第9話・赤い氷のような瞳

 ローザミレアは、故郷で心の醜い人々を見すぎた。姉、姉の取り巻き、両親、婚約者、国王……誰もが彼女を理不尽に虐げた。今思い出しても、心が凍りそうになる。


 だけど世界には、そうでもない人間もちゃんといるのだ、と……心に微かな温もりが宿る。


 そんな思いで彼を見つめていると、ヴィルフリートがふとローザミレアに柔らかな眼差しを向ける。


「礼を言う、ローザミレア。君がいなければ、この地に辿り着くことはできなかった」

「……いえ。お礼なら、私よりフリューゲルに言ってあげてくださいな」

「ああ。フリューゲル、君もありがとう」


 ヴィルフリートは微笑を浮かべたまま、フリューゲルを撫でる。フリューゲルは嬉しそうに目を細めた。


(ノイスヴェルツのヴィルフリート王子殿下は、あまり笑わない冷たい御方だ、と噂で聞いたことがあったけれど……噂なんて、やっぱりあてにならないわね。この方は……優しい方だわ)


「……殿下。あなたはここに来る前、死ぬようであれば自分はそこまでなのだと、仰っていましたが。この地に辿り着いたということは、やはりあなたが王になるべき御方だということなのでしょう。その尊い命、大事になさってください」


(民のことを第一に考え、民の幸せを自分事のように喜べるこの人であれば……きっと、いい王になるのだろうな)


「…………」


 ローザミレアの言葉に、ヴィルフリートは微かに目を見開いた。氷のような瞳に、一瞬熱が灯ったようにも見えた。


「あなたと共にこの地に辿り着けたことを、光栄に思います。ヴィルフリート殿下」

「……こちらの台詞だ、ローザミレア」


 そう言って、彼は微笑む。まるで雪解けのように、夜を照らす星のように。

 これほど美しい微笑みを、ローザミレアは見たことがない。

 王としての資質を持つ彼に対し尊敬の念を抱く一方で――自分はどうだろう、と自問する。


(私は、実の姉を断頭台に追いやった。……そしてそれを、後悔するつもりもない)


 あのままグゾルとシェリルリリーが結婚していたら、ルゼンベルクは今以上の腐敗した国家になることを止められなかった。


 ルゼンベルクの王家は腐っている。王家と貴族達ばかりが血税で豪遊し、最下層の貧民は、まともに人間としての扱いを受けていない。生まれによって差別され、支配され、虐げられ、その日の食べ物にも困窮している人々が大勢いるのだ。


 ローザミレアは公爵令嬢であったが、一日二食の残飯と水だけを与えられ牢獄で過ごしたからこそ、わかる。空腹がいかに辛いか。衛生的でない暮らしを強いられることが、いかに心を貧しくするか。


(私は……ただ綺麗で心優しい令嬢には、なれないわね)


 今もローザミレアの胸には、復讐の黒い炎が燃え盛っている。


 もしもこの先ノイスヴェルツで恵まれた日々を送り、ルゼンベルクのことを忘れれば、穏やかな人生を歩めるのかもしれない。だが、それはできない。


 ルゼンベルクでの日々は、忘却なんて有り得ないほどに深く心に刻みつけられ、いつだって膿んだ傷のようにじくじくと痛むのだから。


「どうした、ローザミレア」


 ヴィルフリートに現在の名を呼ばれ、はっと我に返る。


「……いえ。なんでもありませんわ」


(いけない。これは、私の人格も試されるテストのようなもののはず。醜い復讐心など、悟られてはいけないわ)


「ルゼンベルクのことでも思い出していたか」

「まさか。こんな美しい景色を前にして、そのような……」

「隠す必要はない。王妃になる未来が約束されていながら、婚約破棄して逃げ出してきたんだ。君は今まで、相当不当な扱いを受けていたんだろう。何せ、一人で森の中を彷徨う羽目になるほどだ」

「え? ……あ」


 そういえばフリューゲルとの出会いについて話す際、確かにそれを言ってしまった。


 公爵令嬢が一人で森を彷徨うことになるなど、普通は有り得ない。百歩譲って散策だとしても、本来であれば護衛がつくに決まっている。


「もう、過ぎたことですわ。こんな素敵な場所に来られたんですもの。いつまでも嫌なことを引きずるのはやめにします」


 ノイスヴェルツへやって来たのは、いずれはこの国の力も借りてルゼンベルク王家に復讐をしたいと思っていたからだ。だが今この段階で復讐心を知られるのは時期尚早だと、ローザミレアは考えていた。だからこそ心にもないことを口にし、心優しい令嬢のように振る舞おうとする。


 すると、ローザミレアの表情を窺い見るように、ヴィルフリートが彼女との距離を詰め、顔を近付ける。


「君の、未知の場所へ行くのはワクワクすると言っていたときの笑顔はよかった。だが……無理に笑おうとするその顔は、見ていられないな」


(……!)


 公爵家の令嬢として、本心はどうであれ、いつだって優美に微笑めるすべは身に着けていたはずなのに、と。ローザミレアは若干の焦りを抱くが、顔には出さないよう努めた。


(牢獄にいた間、まともに人と接していなかったから……仮面の被り方を忘れてしまったかしら。いけないわね)


 あるいは……自分の表情の問題よりも、ヴィルフリートの洞察力のせいだろうか。彼の前では、隠し事などできない気がする。


 どう話すべきかと考えを巡らせていると、ヴィルフリートが、ローザミレアの顎を持ち上げる。赤い氷のような瞳が、ローザミレアの紫水晶のような瞳をまっすぐに見据えた。


「自分から言いづらいなら、言い当ててやろうか。君は、ルゼンベルクを憎んでいるのだろう?」

「……違います」

「嘘だな」

「嘘ではありません。私が憎んでいるのはルゼンベルクの王家……特に第一王子と国王。そして自分の両親だけです。罪のないルゼンベルクの民は憎んでいませんから」


 ここまで来たら、隠しても意味はないように思えた。ヴィルフリートは、相当洞察力が優れているように感じる。下手に隠そうとする方が印象を悪くする、と判断したのだ。


「なるほど。いい答えだ」

「……身内を憎んでいることを、軽蔑なさらないのですか。私は彼らに、復讐してやりたい、と思っているのですよ」

「軽蔑? 何故だ。君は、結婚式から逃げ出したくなるほど、相当なことをされてきたのだろう。やられたらやり返す。当然じゃないか」

「…………」


 当然、か。

 彼の言葉に驚いてしまった自分は、罪悪感なんてないと自分に言い聞かせながらも、どこかにまだ迷い、甘さがあったのかもしれない。


「ノイスヴェルツ王家は、ルゼンベルク王家よりは格段にマシだと断言できる。だがこの国にも悪人はいる。俺は第一王子という立場上、幼い頃はよく暗殺者に狙われた。外見が美しいという理由で、無理矢理不埒なことをされそうになったこともある。そういった者達には、もちろん相応の罰が下された。不当な扱いを受けて、黙っている方が不健全だ」


 ヴィルフリートの言葉は、ローザミレアの心を軽くした。復讐を望む自分の心は醜いわけではないのだと、受け入れてもらえた気がしたのだ。


「君は俺を、この地へ連れてきてくれた。ユーフィネリアへの到達は歴史的快挙だ。そしてこれだけの魔石はノイスヴェルツに更なる繁栄をもたらす。どちらも、君がいてくれたから、だ。この感謝は、行動で示させてもらう。復讐だろうがなんだろうが、俺にできることがあれば協力しよう」


「そんなことを簡単に言っていいのですか。私の復讐に協力するということは、ルゼンベルク王家を敵に回すことになりますが」


「あんな小国が、俺の敵になるとでも?」


「…………」


「他国のことだから過度に介入しないようにしていたが、ルゼンベルク王家は我が国でも悪い評判しかないし、そのうちどうにかしたいと思ってはいた。これは、時期が来た、ということなのかもしれんな」


「……ええと」


 もともとローザミレアがノイスヴェルツにやってきたのは、復讐のためだ。自分には奇跡の力があり、それはどの国も欲するもの。奇跡の力を餌にすれば、大国ノイスヴェルツの懐に入ることも可能だろうと。そして王族を懐柔し、ルゼンベルクに痛手を与えてやれればいいと――


 だが、一日でこうもあっさりと話が進むと、とんとん拍子すぎて戸惑ってしまう。こんなに上手くいくなんて、何か裏でもあるのではないか、と。


「君が気にすることは、何もない。率直に言えば、君の復讐に協力して共犯者になれば、君はこの国から……俺から離れられなくなるだろうという思惑もあるからな」


「え……?」


 赤い氷のような瞳は、さっきまでと色が変わったわけでもないのに。何故か今は、どことなく不穏に見えた。まるで、捕らえた獲物を離すまいとする蛇のように。


「……ついさっき、ヴィルフリート殿下は、優しい御方だと思ったのですが」

「ああ、俺は優しい男だぞ。優しいだけの男ではないだけで」


 自分で優しいと言うか。更に、自分で「優しいだけではない」まで言うか。


 不思議な男だ、と思った。光の当たり方によって色を変える宝石のように、次々と新しい面が見える。


(……だけど、嫌ではない)


「君は、いいな。王子に婚約破棄を突きつける度胸も、ドレス姿のまま黒竜に乗って我が国へ乗り込んでくる胆力も、未踏の浮遊島を恐れず楽しむ度量も。……俺は、か弱いだけの令嬢より、芯のある者の方が好ましいと思う」

「それは……随分、変わったお好みなのですね」


 男性というのは一般的に、か弱い女性の方が好きなものではないのだろうか。グゾルとシェリルリリーをずっと見ていたからこそ、ローザミレアの意識にはそのイメージが深く根付いている。


「それに君は、俺の命を尊んでくれた。……嬉しかったよ」


 特別に彼の表情が変わったわけではないのに、ローザミレアはその言葉から、微かな感傷を感じ取った。


 彼が幼い頃、暗殺者に狙われてきたという言葉は真実なのだろう。

 どんなに強く振る舞っていても、幼少期にできた心の傷というは、ふとしたときに痛みをぶり返すものだ。ヴィルフリートにとって、ローザミレアが彼を守り、命を尊重したことは、一筋の光になったのかもしれない。


「俺は君が気に入った、ローザミレア。……絶対に君を元の国に帰したりしない。決して、他の国にも渡したりしないさ」


 魔石が放つ淡い光の中で、ヴィルフリートの視線がローザミレアにだけ注がれる。


(……こんな展開、予想外だわ)


 だけどやはり、嫌だとは思っていない自分がいる。


 ローザミレアは眼前の赤い瞳から、しばらくの間、目を離すことができなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る