第3話 とてつもなく遠いです
「水沢くんの部屋から、喘ぎ声が聞こえてきた?」
「ちょっと、なっちゃん……! 声が大きいってば」
なんて、無神経な友達なのでしょう。こんな教室の真ん中で、堂々と。
「ふうん。逆に、見直したわ。やるねえ、水沢くん」
「…………!」
わたしがこんなに落ち込んでいるのに、なんてことを。
「ちょうどよかったんじゃないの?」
「どうして? それが、友達への言葉ですか?」
ムキになって、なっちゃんを問い詰める。
「あんた、本気で水沢くんの彼女になれるとでも思ってたの? まさか」
「いえ……」
それを言われたら、身もフタもありませんが。
「そろそろ、自分に合った男でも探してみたら?」
「わたしはね、なっちゃん」
そんなつもり、さらさらないと言いきろうとしたときだった。
「へえ。王子、部屋に女連れ込んで、やり放題か」
「達也」
また、よけいな男が。
「水沢くんは、達也とは違うんです」
水沢くんは、本当に好きな一人の女の子としか、そういうことをしないんです。わたしにとって、どっちがいいのかは微妙だけれど。
「まあ、そうとも限らないけどな」
達也が横目で見てくる。
「何?」
めずらしく、気のきいたことでも?
「意外と、一人でAVでも鑑賞してたんじゃねえ? 家に誰もいない時間を見計らって、大音量で。本棚の参考書の奥に、激しいのを隠し持って……」
「バカなこと、言わないでよ!」
よりによって、そんなものを水沢くんが見ていたなんて。
「そりゃあね、だいぶ激しそうだったけど」
あの女の子の声から、想像するに。
「あの清潔感の塊のような水沢くんが、毎週水曜日に、いそいそとAV鑑賞なんて……」
「ちょっと、葵」
「えっ?」
しばらく黙って傍観していた、なっちゃんの指差す方向を見た。わたしをすごい目でにらんでいる、A組女子軍団。
「あ」
こっちに嫌な視線を送りながら、ヒソヒソ話。
「どうしよう? 達也のせいだよ」
水沢くんに、不名誉な噂が立ってしまうじゃありませんか。
「知るかよ、そんなの」
「わたしも知らなーい。これに懲りて、行動を慎むんだね」
「なっちゃんまで!」
水沢くんが、影で『エロ王子』なんて呼ばれるようになったら、どうしてくれるの?
……が。そんな心配、全く無用でした。
「ほら、あれが草野。水沢くんのこと、AVマニアの変態だとか触れ回ってる」
「何? それ。変態は、あいつの方だろっつーの。やばすぎるでしょ」
他のクラスの女子たちのあからさまな攻撃だって、水沢くんのためならば、耐えられます。もっとも、少しは変態だっていう自覚もあるし……と、そのとき。
「水沢くん!」
視界に入った、水沢くんの後ろ姿。ここまで騒がれてれば、水沢くんの耳にも入っているはずだし、勇気をふりしぼって、声をかけてみると。
「草野さん」
近づいてきてくれる、足音すら爽やか。
「あ、あの……」
でも、内心さすがに、怒ってるかもしれない。うつむいたまま、言い訳を考えていたら。
「初めてだね」
「はい?」
予想外の言葉に、顔を上げた。
「いや、初めてだなと思って。草野さんの方から、話しかけてくれたの」
「…………」
なんて、清らかで無邪気な笑顔。例の声にショックを受けながらも、あんな想像や、こんな想像をしてしまった自分が汚らわしく感じられます。
「あのね、水沢くん」
とは言っても、どう切り出せばいいのか。
「ああ、噂の話? 僕が、大量のA……」
「わあ、だめ! そんな低俗な単語、水沢くんが口にしては」
わたしの目の黒いうちは断固として、阻止します。
「や、ううん。ごめんなさい。わたしのせいで、変なことになっちゃって」
真面目に、頭を下げた。やっぱり、失恋の余韻に浸るどころじゃない。
「草野さんがそんな噂を流したなんて、信じてないよ。何かの行き違いでしょ?」
「そうなんだけど……」
どうして、そんなに優しいのでしょう? 水沢くんは。
「そういえば、どうなったの? バイトは」
「あ……採用の連絡、来なくて」
こうなった今となっては、ちょうどよかったのかな。あれだけ、楽しみにしていたけれど。
「そっか。残念だったね。あ、これ」
「えっ?」
バッグの中から取り出した本を、水沢くんに手渡された。
「これって」
世界史の参考書?
「一年のときに使って、役立った本なんだ。いらなくなったら、処分してもらっていいから」
「水沢くんが……」
「そう。ずっと渡したいと思ってたんだ。よかったよ、声かけてもらえて」
いつも優しくて、まっすぐに目を見て笑ってくれる、水沢くん。
「……ありがとう」
やっぱり、あんな場面に遭遇したからって、嫌いになんかなれない。でも、こんなふうに優しくしてもらえると、かえって距離を感じてしまうのが、最近はつらいのです。
「あ。じゃあ、友達が呼んでるから。またね、草野さん」
「はい。ありがとう。さようなら」
水沢くんに優しくしてもらえたことは、一生忘れません。
「ありがとう……」
もう一度、水沢くんの耳には届かないくらいの小さな声で、つぶやいた。少しでも水沢くんと関わり合えただけで、わたしは心から、本当に幸せでした。
「何、ぼさっと突っ立ってるんだよ? 葵」
「…………」
「何だよ? その目」
どこからともなく現れた達也のガサツな口調に、げんなりするけれど。
「さようなら、水沢くん」
「あ?」
「何でもありません」
わたしはこれからは、わたしと見合う達也程度のレベルの男子に目を向けて。そして、水沢くんとの想い出を胸に、ひっそりと生きていこうと思います。
で、そのために。
「今日も来てるんだろうなあ……」
再び、水沢くんの家の前にいる、わたし。あまりに水沢くんの存在が清々しいから、この前のあれは、わたしの空耳だったんじゃないかと考えてしまうのです。だから、未練を断ち切るためには、しっかりと現実を受け入れなければ。が、しかし。
「う」
今日は、一段と激しさが増している。これはもう、疑いようがない。バカ達也の言ったとおり、いっそAVだったら……なんてことまで考えたけれど。この女の子の声の臨場感、生々しさは本物です。
…………。
帰ろう。わたし、何をやっているんだろう?
周りを確認して、誰にも見られないように門を後にした。そして、今度こそ、自然と出てくるのは……。
「ええっ?」
涙じゃなくて、血? 赤く染まったブレザーを見ても、何が起こったのか、一瞬わからなかったけれど。
「うわあ」
なつかしい、鼻の中の生温い感触で気づいた。鼻血……!
「や、違うんです」
決して、水沢くんと彼女の行為を想像して興奮したわけではなく、小さい頃から、鼻血を出しやすい体質なのです。そこだけは、きっちりと道行く人にも理解してほしい……と、必死でティッシュを探していたら。
「草野さん! 大丈夫?」
「え……?」
わたしを気遣ってくれる、この声は。
「とりあえず、これ」
「ううん、そんな!」
何のためらいもなく、目の前に差し出されたハンカチ。
「いいから」
逆に、ためらうわたしを怒るような、めずらしく強い口調。頭の中が真っ白になる。どうして、水沢くんが、ここに?
「家、入って」
二階の部屋の方向を見上げて、小さくため息をついたあと、有無を言わせない態度で、そんなことを言う水沢くん。
「あれ? えっと、でも……」
わたしの方は、まだ状況がのみ込めていない。水沢くんは、あの二階の部屋で、まさに彼女と行為に及んでいる最中ではなかったのですか?
「早く」
「あ、はい……!」
なんで、わたしがこんなところにいるのか。そんな疑問より、わたしの事態を優先してくれるなんて。
「何が聞こえてきても、少し我慢してくれる?」
「う……うん」
これで、水曜日の全貌が明らかになりそうだ。恐縮しながら、スリッパまで借りて廊下を進むと、さらに大きく聞こえてくる例の声。
「ごめんね、草野さん」
初めて見た、水沢くんの気まずそうな表情。
「弟の彼女が来てるんだ」
「弟さんの……」
他人に知られたくない、そんな事情があったんだ。それでも、血まみれのわたしのために、家に上げてくれた。
「ごめん、だなんて……」
水沢くんの行動全てに胸が詰まって、言葉が出ない。そして。
「こっちに」
「……うん」
こんなに近くで、こんなにも大きな水沢くんの優しさに触れているのに、水沢くんとの距離は、あまりにも遠いのです。
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