第4話 こんなに切ないなんて
「中のソファに座って、楽にしてて。今日は、親もいないから」
「えっと……ここ?」
見たこともない、大がかりな取っ手のついた、変わった部屋。
「防音室になってるんだ。今、タオル持ってくるよ」
「防音室?」
「そう。外の音も入ってこないから、ちょうどいいでしょ?」
やっと、いつもみたいに、力の抜けた水沢くんの笑顔が見れた。
「何から何まで、ありがとう」
水沢くんのハンカチで鼻の穴を押さえながら、頭を下げた。
「全然。ほら、入って」
「はい。お邪魔いたします」
言われたとおりに、目の前の部屋に足を踏み入れてみると。
「わあ……」
真ん中に、ピカピカに光った綺麗なグランドピアノが!
「すごい」
一般家庭にグランドピアノが置けるなんて、初めて知りました。
「これで、しばらく冷やすといいよ」
「あ、うん……! ありがとう」
水沢くんの持ってきてくれた、冷水で絞ったタオルを鼻にのせると、いつかのいい匂いが……。
「じゃあ、脱いで」
「ええっ!?」
思わず、タオルを落としてしまう。
「脱ぐって、何を?」
考えてみたら、ここは密室で、しかも完全防音という特殊な環境。そして、この真上では、弟カップルが今も不純な行為を……!
「ああ、ごめん」
はっとして、恥ずかしそうに反応した、水沢くん。
「ブレザーの血の跡が残らないように、応急処置しようと思って」
「あ、制服……」
必要なのは、わたしの体ではなく、服の方でしたか。
「ああ、何か羽織るものがあった方がよかったね。僕のカーディガンでよかったら」
「や、平気! お母さんが通販で買った、万能洗剤が家にあるから」
さすがに、そこまでしてもらうわけにはいかない。
「そっか。はい、これ」
「……ありがとう」
さっき、膝の上に落としたタオルを、水沢くんに拾ってもらった。そんな細やかな優しさにも、ドキドキするのです。
「今日は、どうしたの? また、バイト探し?」
「えっと……この前、面接のときに忘れ物しちゃったから、それ取りに」
こういう嘘も、水沢くんには、もうつきたくないんだけれど。
「いつも水曜日は図書館に行ってるから、僕は家にいないんだ。今日は、たまたま休館日でよかった」
わたしの方に体を向けて、ピアノの椅子にかける、水沢くん。
「そうだったんだ……」
あんなの毎週聞かされていたら、たまったもんじゃありませんものね。
「あ。あと、そのね……この鼻血のことなんだけど」
しっかり、誤解のないように。
「断じて、弟さんの彼女の声を聞いて、興奮したとかでは……」
「やっぱり、外まで聞こえてたんだね」
水沢くんの表情を曇らせてしまった。
「や、そういうわけでもないんだけど……!」
わたしってば、なんとよけいなことを。敷地内に入って、耳を側立てなければ、何の問題もありません。
「弟の考えてることは、僕にもわからないんだ。なんだか、わざとやってるようにも思えるし」
「あの……すごいピアノだね、水沢くん。学校の音楽室のピアノより、立派みたい。音も迫力があって、綺麗なんだろうね」
追求されると気まずくもあるし、水沢くんがつらそうでもあったから、話題を変えてみた。
「ああ、うん。驚くよね、家にグランドピアノなんて」
その気持ちが通じたみたい。明らかに、うれしそうに応えてもらえたのが、わたしもうれしい。
「この前、水沢くんがコンクールで弾いた『熱情』っていうのは、どんな曲なの? 作曲した人は、ベートーベンだっけ」
今度は、合ってるよね?
「『熱情』はね、ひとつの曲じゃなくて。3楽章で成り立ってる、ベートーベンのソナタの第23番のこと」
「ガクショウ? ソナタ?」
またもや、無知でごめんなさい。
「わたしね、ピアノの曲で知ってるのは、『別れの曲』くらい」
前に、お母さんが家で観てた昔のドラマのDVDの中で、誰かが弾いてたから。
「あ。でも、あんな難しそうな曲、さすがに弾けないですよね」
終わりの方とか、すごかった記憶が。
「ショパンの練習曲は、一応目を通してあるけど」
「練習曲?」
「うん。『別れの曲』っていうタイトルは、俗称なんだよ。あれは、ショパンの練習曲集の中の一曲」
「そうなんだ!」
全然、知らなかった。
「そう。ショパン自身は、自分の曲に標題をつけられるのを嫌ってたから、きっと不本意な呼ばれ方なんだよね」
「へええ……」
水沢くん、本当にピアノが好きなんだろうなあ。さっきから、話を聞いているだけで、それが伝わってくる。
「いいなあ。わたしも聴いてみたかったな。水沢くんのピアノ」
絶対、感動したに違いないのに。A組女子ばっかり、水沢くん独占しちゃってさ。
「それなら、聴いてくれる? よかったら」
「え……?」
鼻をタオルで押さえたままの状態で、聞き返した。
「今日は気まずい思いもさせちゃったし、お詫びも兼ねて。ショパンなら、本当は弟の方が得意なんだけど」
立ち上がって、『ショパン エチュード集』という楽譜を手に取る、水沢くん。
「わあ……」
こんなに幸せで、いいのでしょうか?
「途中で楽譜をめくるの、頼んでもいいかな。わかったらでいいよ」
「あ、うん! まかせて」
一応、わたしにも、ピアノの経験はあるのです。全然進まなくて、有名な曲が弾けるようになる前に挫折しているけれど。
「じゃあ」
楽譜を見つめる、水沢くんの真剣な目。そして、水沢くんの指先から零れる音の、なんて繊細なこと。
聴き慣れたはずの甘美なメロディーは、情感に流されることなく、予想外に誠実で。逆に、ピアノに向き合ってきた奥行きと情熱が、静かに伝わってくる。
中間部の相当な技術を要するところだって、派手さや華美さを全く感じさせない分、曲そのものの魅力だけが胸に響くの。
わたし、わかったよ。水沢くんは、ただ優しいんじゃない。一時も目を離さないで楽譜に対峙している水沢くんは、いつでも誰に対しても、こんなふうに真摯な姿勢で向き合ってくれるんだ。
「草野さん?」
曲が温かい音で終わりを告げても、ずっと放心状態でいたわたしを、水沢くんが座ったまま、少しだけのぞき込んだ。
「……です」
「え?」
もう、言わずにはいられない。
「好きです」
「この曲? うん。僕も、好きだよ」
水沢くんが優しい笑みを浮かべた。
「愛してます」
「感情が豊かな人なんだね、草野さんて」
今度は、わたしの発言に感心してくれたようすの水沢くん。
「そこまで、曲に入り込んでもらえるなんて……」
「違うの。そうじゃなくって」
抑えがつかなくなって、水沢くんの袖をつかんだ。
「水沢くんが、好き……です」
「…………」
水沢くんの顔なんて、まともに見れない。でも、相当驚いていることは、雰囲気でわかる。
「だから、あのね」
相当、困っているみたい。それは、そうだよ。こんなわたしなんかに、いきなり好きって言われたって、どう答えていいものか、わかるはずがないもん。
「だから……」
でも、ちゃんと言いきらなくちゃ。
「もし、よかったら、わたしを水沢くんの彼女にしてください」
「ごめん」
「あ。やっぱり」
当然ながら、即答でした。
「や、わかってた! ちゃんと、わかってたから。わたしのことなんて、水沢くんが何とも思ってないこと」
そうは言っても、つらい。つらくて、泣いちゃいそうだけれど。
「好きな子がいるんだ。だから、ごめん」
「好きな人が……」
まだ、鼻血が止まったかどうかもわからない。変態と思われても、異論の唱えようがない。そんなわたしからの突然の告白にも、一人前の女の子として対応してくれる、慈悲深い水沢くん。
「そんな顔しないで、水沢くん」
困惑して、申し訳なさそうにしている水沢くんを見ると、わたしが今までに受けてきた水沢くんからの純粋な好意を踏みにじってしまったようで、つらいです。
「今の、忘れてもらっていいんで。水沢くんの彼女になれるなんて、最初から思ってないし」
そこまで、わきまえていない女ではありません。
「勝手に、わたしが伝えたくなっちゃっただけなので」
そうは言っても、泣けてきた。鼻水と鼻血の区別がつかないのが、情けない。
「これからは、水沢くんが嫌なら、話しかけたりしないから。ただ、好きでいさせてもらえたら、それで……」
「だめだよ、そんなの」
そこで、黙っていた水沢くんが、口を開いた。
「草野さんの気持ちも知らないで、期待させるような態度をとった、僕が悪いんだと思う」
「そんなことない」
あわてて、首を振る。だって、そう思われるのが、いちばんつらいのに。
「……でも、僕は」
一度ためらってから、水沢くんが続けた。
「草野さんのことは、この先もきっと、恋愛の対象として見ることはできない」
「大丈夫! わかってる」
わざわざ、言いにくいことを確認までさせてしまって、ごめんなさい。
「だから、僕を好きでいるなんて、そんな無駄な時間を遣ってほしくない」
「…………」
「草野さん?」
だけどね。これだけは、言っておきたいの。
「そんな全部、水沢くんの都合のいいようになんか、いかないんだから……!」
「草野さん」
引き留めてくれたのをふり払って、走って玄関に向かう。
「タオル、新しいのを買って返します。それじゃあ」
水沢くんを悩ませる弟カップルにも聞こえるような大きな声で言い放って、ドアを閉めた。
「水沢くんの、バカ……」
早足で駅に向かいながら、小さくつぶやく。わかってるよ。完全な逆ギレ以外の何物でもない。でも、それでも。
「バカだなんて、思ってません。ごめんなさい。好きな人がいても、相手にされなくても、わたしは水沢くんのことがずっと好きです」
この気持ちを、どうしたらいいのでしょうか?
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