1.喪失
喪失
初めて出来た大切なものを、自分から失くした。至極簡単に言えば、恋人を振ったということ。重圧に耐えきれなかった。支えるだとか、救うだとか。そんな大仰なことが、私にできるはずがなかった。しがみつかれて、君しかいないんだと言われて、一緒に堕ちていきそうになってようやく気づいて、逃げ出した。怖かった。自分のやりたいことにまで口を出されて、落とし所がわからなくなって。私の中の答案には、逃げるという答えしか残されていなかった。
頭の中にあるのは吐かれた重たい言葉と罪悪感。誰にだって相談できないこの感覚を、私は一体どう処理すれば良いものか。もう何もわからなかった。
この先、何かを愛すという行為自体が、できないような気がして。トラウマと言う名の鎖になりそうだった。
何をしていても上の空の私を見かねてか、家族が「行ってきたら?」と声をかけてくれる。行く、どこに、そうもごもごと反芻してからふと、水族館という単語を思い出す。そういえばここ数ヶ月、一度もあの子達に会いに行ってない。家族には、件のことに関して何一つとして話していないので、私が疲れているのは水族館に行っていないからだと思われているのだろう。怒涛の日々に呑まれて、存在ごと片隅に追いやられていたらしい。無意識にぼんやりとその記憶たちを掻き集める。罪悪感で満たされていた部分に、少しだけ、優しい顔が見え隠れする。あぁ、会いたいな。ふっと、頬が緩む。久しぶりに、緊張が緩んだ気がした。
____.。○。.____
私は青い世界で突っ立っていた。いつものように煌めく青に期待を寄せるような感情ではなく、重たい、引きずるような錆びついた心を持ちながらだが。
学校も家庭も、どちらともそう安心できる場所ではない私にとって、ここはある種の逃げ場だった。駆け込み寺に人が走るように、私はここに身を隠す。私に対する敵意は、ここでは散り散りになってわからなくなる。分厚いガラス板と海水のヴェールが、光を乱反射させるのと同じように。
数カ月もこの場に来なかったのは初めてかもしれない。上手く機能しない頭でぼうと考える。私のことを覚えていてくれているだろうか。忘れられていたらどうしよう。私を見つければいつだって目の前に来てくれたあなたが、私のことを忘れてしまっていたら?流石にちょっと、こたえるかな。まぁでも、それならそれでもう一度覚えてもらえばいいだけか。
馬鹿のような結論を下して、ゆらゆらと歩き出す。平日に来たからか、思ったより人は少ない。ちょうどシャチのトレーニングの時間だったようで、いつにも増して、休日とは比べ物にならないほど閑散としている。あなたのいる水槽の前もそれは同じで、ラッキーだな、とぼんやりと思った。
「私のこと、覚えてる?」
レンズを向けて、焦点を泳いでいるあなたに合わせていく。ぴくり、瞼が反応した。良かった、覚えていてくれている。すぃーと近づいてくるあなたに合わせてシャッターボタンを押し込めば、目の前には真正面の顔。あぁ、やっぱり、可愛い。愛しい愛しい、私にとっての、一番の癒やしがそこにあった。
愛しい。途端に、その言葉に思考が反応して心が軋む。強制的に、心が思い出す。あぁ、そうだ、私は。愛しかった人を、捨てたのだ。忘れてはいけない。これは、この人生で背負っていなければならないもの。船の上に引き上げなければ、とすら思わせてくれないような、重たい、錨。ずるり、足がたわんで崩れ落ちそうになる。私は、悪い奴なのだ。手を差し伸べようとして、失敗した、偽善者。
詰まらない自責の思考に従って、息を詰まらせようと、喉が締まる。ぐぇ、と声に出さずに嘔吐いた。これは良くない、そう思って吸うことを意識を隙間に滑り込ませる。今どうにかしないと手遅れだ。呼吸を促す。大丈夫、ここなら大丈夫だから。そう自分に言い聞かせる。それでも締まる動きは止まらない。ますます酷くなっているような。じわじわと思考を介す隙間も閉じていく。嫌がる喉を押し付けて、抉じ開ける。大丈夫、大丈夫だから。
少し落ち着いてきたかな、と気を抜いた一瞬。ひゅ。笛のような音が鳴った。息の間隔が、狭まる。だらしなく開いた口から息が漏れる。は、は、は。これは、危ないやつだ。無駄に冷静な自分が頭の隅で静かに呟いた。
かひゅ。
息って、どうやってするんだっけ。呼吸をしすぎて回らない頭が、くらくらと世界を揺らす。あれ、わからなくなってきた。なんだっけ、なにかんがえてたんたっけ。あぁ、そうだ。いまさいゆうせんなのは、いきのしかただ。ええと、いきって、そうだ、やりかた。ゆっくり、いきをして、おちつかないと。
指先がびりびりと電流を流されたように痺れて、次第に硬直していく。耐えきれなくなったのか、カメラが、手から滑り落ちて行った。あ、と思う暇もなく、今の私には重たすぎる質量が、首にのしかかる。ストラップ、つけておいて良かった。
いつの間にか、がくがくと足が震え出した。立っていられる時間ももうあと僅かであることに気づく。大きく、視界が揺れた。すんでのところで踏みとどまる。どうしよう、いき、しないと。くるしい、くうきが、たりない。
だれか、たすけてくれないかな。たとえば、ほら。めのまえの、あなた、とか。
ふと思いついて、硬直する体に鞭を打つ。縋るように顔を上げた。目の前は、空っぽ。あなたはどこに行ってしまったんだろう。ひと目でもいいから、あなたを、視界に。そう考えて視線を泳がせる。
右上、いない。下、いない。左、上。
視線が、かち合った。
ああ。
急激に体から力が抜ける。ぺたり、と床に座り込んだ。呆然と、見上げる。視界いっぱいの、青色と、光。その中に佇む、あなた。太陽光が海水で乱反射して眩しい水槽。天使のヴェールなんて呼ばれる、光の差し込み。優しさと、好奇心と、奔放が籠もる、この世で一番煌めいている、瞳。私の全てがそこで、混ざって、溶けて、ゆらめいていた。
息苦しさで溜まっていた涙が、柔らかな絨毯に、円形を作る。薄暗かった世界が、愛しい青と、煌めきと、あなたで埋め尽くされている。その世界に、酷く、安心する。
ふっと、目線だけだったあなたが、顔がこちらを向いた。私はただ、ぼう、と見惚れていた。あなたの体が、降下体制に入る。すぃ、とゆっくり、降りてくる。それはまるで、神が世界に舞い降りてくるかのようで。泣きたくなるほど、美しくて。別段、私の目の前に来てくれるような動きではないことぐらいわかっていた。こんな状態で能動的に救いに来てくれるなんて微塵も思っていない。私達は違うのだから、感情を察し合うなんてほんの少ししかできなくて当たり前なのだ。ただ、それでも。私にとっては十二分の救いだった。光が降り注ぐ美しい景色の中で悠然と泳ぐその姿は、私にとっての、救いそのものだった。
無意識に手を伸ばす。あなたに、この手の指の先一つですら届かないことくらい、よく知っている。それでも私は構わなかった。手を伸ばしたという、その、事実が大事なのだと、思ったのだ。
ガラス板に、少し痺れの治まった手が触れる。冷たいのに、陽の光で暖められた水が心地良い。
見上げた先にあった世界は、あまりにも、美しかった。
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