残り香
「うっ……えーと……」
怪異という言葉の意味が分からず保留にしていたが、聞いてみたらもっと良く分からないものだった。
それを探すということは、高確率で危険な魔物といつか相対するということで、初心者の自分がそんなものに首を突っ込んでいいものか。
インは葛藤する。
「無理にとは言わない。一人でも捜索は続行できる」
エルリクはさほど未練はないというように、あっさり鞄をしまおうとした。
「待って!」
「……ん」
「……私が手伝うのは探すことだよね」
「そうだ」
「戦うのは契約に入ってない?」
「ああ」
インは考える。インが冒険者になったのは強い魔物と戦い、倒し、名声を得たいがためだ。そして今日まで自分はそれを成し得る才能の持ち主だと信じていた。
しかし、初クエストでその考えは脆くも打ち砕かれ、自分も所詮初級冒険者の一人なのだと痛感させられた。
そりゃあいずれは誰も討伐していない未知の魔物を倒したい。
だけど、その力を身に着けるまでは、自分よりも冒険者としての経験と知識のある先輩のもとで学ぶのがいいのではないか?
それがたとえ、胡散臭い、目的も意味が分からない、冒険者とは思えないほど暗い洞のような瞳をした男であってもだ。
インは大きく深呼吸をした。
「わ……分かった。パーティー組むよ」
罠と知りながら自ら足を踏み入れるような嫌な緊張感の中で、インは彼の勧誘に乗った。
「……」
エルリクは草原でそうしていたように、またインをじっと見つめている。
さっきよりも至近距離のせいか、変な圧を感じインの首筋に冷や汗が流れた。
その緊張の中――、
「それは――助かる」
エルリクが笑った。
笑っていない目はそのままに、口角が吊りあがる。澄ました人形の顔に無理やりナイフを入れて笑わせたような違和感しかない笑顔。
人間の表情として破綻した顔。
「……っ!」
その歪な笑顔に、ぞぞ、と鳥肌が立ち、インは喉から漏れ出そうな悲鳴を飲み込んだ。
「じゃあ、約束通り見せてやろう」
その顔はほんの一瞬のことで、すぐに元の何を考えているのか分からない顔に戻り、また鞄をごそごそとやりだした。
ばくばくと暴れる心臓を落ち着かせるために、インは胸を押さえてさっきの倍以上深呼吸を繰り返す。
「どうした、顔色が悪いな」
「……あんたの笑顔が下手くそすぎてびっくりしたの」
正直スティンガーに囲まれたとき以上の恐怖を感じたが、そう言うのは癪なので憎まれ口で返した。
「生まれつきの顔にケチをつけられても困る。……あった」
わずかに眉根を寄せるエルリク。
怒った表情の方がまだ人間らしい気がした。
失礼なことを考えているインに、エルリクは小さな瓶の容器を手渡す。
瓶はインの片手に収まるほどの大きさで、汚れてボロボロの布が折りたたまれて入っている。口はコルクでしっかりと密閉されていた。
「これはなに?」
「ジーナフォリオの襲撃に遭った家のカーテンの切れ端だ。ジーナフォリオの爪で引き裂かれている。爪痕はこの他に家の近くの地面にくっきりと残っていたが、そっちは保存も持ち歩きも出来ないため断念し、こちらを収集した」
カーテンを引き裂く鋭い爪をもつ魔物――あるいは怪物だということだけは確かなようだ。
「お前ならこれに残ったジーナフォリオの匂いを嗅ぎ分けられるのではないかと思って勧誘した」
「開けてみていい?」
「ああ」
エルリクに見守られる中、インは慎重にコルクを引き抜いた。
きゅぽ、と小さな音を立てて栓が外れる。
インは顔を瓶の口に近づけた。
「うっ……!」
瓶の中に閉じ込められていた空気が漏れ出し、インは顔をしかめる。
人の匂い、食卓の、人の生活の匂い、血の匂い、土の匂い、脂の匂い、家畜の匂い、古い布の匂い、カビの匂い、埃の匂い、鉄の匂い、魔法の匂い、そして今までに嗅いだことのない未知の匂い。
「どうだ?」
「情報量が多すぎて、目が回るぅ……」
くらくらとめまいがしてきて、インは瓶に急いで栓をした。
エルリクの虚言ではなく、おそらく本物の惨劇のあった場所から採取した遺留品だということがすぐに分かったのはいいが、強烈な臭いを薄めるためにインは窓を開けた。
「はぁ……確かに、これは手がかりになるね」
「なにか分かったか?」
「分からない匂いがあるってことが分かった。それがジーナなんとかの匂いなのかどうかも分からないんだけど」
強いて何かに例えるとするなら、古くなった油や錆の匂いに近いかもしれない。そこにドライフラワーの香りが混ざったような複雑な匂いだ。魔物らしくない匂いにますます謎が深まる。
「期待通りだ」
何も分からないという返答だったにも関わらず、エルリクは満足げにつぶやいた。
「こんなんでいいの?」
「充分だ。かなり昔の残り香を感じ取れるほど鋭敏な嗅覚なら、追跡も期待できそうだ」
完全に犬扱いされている気もするが、能力を当てにされているのなら悪い気はしない。
「追跡はできないこともなさそうだけど、あまり遠くからは無理だよ。最低でも十キロ圏内に入ってないと」
人間より優れた嗅覚も万能ではない。
「問題ない。お前の嗅覚は最後の詰めだからな。大まかな位置は調査で割り出す」
「調査って?」
「聞き込みと実地調査」
「思ったより地味だね」
「結局これが一番近道だぞ。それより、明日からはどうする予定だった?」
明日、といってももうじき夜が明ける頃合いだ。
少し仮眠をとり、昼前には動き出さなくては。
インは布団を手繰り寄せた。
「いったん王都に戻ろうかなって思ってた。新しいクエスト受けたいし」
「そうか。なら僕も同行しよう」
そう言えばパーティーを組むのに申請などが必要なんだろうか、など新たな疑問が浮かんできたが、強烈な眠気が襲ってきた。
「じゃあまた明日」
変なことしないでよね、と釘を刺すのも忘れインは睡魔に絡めとられ意識を失うように眠りについた。
「あれ、いない」
窓から差し込む強い陽光で目を覚ましたインは、部屋を見渡して呟いた。
エルリクの姿は既になく、彼の荷物もない。
「……ご飯でも食べに行ったのかな」
櫛で簡単に髪を整え、部屋を出る。
誰もいない廊下を渡り、昨日応対してもらった部屋に入ると、村長のグリフィスが椅子に座りなにか書き物をしていた。
「村長さん、おはよう」
「おお、冒険者さん。良いところに」
グリフィスは目だけでインを見上げ、ペンを置いた。
「この後ギルドに戻られますかな」
「うん」
「そうしましたら、こちらを届けてくださいませんか」
「これは?」
「クエスト完了の証明書じゃ」
「へー」
インはじろじろと書類を見つめた。冒険者は魔物と戦っているだけで、あまり面倒なことはないが、クエストを依頼する側とギルドには多くの取り決めがあるようだ。
「分かった、届けるよ」
「ありがとうございます」
グリフィスはインクの乾きを確認し、くるくると書類を丸める。
さすが村長なだけあって、手慣れた所作だ。
「もう発たれますかな?」
「はい。……あっ、後から来た冒険者知りませんか? ぬらっと背が高くて、薄気味悪い感じの……」
昨日帰ってきたとき村長は眠っていたので、エルリクと会っているか分からないが一応聞いてみることにした。
これからパーティーを組むというのに、エルリクの特徴を伝えようとするとネガティブな言葉しか出て来ず、インは少しだけ罪悪感を覚えた。
だが、ネガティブを人の形にしたような男だから仕方がない。
インは自分の肩を持つことにした。
「ああ、お連れ様ならロダ街道方面の農地にいるはずですぞ。村人に聞きたいことがあると仰っていたので、その辺りに一番人が多いと伝えておりますからな」
「あー、なるほどね。分かった、ありがとう村長さん!」
「いえいえ、こちらこそスティンガーを退治してくださってありがとうございました」
グリフィスは書簡をインに手渡し、丁寧に礼を言った。
インの脳裏には昨晩の自業自得の話が過ったが、この村長も村人たちも悪い人には見えない。
実際悪い人たちではないのだろう。人類が欲深いのは至極普通のことだ。
インは別れの挨拶を済ませ、エルリクがいるという農地に向かって歩き出した。
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