第7話 そんな深刻なんですね
「早く出してよ。どこ?」
わたしの顔を見るなり、イラついたようすで、そんなセリフ。恐ろしい、タバコの禁断症状だ。これは、放っておくわけにいかない。
「ここで、全部渡すわけにはいきません」
「え?」
「わたしが、ユウジくんに勉強を教えてあげる。それで、ひとつの単元を理解するごとに、ひとつずつ返します」
違法なもので釣るのは不本意だけれど、しょうがない。この少年のコンプレックスを克服させるために、わたしの全てを注ぎ込まなくては。
「あんた、俺を教えられんの? バカそうなんだけど」
「…………!」
さすが、水沢くんの弟だけあって、確かな観察力。でも、年上として、ここは強気に。
「失礼な。学年で最下位なのを、下から20番目くらいにはできるはずです」
いくら、実際にバカな、このわたしでもね。
「何、レベルの低い話してんの? 俺、1番しか取ったことないよ」
「そんな、バカな」
赤い髪して、バンドなんかやっているのに?
「あんたと違って、遺伝子が優秀なんだよ。優を見なよ」
「ぐぐっ」
なんて、可愛いげのない中学生。つけ入るスキが、全く見当たらない。
「その擬音語とか、本当に気持ち悪い。頭おかしいんじゃないの?」
「…………」
それ以上、水沢くんと同じ顔で、打ちのめさないでください。
「どうせ、優ねらってんだろうけど」
「滅相もない」
つまらなそうに言いきったユウジくんに、そこは否定しておく。
「一生、片想いの覚悟ですから」
「どこがいいんだろうね。あんなつまんない男の」
「水沢くんは、つまんない男じゃないもん!」
いくら弟でも、それは聞き捨てならない。
「水沢くんはねえ、ユウジくんのことだって……」
きっと、お互いに心を開いて、仲良くしたいはずなのに。
「女の趣味も悪いし」
「えっ?」
そうは言っても、何気ないユウジくんの言葉に、反応してしまう。
「そっか。雪乃ちゃんが、水沢くんの幼なじみってことは」
もしかしたら、有意義な話が聞けるかもしれない。
「ユウジくんも、雪乃ちゃんと幼なじみってことなんだよね?」
少し緊張しながら、バッグの中から、ペットボトルのお茶を取り出した。
「幼なじみっていうより」
「うん。幼なじみっていうより?」
まさか、ユウジくんも、雪乃ちゃんを想っていたとか。
「ただのセフレ」
「……はい?」
今、何とおっしゃいましたか?
「さっき、空耳が聞こえたようですが」
なんだか、耳慣れない単語が。わたしの心まで、すさんでしまっているのだろう。
「ごめんね、ユウジくん。もう一回」
いくら何でも、そんなバカな。気を落ち着かせるため、お茶を口に含んだんだけれど。
「え? だから、セフレ。セックスフレンド」
「ぶほ!」
口の中のお茶、全部吐き出してしまいました。
「汚いな。信じらんない」
「どっちが……!」
いったい、どうなってるのよ?
「ああ、今後は相手にするつもりないよ。面倒だし、俺も彼女できたし」
「何考えてるの? 雪乃ちゃんも、ユウジくんも」
頭の中が、整理できない。
「何が? もうやらないって言ってんだから、問題ないじゃん」
「問題だらけでしょ?」
もう、全てが問題です。
「優は、ずっと雪乃のことが好きで。雪乃も、つき合うなら優だって思ってたんだから、あんたは部外者」
「それは、そうかもしれないけど」
明らかに、水沢くん、だまされてるもん。
「優なら、もう雪乃に食われてるんじゃない? いいから、早く全部出しなよ」
「…………」
何も考えられなくなって、言われるがまま、タバコをケースごと手渡してしまった。
「じゃあね。何だっけ? 臭野さんだっけ? 感謝してるよ」
「それ、違う!」
なぜか、ユウジくんの頭の中の文字が、わたしには見えたのです。
「臭い方じゃなくて、草木の方の草野ですから」
こんな乙女に向かって、臭いとは許せない。
「ふうん。まあ、どうでもいい。じゃあ、永遠にサヨウナラ」
「あ、ちょっと……!」
また、逃がしてしまった。でも、ユウジくんの言うとおり、わたしは部外者で。水沢くんと雪乃ちゃんが何をしようと、止めることなんか、できるわけがなくて。
「つらいよ……」
あまりにも別次元の話で、現実味もわかないのに、それでも理屈抜きに心が痛くて、体中が悲鳴を上げている。
「つらいよ、水沢くん」
それなのに、なぜ、水沢くんを忘れるという選択肢が、わたしにはないのでしょうか?
「草野さん」
休み時間、ぼんやりと窓の外を見ていたら、水沢くんの声が。
「はい!」
やっぱり、無条件に背筋が伸びるのです。
「昨日は、ありがとう」
「えっ?」
わたし、水沢くんに感謝されるようなことなんて、しましたっけ?
「バイト中に、弟が行ったでしょ? それで、ト……」
「わかった、あれね! あれですよね、あれ。“ト” がつくもの」
トイレットペーパーなんて単語、水沢くんには似合いませんから。
「よくわかったね、弟だって」
いつもの優しい笑顔。
「そりゃあ、もう」
中身は全然違うけれど、同じ顔ですもの。
「あっても、困らないものかなあと思って。お近づきの印に」
わたしが手垢をつけたトイレットペーパーを水沢くんに使わせたいとか、そんな変な意図がなかったこともわかってもらえているみたいで、安心した。
「……草野さんに、失礼なこととか、言ってないといいんだけど」
「や、大丈夫だよ? うん」
いろいろ、聞きたくないことは、聞いちゃったけれど。
「よかった。じゃあ」
「あ、水沢くん」
我慢できずに、呼び止めてしまった。
「ん?」
こんなにも優しくて、純真な瞳をしている、水沢くんなのに。
「あのね」
何も知らずに、雪乃ちゃんに、身も心も溺れてしまっているのでしょうか?
「水沢くんは、安易にすぐ性行為に踏み切る女の子のこと、どう思う?」
「…………」
「えーと、その……」
一瞬で、後悔した。今までに触れたことのない空気を、水沢くんが発しているのを感じて。
「草野さん」
「は……い」
これは、完全に怒っている。いつも完璧な人当たりの水沢くんが隠しきれないくらい。
「弟が草野さんに何を言ったのか、僕にはわからないけど」
冷静な口調から伝わる、わたしへの嫌悪の感情。
「僕は、何も知らないわけじゃない」
「違くて、あの……」
何も違わないけれど。だめ。体が震えて、声がつまる。
「でも、今みたいな彼女への侮辱は、草野さんでも許せない」
「ご……ごめ、なさ……」
“ごめんなさい” の6文字ですら、まともに返せない。
「あ……いや。僕の方こそ、ごめん」
そこで、我に返ったかのように、謝られたけれど。
「ううん」
嫌われちゃった。でも、せめて。
「呼び止めて、変なことを言って、ごめんなさい」
これ以上は嫌われたくない。もう一度、心から丁寧に謝って、教室に戻った。
「なっちゃん……!」
なっちゃんの、うらやましいくらい豊満な胸に、一直線に飛び込む。
「どうしたのよ? 今度は」
言うまでもなく、水沢くんは、雪乃ちゃんだけの王子様。歴史の重みが、全然違うのです。
「どうしよう……? 嫌われちゃったよ」
王子様のお姫様への愛は全てを超越していて、わたしの気持ちなんて、最初から紙くず同然だったのです。
「それなのに、もっと好きになっちゃった」
「本当に、あんたは……」
人魚姫みたいに、泡になって消えるまで、わたしはきっと、水沢くんだけを想い続けるのです。
「お先に失礼いたします。今日も、がっつりと社会勉強させていただき、ありがとうございました」
本日の勤務も、華麗な仕事ぶりで、無事に終了。店長に挨拶して、店を出てきた。今のわたしにとっては、とてもありがたい、バイトの存在。仕事に打ち込むことで、気をまぎらわせるから。が、しかし。
「…………」
行き帰り、水沢くんの家の前に差しかかるたび、無意識に立ち止まってしまうのは、仕方がないことで。
「ん?」
耳を凝らすと、ごくわずかに、ピアノの音が聴こえてくるような……。
「失礼します。悪さはしません」
一応、きちんと断りを入れてから、敷地内に侵入。
いつかみたいに、壁に耳を押し当てたら、かろうじて浮き上がってきた、柔らかいメロディー。
「何だっけ? この曲」
心がウキウキと弾むみたいで、それでいて、ほんの少しだけ、中盤は切なさを感じさせる。そんな甘酸っぱい旋律。
「たしか、春の歌……だったかなあ」
作曲者は忘れちゃったけれど、昔、ピアノを習っていた頃に、先生に弾いてもらったことがある。春を迎えた、うれしさ。つまり、水沢くんの今の気持ちなんだろうね。
「やっぱり、好きです」
でも、わかっています。
長い年月、水沢くんに愛されてきた雪乃ちゃんが、もう水沢くん以外の誰にも目を向けないように、わたしも祈るしかない。学校での水沢くんを思い起こすと、そんな気持ちにならざるをえないのです。
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