第11話 後悔しているの

 『天使』と視線が合致した一翔は、閑散かんさんとした事務所で腑抜ふぬけた姿をさらしていたことに内心舌打ちした。


 自分がどのような感情におちいっていると彼女を認識してしまうのか、あるいは彼女が自分に関わろうとしてくるのか、おおよそではあるが傾向が推測出来できるようになりつつあった。


 だがその仮説を肯定することは、逆に自分にとって一種の安寧あんねいが損なわれてしまうことも意味していた。してやアパートの自室とは勝手が異なり、勤務する事務所では彼女からそむり過ごすこともままならなかった。



 そして『退屈そうだね』というささやきは、一翔の心を柔らかく揺さぶっていた。

 午後5時半までの虚無にも等しい勤務時間中、『天使』を暇潰しの話し相手に仕立て上げることは必ずしも悪い提案ではなかった。


 だがその様相ははたから見ればみずから作り出した幻影と会話しているも同然であり、決してプライベートとは言えない空間でそのようなむなしい世界を当然に構築するべきではないとかろうじて警鐘を鳴らした。


 上司がみな出払っているとはいえ、このビルで働く本社の従業員が誰も訪ねて来ないとは限らなかった。

 必ずしも悪い提案ではないが最悪の選択肢である——一翔は感情を落ち着かせながらそう言い聞かせた。



「…なんだよ。わらうならわらえよ、このまるで中身のない社会人の有様をよ」



 一翔は椅子にもたれかかりながら、まじまじと見つめてくる『天使』に対して顔をしかめた。

 だその姿を認識して3日目であるが、仮面のようにほとんど変化することのない彼女の表情が次第に生意気なまいきに感じられるようになっていた。



——多少なりともにこやかな振る舞いがあれば、だ印象が変わる余地はあるんだが…表情筋が凝り固まってるのか、無感情にあおっているようにしか見えないんだよな…。



 それでも彼女が何かしゃべりたそうにしている雰囲気がほのかに伝わり、一翔はしゃに構えるような返事を返していた。

 他方で『天使』はそれをかわすように、軽く腕組みをしながら一翔に問いかけてきた。



「君はここで働くって決めたこと、後悔しているの?」



 わらわれるどころか真顔で一歩踏み込まれ、自虐を逆手さかてに取られた一翔は反射的に視線を伏せた。

 答えたくなかったが答えざるを得ず、その目を泳がせながら辿々たどたどしくつぶやいた。



「後悔してる…わけじゃない。せっかく祖父が紹介してくれたのを無下むげにしたくなかったし…」



「でも君は、お祖父じいさんのために働いてるわけじゃないでしょう?」



「…まぁ、それなりに経験にはなってると思うよ。大学を出ても実家から満員電車に揺られる生活よりかは、地方に出てひとり立ちした今の暮らしの方が快適だと思うし、入社してから3年弱の現場出向も悪いもんじゃなかったし……」




——『どうしてこの仕事を選んだの?』




 『天使』に向かって常套句じょうとうくを並べ立てていると、誰からかれたともわからない質問がひとりでに浮き上がり、一翔の語る舌を不意に突き刺した。


 案のじょう『天使』は小首をかしげており、だ答えに納得していない様子であった。

 それが無言の圧力に映った一翔は、不貞腐ふてくされるようにして改めて答えた。



「後悔なら…してるよ。もっと名前のある会社にでも就職して、それなりのキャリアを積み上げていけば人生はだ少しマシだったんじゃないかってな。でもそれを10年近く前の俺に忠告したところで、多分未来は変わらなかっただろうよ」


「俺にとって労働は、今も昔も『食っていくために仕方なくやること』以上の何物でもない。結局は今のこのワークライフバランスが、俺にとって丁度ちょうどいいものになっちまってんだよ」





 大学4年生になった一翔には、やりたい仕事がなかった。


 高校時代から帰宅部だったこともあって対人関係が希薄きはくで遊び回るようなさがではなく、アルバイトも短期的かつ必要最低限に経験したことしかなかった。

 如何いか上辺うわべを取りつくろえるかを競うコンテストみた民間の就職活動には忌避きひ感をいだき、法学部で触れた知識を活用し独学で公務員試験を受けていた。


 だが実際に公務員となったユーヤンのように予備校に通ったわけでもなく、理想や熱意もなく、何の助言も仰がなかった結果当然に1次試験を通過することはなく、一翔は広大な砂漠に取り残されたかのようなむなしい夏を過ごしていた。

 

 そこに突如とつじょ現れた祖父の紹介は渡りに船であり、あっさりと乗船して現在へと行き着いていた。



 入社してからの3年弱は現場研修という名目で、浜松市内のゴルフ場に出向しサービス業に従事していた。


 サービス業自体はアルバイト経験もあり、そつなく仕事をこなす姿勢は現場でも好意的に捉えられた。地方では管理職でもアナログな人間が多く、都内の大卒らしくパソコンやSNSの操作知識でおのずとアドバンテージが生まれた。


 だがその一方で、都内の大卒が何故こんなところにいるのかという漠然とした違和感を払拭ふっしょくするには至らなかった。一翔自身、ゴルフに興味や熱意があるわけではなかったからである。



 やがて出向が解除されて本社勤務となったが、今度は世界的な流行病はやりやまいでで行動が制限され、現場に介入することすらままならなくなった。


 そもそも刑部おさかべ緑地開発は業界大手とは異なり、各ゴルフ場に法人格を残した上で支配人とは別に代表取締役を招聘しょうへいし、各々おのおので地元に根付いた営業施策を推奨していた。

 ゆえに本社として直積的な営業面の指示を発信することはまれであり、あくまで包括的な運営管理として、また新規案件の精査としての役割しか持ち得なかった。


 そしてゴルフ業界は外出自粛じしゅくの時世ににいて貴重なレジャーとしてむしろ追い風となり、感染対策に留意するだけで特段の施策がなくとも売上は増加した。

 新規案件に関しても、最終的なM&Aについてはオサカベコーポレーションが担うために、不動産業としての勉強を求められるわけではなかった。


 結果として大したキャリアを積む余地のないまま年月が経過し、コロナが終息した現在でもその停滞した社会人生活——ホワイト過ぎる零細れいさい企業勤務に変化はとぼしかった。



「この会社の利益は子会社ゴルフ場の経営指導料と配当金で充分に工面くめん出来できてるし、特別なことを始める必要がない。部長は引退したがってるし社長はあんなだし…俺に新しく何かを求めるようなことも大して無い。でも、そんな現状に俺が甘んじていることもいなめない。だから後悔はあっても…本気でやり直したいとは思ってないんだよ」




 一翔は『天使』の気が済む着地点を模索して、言い訳に似た答えをつらつらと述べた。


 だがどのように着地しようと、『天使』からはその先どのように一歩を踏み出すのかという質問に移ることが容易たやすく予測出来できた。

 逃げ場のない空間でその追及を回避したかった一翔は、強引に話題を転換しようとした。



「…てかさ、俺に付きまとってるんなら昼飯忘れてることくらい指摘してくれよ。それなら道中コンビニ寄ったのに」



 一方の『天使』は特段虚を突かれた様子もなく、澄ました顔のまま柔らかな口調で答えた。



「君が私にそういう役割を求めるのなら、そうしてあげてもいいけど」



 皮肉めいたつもりが満更まんざらでもない応対にばつが悪くなった一翔は、ただちに発言の取り消しを要請した。

 『天使』に借りを作るくらいなら、好みの味でない冷めた給食弁当を口にする方が断然良いということに後になって気付いた。

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