第16話 病床


 一翔が受付で面会を申し出ると、看護師はぐに祖父の病室へ案内を申し出た。その際、表情を硬くしている一翔に対してそっと言い聞かせた。



「お祖父じい様には、どうか寄り添ってあげるような言葉を掛けてあげてください。貴方あなたとお祖父じい様との思い出話をしたり、感謝を伝えたりするのでも良いでしょう。それらはきっと、お祖父じい様に届いて励ましになりますからね。」



 静寂に満ちた病棟の廊下は、安易に足を踏み入れてはならないかのような緊張感を一翔にもたらしていた。暑いのか寒いのかも曖昧あいまいな一方で、鳥肌が弥立よだってかすかに身震いしているのがわかった。


 やがて『袴田はかまだ慶三けいぞう』の名札が設けられた部屋の前に到達すると、看護師はゆっくりと扉を開けて一翔を入室させた。



 室内には大きな緑地のカーテンが敷かれており、その奥から心電図か何かの断続的な機械音が聞こえてきた。

 一翔が促されるままにその内側へと足を進めると、病床に横たわる祖父の姿があらわになった。


 何本もの配線が上半身にまとわり付いており、酸素吸引マスクにおおわれたしわくちゃの小さな顔はかろうじて色味を保ちながら沈黙しているように見えた。


 奥には点滴スタンドがあったが、それが祖父の腕につながっているのかいなかまでは一翔に観察する余裕はなかった。

 記憶にある祖父とは別人のように老いれ痩せこけ、さながら何かの被験体であるかのごとく横たわる有様ありさまを前に、息を呑んで立ちすくんでしまっていた。



 祖父のそばには担当医とおぼしき白衣の男性が立っており、一翔と無言で会釈を交わした。

 病床を挟んで反対側では、祖母である袴田はかまだ晴子せいこが小さな椅子に腰かけており、一翔を見るやいなや切なそうに微笑ほほえみかけた。


 しわまみれたその目元がすでに泣きらして赤らんでいるのが、遠目からでもはっきりとうかがえた。



「一翔ありがとうねぇ、お祖父じいちゃんに会いに来てくれて…」



 息をひそめるように感謝を述べる祖母に対して一翔は何をしゃべったら良いかわからず、平静をよそおうようにしてどうでもいいことを尋ねた。



祖母ばあちゃん、1人なの? 他に誰か身内の人は…?」



「さっきまで陽佳ようかさんとあおいちゃん、陽菜ひなちゃんが来てただよぉ。このあと聡志さとし幹弥みきやくんが来るはず…樹季いつきちゃんは神戸だから難しいみたいだけどねぇ。」


「お祖父じいちゃんたら、死にぎわ看取みとるのは私だけで充分だってついこの間まで言い張ってたもんでねぇ…みんなも長居はしないみたいなのよぉ」



 祖母はいつものような柔和にゅうわな口振りで答えたが、言葉の節々が確かに震えていた。

 どうやら静岡県西部に伯父おじ夫妻や従兄弟いとこの一家はそれぞれ都合を付けて見舞いに来るようであり、早退して駆け付けた一翔は逆にタイミングを外したような奇妙な感覚をいだいた。



「ほら、一翔もお祖父じいちゃんにお話ししてあげてねぇ」



 祖母はそうささやきながら席を立ち、代わりに一翔を座らせようと促した。一翔にはあまり着席する気はなかったが渋々しぶしぶ従うと、病床に力無く埋もれる祖父の顔がより間近になった。


 目を閉じて極めて浅い呼吸を続けるだけの祖父の姿が、一翔には不気味に映っていた。危篤きとくな人間など、テレビドラマの中でしか見たことがなかった。


 だが傍観するわけにもいかず、先の看護師の助言を踏まえて台詞せりふを考えようとしたものの、何を伝えるのが最善なのか決め手を欠いていた。

 一方では断続的な機械音が時計の秒針のごとく刻まれ続けており、一翔はかされているような錯覚におちいっていた。



——何を話せばいい? 何を伝えれば祖父じいちゃんの『励まし』になる?


——そもそも俺は祖父じいちゃんと、どんな話をしていたんだっけ…?




『一翔、元気でやってるか』



 何年前かも定かでない、だ普通に会話が出来できた頃の祖父とのり取りを不図ふと思い出し、一翔はそれにこたえるようにして言葉を絞り出した。



祖父じいちゃん、俺は…お陰様かげさまで、なんとかやってるよ」



『仕事は、楽しいか。楽しんでやらねぇことには、甲斐がいもないでな』



 だが早くも脳内に再現した祖父に対し、一翔は返事にきゅうした。


 ゴルフ場の現場研修の間はそれなりに楽しさがあったかもしれないが、あの狭苦しい本社でパソコンに向かうだけの日々は——その大半が電話番に過ぎない現状は、どのように美化しても楽しいとは言い張れなかった。



「仕事は…まぁ、これからだと思う。祖父じいちゃんの顔に泥を塗らないようにやっていくよ」



『おいおい、いつまでも俺を引っ張るなよ。おまえの人生だら』




——その人生があと1カ月も経たずして終わるかもしれないと知ったら、祖父じいちゃんはどんな顔をするのだろう。



 そう思ったとき、一翔は不覚にも無言で横たわる祖父の姿に自分を重ねてしまった。

 1ヶ月後には自分もこうして病床に伏せているのかもしれないと考えた矢先、手足の先端から一斉に血の気が退いていくのがわかった。



『まぁ案ずることはねぇ、神様がおまえにとって一番良い未来に導いてくれるだよ』





 気付けば一翔は、椅子から立ち上がっていた。瞳は大きく見開かれ、鼻息は荒く、てのひらは明らかに震えていた。



「一翔、あんた大丈夫かい? なんだか顔が真っ青だよ」



 その異変は流石さすがかたわらの祖母にも伝わっていたようで、その問いかけは小声ながらも切羽詰せっぱつまった印象を受けた。

 当然に病床の反対側にいる担当医も一翔の様子を見逃すことなく、いぶかしむような視線を送ってきた。


 それを察した一翔は、咄嗟とっさ誤魔化ごまかそうと祖母を押し退けるように移動して病床に背を向けた。この部屋に居続けることに対して、あまりにも早い限界を迎えていた。



「ごめん、祖母ばあちゃん。俺…帰るから。しんどいかもしれないけど、ちゃんと夕飯は食べなよ」



 説得力に欠けたフォローを言い残して、一翔はうつむき加減に祖父の病室から退出しようと重い脚を動かした。

 背後で何か祖母が言い掛けたが、だ室内に残っていた看護師がその役目を引き継いだのか、大丈夫ですかと声を掛けながら追随ついずいしてくるのがわかった。


 一翔はわずかに看護師を振り返りながら、小さく相槌あいづちを打って体調に問題がないことを主張し、スライド式の扉を静かに引いた。

 だが一歩廊下に足を踏み出した途端とたんかたわらに黒く大きな影が迫っていたことに気付いて思わず声を上げそうになった。



「おっと、失礼」



 そこには黒い装束しょうぞくを身にまとった長身の中年男性が立っており、ひげを蓄えた口元から野太い声音がこぼれ出た。


 一翔には面識がなかったが、男は正に祖父の病室を訪ねようとしていたらしく、一礼をしたのち一翔と入れ替わるようにして入室していった。

 振り返ると祖母も担当医も頭を下げていたが、一翔は男が何者なのかを詮索する気力も湧かず、みずからの手でその扉を閉めた。


 そして、逃げおおせるように病棟を後にした。

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