第12話 看板娘


 その日の午後は、結局現場や取引先からの問い合わせが電話で数本掛かってきたのみであった。


 一翔はいつどこで使うかもわからない資料作成を暇潰しのように始めることで、『天使』の存在を可能な限り意識の片隅に追いろうと努めた。

 『天使』は相変わらず社長の机の上で置き物のように退屈そうに居座っていたが、あれから特に何を話し掛けてくることはなかった。


 そして一翔は時計の針が17時半を指すと同時に事務所を閉め、タイムカードを打刻して早々に退勤した。

 だが月曜と金曜の帰路は食材の買い出しを済ますルーティンとなっており、アパート近くの大型スーパーに自家用車を停めた。



 夏から秋への変わり目の季節はあまり買い得な野菜が少なく、昨今さっこんの円安と物価高も相まって思うように食材の選択肢を増やせないものの、8年目を送る単身生活で長く続けてきた自炊経験から必要なものを見極め、次々と買い物かごに商品を蓄積していった。


 浜松では屡々しばしば餃子ぎょうざが大量に製造され安く売られているが、一翔は翌日の弁当の分も夕食で作る以上、月曜の買い出しで出来合できあいの惣菜そうざいは宛に出来できなかった。


 そうして購入を済ませて持参したエコバッグに商品を詰め、自家用車の助手席にせた一翔だったが、寄るべき店はもう1軒あった。

 そのスーパーから大通り沿いに歩いて程ない距離にあるパン屋『KIMATAキマタ BAKERYベーカリー』である。



 11時から20時まで営業しており、18時を過ぎると売れ残りの商品が割引になるという小さなパン屋の存在は、1年程前に偶々たまたまテレビのローカル番組で観て知った。

 

 一翔は淡泊で金遣かねづかいにとぼしい日常生活を少しでも色付けようと訪ねて以来、こうして食材買い出しのついでに通う習慣が付いていた。

 特別病みつきになっているわけではないが、単純にベーカリー独特の芳醇ほうじゅんな空気が心地良く、まばらながら陳列される様々な商品を選ぶ時間はビュッフェに似た没入感があった。


 食材の買い出しのため必然的に来店が18時過ぎとなる一翔は、ここで夕食のデザートと翌日の朝食分で計3種のパンを選ぶのだが、毎度5分近くは悩んで彷徨うろつくのがお決まりであった。

 してやこの日は他に客人がおらず、狭い空間でレジ係の若い女性店員と2人きりであり、いやが応でもその視線を感じざるを得なかった。

 

 だが最近は18時台でもだ外気は生暖かく車内に置いた食材も長く放置出来できないことを思い出すと、一翔は3品の決断を急いてレジへとトレイを運び込んだ。



「お買い上げ3点で、560円になります」



 ほがらかに応対する女性店員の前で財布を開いた一翔だったが、小銭を摘まもうとして違和感を察した。



「…あれ、割引になってなくないですか?」



「え? …ああ、もう6時か! し、失礼しました…少々お待ちください!」



 一翔にぽつりと指摘された女性店員は頓狂とんきょうな声音を上げ、両手の指をまごつかせながら再度レジに向き合った。


 彼女は一翔が初めて来店したときから接客しており決して新人ではなく、レジの計算も単に合計額から一括で割引処理をすれば済むと思われるのだが、どうにも彼女はケアレスミスにもろいようにうかがえた。

 

 だがゴルフ場の現場でサービス業を経験した一翔にはそうして慌てふためく気持ちはよくわかり、狼狽ろうばいする小柄な店員に口元を緩めながら声を掛けた。



「あはは、別に構いませんよ。ゆっくりやってください」



「いえいえ、毎週お越し頂いているのに…お客さんに甘えるわけにはいきません」



「毎週って言っても、割引の時間帯にしか来ない守銭奴しゅせんどな客ですよ、僕は」



「とんでもないです。売れ残りを買って下さることはとてもありがたいですし…」



 そうして会話をしながら女性店員が手際てぎわ良くパンを紙袋に収め、割引し直した会計を済ませると、つぶらな瞳で一翔を見上げた。



「お客さんは売れ残った商品でもじっくり見て選んで下さるので、嬉しい限りです。…たまに割引の時間になるまで居座って、欲しい商品をキープしようとする方もいらっしゃるので」




 そのぐな言葉に一翔は腹の底からじんわりと身体が熱くなるのを感じたが、続けざまに彼女が瀬無せな微笑ほほえんだことに動揺した。


 確かにスーパーでも目当ての商品に割引シールが貼られるのを待機して、他者の購入を妨害するような悪質な客が出没するケースをネット上の記事で見かけたことがあった。

 似たような客がこのパン屋でも迷惑を働いているかと思うと、彼女の心境を察して案じずにはいられなかった。


 だが、かといって自分が何か出来できるわけでもないことは明らかであった。



「それは……大変ですね」



「はい、季節限定商品を並べてるときは特に…。でも本当に悪質な方は店長さんがしっかり閉め出してくれますし、お客さんは地元の方が大半なので…」



 すると玄関扉に付いた鈴が鳴り、別の客人が来店した。


 女性店員が台詞せりふを打ち切って快活な挨拶あいさつを送ると、他愛のない相槌あいづちしか返せない一翔は途端とたんに居たたまれなくなった。



「あ、じゃあ僕はこれで…」



「はい、ありがとうございました! またお越しください!」



 結局そのまま会話は終わり、女性店員はにこやかな応対で一翔を送り出した。

 だが一翔はもやついた感覚を胸元に詰まらせながら、スーパーに停めた自家用車へと早足で歩いていた。




 この日の夕飯は、安売りしていた国産牛の切り落とし肉を野菜と共に赤ワインで煮込み、粉チーズをまぶした言わば欧風おうふう牛丼を作っていた。

 

 必ずしもこだわっているわけではないが洋食にすることで、パン屋で買った林檎りんごのデニッシュとの相性を高めようとしていた。

 今度は忘れず弁当容器に牛丼の一部を詰め込み、夕食分を居間のローテーブルに並べて箸を手に取った。



「美味しそうだね」



 そのとき、かたわらに座り込んでいた『天使』がおもむろに話し掛けてきた。


 一翔はどうにも自分が簡単にのがれられないような機会を彼女が意図的にうかがって接触してきているような、また昨日の飲み会以来食い意地が張っているような印象をいだき、何を咀嚼そしゃくする前から苦々しい表情を浮かべた。


 彼女が牛丼とデニッシュのどちらに言及しているのかして関心はなく、そもそも彼女と食事中に会話をしたくもなかったが、仕方なく牽制けんせいするように応じた。



「何だよ、用があるなら手短に済ませてくれよ」



「君、いつも寄っているパン屋さんにいる女性のこと…意識しているんでしょう」



 だがその何気ない質問を至近距離で耳にした一翔は、呑み込んだばかりの食事を盛大にせ返しそうになり激しくもだえた。

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