第10話 そのまま直帰になるから


 一翔は大学4年生の夏、毎年お盆の時期に家族で訪ねていた浜松市にある母方の実家に同伴しなかった。

 就職活動が難航しているからという理由だったが、それを母から聞いた祖父の慶三けいぞうは一翔を憂慮ゆうりょしたのか、オサカベコーポレーションで創設されたばかりだった企業への面談を提案した。


 当時のオサカベコーポレーションは新卒採用に積極的ではなかったが、刑部おさかべ代表は発足したばかりの組織の将来性を見込み、何より袴田はかまだ慶三さんの紹介ならばと前向きに捉えた。

 そして匂坂こうさか社長も二つ返事で刑部おさかべ代表の要請を受け入れ、その後の展開はトントン拍子に進んだ。



 ひとり浜松におもむいて簡単な面談を受けた一翔は、9月初旬にはあっさりと内定を受けた。

 他に受験したい企業があれば就職活動を続けても構わないという配慮まで下されたものの、結局何に引っ掛かるわけでもなく消去法的に入社承諾の手続きを進めた。


 祖父には一言電話で礼を伝えたのみで、実際に顔を合わせたのは浜松市で単身生活を始めてからであり、以降も市内の案内や自家用車購入の仲介など様々な援助をしてもらっていた。


 だがそんな祖父も現在はよわい85となり、末期がんわずらって市内の病棟でホスピスケアを受けていた。

 一翔は都内で暮らす家族よりもずっと祖父に近い場所に住んでいながら、コロナを挟んだこともありしばらく祖父には会っていなかった。




「社長、こちら営業報告になります。」



 一翔はメールボックスに届いていたゴルフ場6社の営業報告を取りまとめて伊熊いぐま部長に提出した後、同じものを匂坂社長の机に置きながら一言添えた。


 パソコンの使えない匂坂社長にはメールで連絡のしようもないので、各社から届く営業日報も一式印刷しあわせて提出するのが決まりであり、週明けは金曜から日曜まで3日分をまとめるために少々手間が掛かっていた。

 とはいえ売上予測や過去実績対比等の集計はほとんど計算式やグラフを整理しているため、資料作成には然程さほど時間は要さず、むしろ少しでも時計の針が進むことを心の片隅で歓迎していた。


 だ新聞を読みふけっていた匂坂社長は短く礼を返して提出物を流し見ると、おもむろに伊熊部長へ声を掛けた。



「伊熊君、俺はこれから代表のとこ顔出してから浜名レンジ行ってくるけど、代表には三島富士の件、追加で資料をもらうってことでいいだよな?」



 浜名レンジとはオサカベコーポレーションが浜名湖の近隣に保有するショートコース付きのゴルフ練習場であり、匂坂社長はその施設のオーナーを兼任していた。

 そして三島富士とは新規の買収案件として先月よりブローカーから提示されていた静岡県東部にあるゴルフ場の名称であったが、伊熊部長はさとすような口調で答えた。



「いや社長、その案件は先週のうちに断ったじゃないですか。設備投資と預託金償還の両立が困難だし、借地の権利問題も動向が不透明だし、あと富士山も大して見える立地じゃないからってこと代表と話し合ったじゃないですか。」



「そうだったっけか? 先月視察行ったときちゃんと見えてただら。」



「確かに見ましたけど、進行方向とは逆向きだったでしょう。それじゃあなってことで代表も難色示してたじゃないですか。」




 その後しばらく匂坂社長と伊熊部長との間で水掛け論に似た応酬が続き、一翔はわずらわしさが表情に出ないようよそおいながらパソコンに向かっていた。


 刑部おさかべ緑地開発は東海圏を中心にゴルフ場を保有しながらも日本の一象徴である富士山が見えるコースはなく、刑部おさかべ代表が次なる買収候補としてこだわっている節があった。

 義兄である匂坂社長はその希望にこたえようと振る舞っているように見えたが、どちらかといえばよわいを重ねてけが深刻化してきたと表する方が妥当であった。



 やがて老人同士の空虚とも言えるやり取りが落ち着くと、匂坂社長はあっという間に事務所から退出してしまい、伊熊部長は苦笑を浮かべながら一翔に向き直った。



「やっぱり匂坂社長はもう厳しそうだよなぁ、先週話したこと全然おぼえてないんだからさ…代表に何を話すかわかったもんじゃないから、一々いちいち気を付けとかないと不安で仕方がねぇや。」



 これまでも幾度いくどとなく聞かされてきた愚痴ぐち混じりの小言に、一翔も愛想笑あいそわらいで同情した。

 ゴルフ場の買収案件に関しては伊熊部長が最も深く情報を把握しているが、代表への窓口は定期的に匂坂社長がおもむくために、齟齬そごが生じて方針がぶれることが珍しくなかった。


 それでも立場や体裁ていさいが優先されてしまい、伊熊部長の気苦労は度々たびたび愚痴ぐちとなって一翔に還元されていた。

 一翔はこれを甘受かんじゅしつつも、やり場のない不快感がっすらと蓄積していくのがわかっていた。



 すると不意に事務所に内線が掛かり、一翔は受話器を取った。発信元は階下にあるオサカベコーポレーションの総務課であり、年配の女性事務員からやや口早くちばやな連絡が入った。



「ちょっと手違いでお昼のお弁当1食多く頼んじゃったもんでさ、そっちで誰か食べる人いない? お代はこっち持ちでいいから。」



「お弁当ですか?……あ。」



 匂坂社長も伊熊部長も昼は基本的に外食であり、一翔も普段は前日の夕食の残りを弁当に詰めて持参していた。

 だが昨夜は飲み会だったため作り置きがなく、『天使』の出現も相まってすっかり失念していた。


 仕方なく余分な給食弁当の受け取りに応じて内線を切ると、その応対を珍しがった伊熊部長がかさず話しかけてきた。



「どうした? 昼飯忘れたんか?」



「ああ、昨日の夜友達と飲み会があったんで…以前部長達と行った店なんですけど。」



「あそこ行ったのか。美味うまいんだよなぁ揚げ茄子なすが。で、遅くまで遊んでたってわけか。」



「いや、夜8時には解散ですよ。友達は静岡とか名古屋から来てたんで。」



「なんだ、最近の若者は随分ずいぶんあっさりしてんな。まぁ浜松の繁華街も、大してないからなぁ。」



 伊熊部長の言う『遊び』の意味を適切に受け取りながら、一翔はまた愛想笑あいそわらいを取りつくろった。



「…それじゃ俺もそろそろ出るから。昼飯食いながら豊橋の現場行って業者と打ち合わせして…そのまま直帰になるから、後は頼んだで。」




 そうして伊熊部長もまたいささか痛めがちな腰をゆっくりと上げて退出すると、一翔はあっさりと沈黙に満ちた空間におぼれた。

 時計の針はだ11時にも届いておらず、本業である『電話番』の始まりに力無い眼差まなざしを天井に向けた。


 昨夜の飲み会が脳裏のうりよみがえると、月曜からすでにやることのない自分の姿がいつにも増してむなしく感ぜられた。

 あまつさえホワイトボードのカレンダーをながめても、今週は自分が関与する予定は何一つなかった。



——やることをやってればそれで評価されるし、給料も少ないわけじゃない。でも求められることが最低限過ぎて、タカやシュンと比べたらキャリアと呼べるものがほとんど身に付かないまま、等しく社会人としての時間を重ねてしまっている。


——それにもかかわらず何も奮起しようとしない俺は…まさしく『価値のある人間』とは言えないってことなんだろうか。




「退屈そうだね。」



 一翔が憂鬱ゆううつひたっていると、りんとした声音が右耳に届いた。


 その方をちらりと見遣みやると、『天使』が匂坂社長の机の淵に腰掛けながら一翔の顔色をうかがっていた。

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