第17話 神様の試練


 すでに外はくらい夜が訪れており、かすかな雨粒が舞っていた。今晩は雨が降るという予報に間違いはないようであった。


 自家用車に乗り込んだ一翔の脳内はだ光が弾けているようで耳鳴りがしていたが、構うことなくエンジンをかけ、ぐさまシフトレバーを鷲掴わしづかみにした。


 だが勢いよく引こうとするその手首を、柔らかな温もりが負けじと強く抑えた。



「看護師さんも言ってたでしょう、少し休んでから帰った方がいいって。それなら車の中で休むからって君は答えていたじゃない」



 助手席に座っていた『天使』が、冷静な口調でたしなめながら車の発進を制止していた。


 彼女がここまで直接的に一翔に触れたことはなく、その温度と圧迫感は正に人間そのものであると一翔に印象付けた。


 だが一翔には、影もなく随伴ずいはんして病棟での一連の言動を把握し、音もなく助手席に忍び込んできた彼女のことを人間と見做みなせる余地がなかった。

 ゆえに彼女の肉感も、気遣きづかいすらも、すべてが軽薄けいはくまがい物であるように思えた。


 一翔は左手を身体の内側へ引いて『天使』が被せた右手を鬱陶うっとうしそうに払いけると、ここ数日のストレスを晴らすかのように声を荒げた。



「…全部おまえのせいだろ!! おまえが俺に余命宣告なんてものをしやがったせいで、俺はこんなにみじめな思いを…!」



 自分でもいささか驚くほどの怒声が車内に充満したが、一翔がにらみ付ける『天使』は微動びどうだにすることなく、真っぐに見つめ返していた。

 彼女の身体も髪も薄着もブラックライトのように淡い光をたたえていたが、あおい瞳だけは宝石のように輝いていた。


 まるでオブジェのような冷たい美しさを、しかし一翔は粉々に砕いてしまいたいと望んだ。はらわたが煮え繰り返るのがわかり、八つ当たりをぶつけるかのように声音を震わせた。



「そうだよ…やっぱりこんな展開都合が良すぎるんだ。俺が自分の人生にちっとも向き合わないから、意図的に身近な人の死を体験させようとしてるんだろ? おまえが本当に神託される存在なら、神様を通じてきっかけを作り出すことだって充分に考えられるはずだ! そんな下賤げせんな手口に乗せられてたまるか! 俺は…俺の人生は……!!」



「ねぇ、本当にそう思ってるの?」



 鼻息を荒くしながらまくし立てる一翔を、『天使』は低い声音で牽制けんせいした。



「本当にそう思ってるのなら、流石さすがに君のことを軽蔑けいべつするよ」




 彼女から初めて言い放たれたであろう強い非難に、一翔は思わず畏怖いふいだいて口をつぐんだ。

 決して大きくはない自家用車の中で張り詰めた沈黙は——意味の無いアイドリングを続ける時間は——これまで彼女と向き合ったどの状況よりも気不味きまずいものであった。



 フロントガラスの表面に付着する水滴が徐々に大きくなり、数を増やしていた。


 一翔はのがれようのない空間の中で視線を落とし、ただ『天使』から向けられた鋭利な言葉をみ締める他なかった。その冷たさは精神のたかぶりを少しずつしずめるとともに、自分がどれだけ愚かしい暴言を吐いたかを苦々しく知らしめていた。



「……ごめん。俺が悪かった」



 一翔はうつむいたまま、ぽつりとつぶやいた。怒鳴りつけた『天使』にびつつ、祖父に対しても謝っていた。


 自分の人生のために他人の死のタイミングが左右されるなどという発想は、擁護のしようもない高慢であった。そして『天使』の存在と真面まともに向き合わず邪険に扱いながらも、都合の良い言い掛かりをこじ付ける自分の姿は何とも下劣であった。



 内省とともに疲労感が湧き上がり、一翔は右手で目頭をおおいながら座席に埋もれた。すると『天使』が、いつもの淡泊な口調に戻して語り掛けてきた。



「でも、気持ちはわかるよ。大抵の人間は神様なんて信じていないくせに、都合の悪い時だけ神様をにくんだり恨んだりするものだからね。人間の世界は、人間1人1人の歩みがつむがれて成り立つものなんだから、幸も不幸も、利益も不利益も神様が裁量を握っているわけじゃない。その発想自体が、人間にとって都合の良い解釈でしかないんだよ」



 神託を受けた存在とは到底思えない『天使』の言葉に、一翔は疑問をていさざるを得なかった。そうするように差し向けられているとさえ思えた。



「それは…本当にこの世の摂理なのか。それとも、あんたの持論なのか」



「私のひとごとだよ。私が君も含めた人間を今まで見てきたことを踏まえた、ただの感想。君のお祖父じいさんやお祖母ばあさんが信仰している神様や宗教的な考え方を、否定するつもりはないからね」



「じゃあ、なんで神様は恣意しい的に人間を選んで余命宣告を下してるんだよ。今の言い方だと、神様には人間の生き死に関する裁量がないってことになるだろ」



「そうだね。でも神様は、人間にすべからく幸福な生涯しょうがいを送ることを求めている。大前提として、真っ当に寿命を迎えることを望んでいる。実際はその通りに人生を終えられる人間の方が少ないのかもしれないけれど、1人でも多くその可能性をつないでほしいと考えている」


「だから君は、可能性をないがしろにしないで欲しいと期待されているようなものなんだよ。この前も言ったでしょう、これは神様が与えた試練みたいなものだって」




『天使』と言葉を交わしているうちに、一翔は段々と気持ちが落ち着いていくのを感じていた。

 そしてかつて祖父が言い聞かせた励ましの言葉を——理不尽だと拒絶反応を起こしたメッセージを、今なら受け止められるような気がした。



『神様がおまえにとって一番良い未来に導いてくれるだよ』



 とはいえ何が変わるわけでもない現状に、一翔は力無い表情を浮かべながら溜息をいた。



「だからといって…命を賭けさせるのは裁量を逸してるんじゃないのか」



「さぁね。神様は誰にも裁かれないから神様なわけだからね」



「無茶苦茶じゃねぇかよ」



 一翔は小さくなげきながら、シフトレバーを引いて今度こそ雨中の夜道へと車を発進させた。




 日付が変わろうかという頃、祖父の逝去せいきょしらせる連絡が一翔のスマホに届いた。

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