第3話 フラれたことは忘れるに限る

「ご主人さま、お客様がいらっしゃったようですよ」

「だから何だ」

「何だって言われましてもね。ぼくは朝食の支度をしますから、ご主人さまが応対してくれませんか」

 ご主人さまは目を見開いて、「なんだって?」と叫びました。お隣の犬が、待ってましたといわんばかりに吠え始めました。

「金を払ってメイドを雇っているのに来客対応を私がやるのか? 一体どういう……さっきからうるさいぞ、バカ犬! 黙れ!」

「おっと、もうすぐお湯が沸く。じゃあ、頼みましたよ」

 ぶつぶつ文句を言いながらご主人さまが玄関に向かうのを横目で確認してから、ぼくは朝食の準備にとりかかりました。


 さてさて、朝ご飯です。といっても、大層なもんじゃないですけど。

 ご主人さまの朝食はいつも同じメニュー。丸い白パンを二つ、山羊のチーズ、藍エーテル茶をカップになみなみと。

 あと、忘れちゃいけないのが、グリーンの梨の実を一つ。

 梨は絶対に必要です。ご主人さまの大好物で、梨がないと一日が始まらないのだそうです。だから、ぼくはインクを買い忘れることはあっても梨だけは忘れませんし、できるだけ新鮮で味の良さそうなものを選ぶようにしています。めんどくさー。


 これらを同じ時間に、同じ配置でテーブルに並べます。時間が遅れたり、何かがいつもと違っていたりすると、たちまちご主人さまの機嫌が悪くなります。

 でも、調理の要らないメニューですから、ぼくがやることといったらお湯を沸かしてお茶をいれるぐらいなので、そういう意味では楽です。買ってきたものを出すだけですし。


 さて、朝食を並べ終えました。

 ところが、まだご主人さまは玄関から戻ってきません。長話になっているんでしょうか。……いや、もしかして?

 心当たりがあったので、ぼくは小走りで玄関に向かいました。


「返事ぐらいしたらどうですか!」

 ロングスカートをはいて、丈の短いコートを羽織っている女性が腰に手を当てて、ご主人さまを睨み付けています。ああ、やっぱり。ぼくは慌てて二人の間に割って入りました。

「ええと、おはようございます、大家さんのところのお嬢さん。今朝はどうされましたか」

「ちょっと聞いてよコームくん」

 彼女はふんと鼻を鳴らした後、ご主人さまに指をつきつけました。

「この人ったら何もしゃべらないんだもの、困っていたのよ」

 不躾に指さされても、ご主人さまは無表情で固まったまま、何も言いません。

「あ、えっと、ご主人さまはとってもシャイなものですから、若い女性とお話しするのが苦手なんです……痛あ」

 ご主人さまから足を踏まれました。ひどいなあ。

「若い女性ですって?」

 彼女は可笑しそうに吹き出しました。

「私これでも二児の母なんだけど」

「えっと、いやあ、まあ、十分お若いですよ」

 ご主人さまにとっては年下は全員「若い女性」なのです。若い女性を意識しすぎてしまって、とてもおしゃべりできない、そういう人なんです。


「まあ何でもいいけど。そうそう、用件なんだけどね、共用通路の階段の話なの。きのう犬が骨折したとかいう……知ってる? あ、そう。どうも板が悪くなっているみたいだから、階段を使うときには気をつけてちょうだいよ。え、怪我しないように気をつけるですって? そうじゃないわよ、階段を踏み抜いて板を割らないように、階段を壊さないように気をつけてってこと! じゃ、話はそれだけだから」


 大家さんの娘さんは、ばたんと乱暴にドアを閉めて、どすどすと大きな足音を立てて去っていきました。

「あれじゃあ、ご自分で階段の板を踏み抜くのも時間の問題でしょうね。ねえ、ご主人さま?」

 ご主人さまは、ぼんやりとドアのシミを見つめていました。

「さっきの女性、結構美人じゃなかったか?」

「ちょ、ダメですよ、人妻は。というか、ご主人さまはもう既にあの女性に振られてますからね。覚えてないですか? ああ、そうか、いっぱい振られすぎて、いちいち覚えてられないん……痛いですってば」

 また足を踏まれてしまいました。

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