第37話・ジェイラスという男
ジェイラスという男は、元はルゼンベルクの、それなりの商家の長男として生まれた。ある程度生活に余裕があったため、ジェイラスは教養として剣術を習わされていた。
しかしジェイラスの父はある貴族の不興を買い、それが原因で事業に失敗した。そうしてジェイラス一家は、ただの貧しい平民に成り下がった。
ジェイラスには、幼い弟や妹がいた。家族を養うため、彼はイルヤーシュ公爵家の、ルイーザの護衛となった。
公爵家の護衛ともなれば、貴族の次男や三男など、もっと身分のある者を雇うことも可能だが。ルイーザは自分の護衛になる者の条件として「美しい男。顔が気に入らない男を傍に置くなんて嫌だもの!」と強く主張しており、両親が用意した護衛を、容姿を理由に次々クビにしていっていたのだ。その点、若く顔立ちも整っていたジェイラスは、見事にその条件に当てはまり、雇われることになったのだった。
しかしルイーザの傍での暮らしは、悲惨だった。守るべきルイーザはひどく傲慢で、いつも女の使用人は虐げ、美形の男は自分の所有物……意思などない物品のように扱っていた。ジェイラスは護衛だというのに、彼女のご機嫌取りばかりさせられていた。ルイーザが不機嫌なときには、食器や花瓶を投げつけられることも多々あった。
それでも生活のため、妹達を養うため、護衛の仕事をやめることはできなかった。
同じ公爵令嬢でありルイーザの友人として、シェリルリリーがイルヤーシュ邸に訪れることも多々あったが、彼女もやはりルイーザの同類であり、次第にジェイラスは、貴族、特に令嬢というものに苦手意識を持つようになった。
(上流貴族というのは、皆腐っているのか……?)
ジェイラスは世を憂い、日常は灰色で、何もかもが嫌になっていた――
そんな彼は、ルゼンベルクの王都平民街で、偶然にもとある光景を目撃する。
――『私はヴィオラマリー・ゴールベル。同じ貴族として、あなたの理不尽な行いは見過ごせません』
それは、悪しき貴族からダリウスを救った、ヴィオラマリーの姿だった。
あの日あの時、あの場に。周囲の大衆の一人として、彼もいたのだ。
シェリルリリーの姉としてその名は知っていたものの、あの女の姉ならばどうせ同じように性根が歪んでいるだろうと思い込んでいたため、それまで興味がなく深く知ろうともしていなかった。
だがヴィオラマリーの毅然とした姿は、貴族の令嬢など皆、平民を人間と思っていないのだと考えていたジェイラスにとって、眩しい光のようであった。
(貴族の令嬢であっても、あのような御方もいるのだな……)
ルイーザと同じ公爵令嬢だというのに、心が強く美しい、優しい御方。
ジェイラスはすっかり、彼女に心奪われた。
だが、相手は公爵令嬢だ。気安く声をかけていい存在ではない。
シェリルリリーならルイーザと仲がよく、イルヤーシュ邸にもそれなりに遊びに来るのだが、ヴィオラマリーはそうもいかない。ジェイラスは彼女に想いを募らせながらも、一方的に彼女を知っているだけで、結局接点を持つことができなかった。
そんなある日――イルヤーシュ邸にて、シェリルリリーとルイーザがお茶をしていたときのことだ。
――『この前、ヴィオラマリーのドレスを破いてやったときは、楽しかったわよねぇ!』
――『本当! また今度、何かあいつの大事な物を壊してやりましょうよ』
ジェイラスは、ルイーザとシェリルリリーが、ヴィオラマリーに陰湿な嫌がらせをしていることを知ってしまった。
(あんな心優しい御方が虐げられているなど、とんでもない。なんとしてでもやめさせなければ……)
その夜、ジェイラスはルイーザと話すことにした。
「ルイーザ様。護衛である私がこのようなことを申し上げるのは、無礼だとは存じておりますが……」
ジェイラスは、たとえルイーザにとっては軽い気持ちでも、嫌がらせを受ける当事者は心に深い傷を負うこと。そういった行為はイルヤーシュ公爵家の評判にもかかわるということを、なるべくルイーザの神経を逆撫でしないよう、極めて丁寧に説明した。ルイーザがそんな言葉を聞き入れるとは思えなかったが……それでも、どうしてもヴィオラマリーへの暴虐は止めたかったのだ。
「ふぅーん……あなた、私にそういうことを言うのね」
ルイーザはジェイラスの言葉を聞いた後、紅を引いた唇に弧を描く。
それはまるで、いたぶり甲斐のある獲物を見つけたかのように。
「ねえ、ジェイラス。私の機嫌を損ねたら、あなたの家族がどうなるか、わかってる?」
「……っ」
「あなた、解雇されたら、故郷の家族に仕送りができなくなるわよねえ? それだけじゃないわ。イルヤーシュ公爵家の力で、あなたみたいな平民の家族なんて、どうにだってできるのよ」
クスクスと、ルイーザは蟻を弄ぶように嗤う。
ジェイラスだって、彼女が素直に言葉を聞き入れるとは思っていなかった。だからといって、よりにもよって家族を人質にとるなど、あまりにも卑劣だ。
言葉を返せずにいるジェイラスに、ルイーザは言い放つ。
「わかったら、今後は二度と私にそんなことを言わないようにね。でないと……どうなっても知らないから」
ジェイラスの、ヴィオラマリーを救いたいと思う気持ちは、本物だった。
だが結局、何も……何もできなかった。身分による格差が激しいルゼンベルクにおいて、ルイーザとシェリルリリー、公爵令嬢である二人を、平民が止めることなど不可能だ。
そうこうしているうちに、ヴィオラマリーの処刑が決まった。ジェイラスは、処刑の場には行けなかった。誰より心優しい彼女が、無惨に首を落とされる場面など、直視できるはずがなかったからだ。
だから彼は、聞くことがなかったのだ。「私はシェリルリリーよ」「入れ替わってしまったの」という言葉を。あの日、断頭台で処刑されたのはヴィオラマリー本人だと思っていた。身勝手なシェリルリリーは、ルゼンベルクという小国を捨て、ノイスヴェルツの王子を落として、大国の王妃として人々の上に立つことを選んだのだと思い込んでいた。
(ヴィオラマリー様を処刑に追いこんだ奴らを……許せない、絶対に)
殺してやる――あの御方が処刑されることになったのだから、あの御方を虐げた貴様らも、殺してやる。
いつしかそんなふうに、ジェイラスの中で、シェリルリリーとルイーザに対しての殺意が膨れ上がっていった。
もはや、自分に生きている意味などない。ヴィオラマリー様がいなくなった、こんな腐りきった世界に未練などないのだから。
自分が王妃と公爵令嬢を殺せば、家族にも汚名を着せてしまうだろう。それはわかっている。それでも、どうしても、希望の灯を無惨に奪われた復讐の炎を消すことができない。
ヴィオラマリー様を苦しめてきたルイーザに、とびきり屈辱的な思いをさせてやりたい。
あの女にとって最も屈辱的な行為とは何だ? ――そうだ、自分の虜だと思っていた男に、無様に捨てられることだろう。
だからこそ、決めた。徹底的にルイーザを慕っていると見せかけ、裏切ってやるのだ。
「ルイーザ様。私は今まで、間違っていました。あなたの言うことが、全て正しいのです」
「よかった! ジェイラスはやっとわかってくれたのね、うふふっ」
ルイーザの言うことを全て肯定し、まるで恋する少年のように彼女に尽くす。そして殺す瞬間に、全て裏切ってやるのだ。今までの好意など全て演技だった、本当はずっと貴様のことが大嫌いだったのだ、と。……それでも、ヴィオラマリー様が味わってきた苦しみと比べれば、足りないだろう?
……かつて娯楽場で彼がローザミレアと交わした、あの会話の真意は。
――『ええ、天職ですよ。誰よりあの方のお傍にいられますから。ルイーザ様は、誰にも殺させません』
誰よりルイーザの傍にいられる。それはつまり、いつでも殺してやれるということ。……ああ、他の誰にも殺させないとも。ルイーザは私がこの手で殺すのだから。
――『――平民と公爵令嬢との恋なんて、叶うものではありませんから』
そう――私がどれだけ想っても。公爵令嬢であるヴィオラマリー様への恋など、最初から叶うはずがなかった。だけど、彼女が誰と結ばれてもいいから……生きていて、ほしかった。
――『ははっ。私の恋なんて、実るようなものじゃないんですよ』
ああ、この恋は実らない。だって誰より愛しい人は、死んでしまった。断頭台で、無惨に命を奪われたのだ。「シェリルリリー」の悪意によって――
(ヴィオラマリー様。私は、あなたの仇を討ちたい)
シェリルリリーが王妃として幸せに暮らしているなど、絶対に許せない。
ヴィオラマリー様を虐げたシェリルリリーとルイーザを両者とも殺し、自分も死を選ぶ。
そうして悪に粛清を下し、空の上で、ヴィオラマリー様に会うことが叶ったなら――
結ばれなくても構わない。どうかあなたに、この心を救ってくださった礼を伝えたいのだ。
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