根の部分からの全てを。一体どうなるのだろうな。そうどこか他人事のように考えた。
財布から年間パスポートを取り出して、係の人に提示する。このパスポートも何年買い続けているのかわからない。数えるのが面倒なほど、切れては買い直して、を繰り返していたから、生まれて入館券が必要になってからずっと、なんてのもあり得る。けれど、もうその記録も途切れてしまうのかと思えば、なんとなく、寂しい気がした。
いそいそとカメラを取り出して首にかけてから、カメラの諸設定を弄っていつも通りの値に戻す。最近は色んなものを撮るようになったから、この設定も変わっていることが増えている。そんな事実が、あの子達の存在が自分の中から薄れているような証拠に見えて仕方がなかった。
いつも通り、水槽の端に体を滑り込ませて、カメラを構える。一頭のイルカが、こちらを見つけた。行く宛のないゆらゆらとした動きが、確かに行き先を決めた動きに変わっていく。ごつん、と鈍い音がしたかと思えば、目の前にあなたの顔が現れた。
「おはよう、今日も相変わらず可愛いね」
分厚いガラス板越しなのだから聞こえてなんていないだろうけど、いつもの癖でそう零す。あぁ、やっぱり。私の気持ちなんて伝わらないのだろうな。頭にはてなを浮かべたような顔に、どうしたってそう思ってしまう。こんなに好きで、愛しくってたまらないのに、伝えることすらできないだなんて。そんなの、隣になんていれるはずがない。こんなに、こんなに好きなのに。世界でいっとう愛しているのに。
きゅう、という声が耳に届く。顔を上げると、こちらを見るあなたを視界に認めた。まるでその瞳は“どうしたの、いつもみたいに、遊ばないの?”とでも言っているようで。はっとして慌ててシャッターを切った。まとまらない、暗い感情で占められている思考回路を押しやるようにして、無心にボタンを押し込む。そろそろファインダー越しではなくて、この目で見て、焼き付けなければならないな、そんな考えが頭に浮かぶ。カメラを外してみれば、こちらを覗き込むようにして体をくねらすあなたがいた。そんな現実に、少しだけ、安心する。不意に、こうやって戯れられるのも、これが最後なんだぞ、と誰かが心の隅で囁く。
途端に醜い感情の波が覆いかぶさってくる。寂しい。悲しい。私だって、あなたの隣にいたいのに。こんなに、好きなのに。愛してるのに。ぐつぐつと湧き出てくる感情が、あなたとの時間の邪魔をする。このままじゃ、あなたはきっと行ってしまう。そんな焦りの中で無理やり蓋をして、拙い笑顔を作る。いつも通りを演じてみる。かわいいね、かわいいね、そう普段なら無意識で溢れる言葉を意識的に零す。大丈夫、いつも通り、私はいつも通りだ。そう思ってもう一度目に映ったのは、つまらなそうなあなたの顔。頼りない私の心の内を見られてしまったのだろうか。あ、と思う。これはきっと、もう行ってしまう顔だ。ふい、と彼女の視線が私から外れた。あぁ、やっぱり、そうだ。思わず手を伸ばした。触れることなく、ガラス板の壁にすら届かないまま、手が空を切る。
待って、行かないで、ここにいて、お願いだから。
そう口を滑らせそうになって、慌てて手で口を抑える。私が、この夢を宿したときに取り決めた、一つの境界線。あなたと私の、違いを形作るもの。この言葉だけは発していけない。この一線を、踏み越えてはいけない。絶対に。衝動にも近いその感覚と同時に言葉を飲み込む。また一つ、心に距離ができたな、どうすることもできない寂しさを覚える。そんな私を一瞥して、すぅ、と、いつもより早く、あなたは私の前から離れていってしまった。
少し、期待していたんだけどな。一人勝手に悲しくなってみる。あなたが、私を、心配してくれるんじゃないかって。側にいてくれるんじゃないかな、って。薄々理解はしていた。そんなものは幻想なのだと。あなたにとって私は、よく顔を出す一介の人間に過ぎないのだと。今更に、そんな事実を呑み込まされたような気がした。あなたの隣に立てるような人間であれば、側にいてくれたのだろうか。私ではなく、あなたが一番に思う人間であれば。私は、その一番の人間に、なれなかったけれど。
帰ろう。もう。
無意識にそう思った。苦しい。愛しくてたまらないのに。側にいてくれるどころか、その気持ちが伝わることすらないのだ。ちらり、見上げて瞳が合う。あぁ、これも、本当に最後だ。愛しいあなたをの目を見つめる時間だって、この先有りはしないのだ。堪らなかった。泣きたかった。あんまりだと思った。それでも、もう、後戻りをする勇気もなくて。水槽に背を向ける。もう一度、振り返った。目が合った。あなたは、引き留める素振りも、見せてくれなかった。
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