第9話 週明け


2024年10月7日 月曜日。宣告された死まで残り28日。


 スマホのアラームで7時過ぎに起床した一翔は、身支度みじたくを整えながら冷凍していた6枚切りの食パンをトースターで適当に焼き、ブルーベリージャムを塗って牛乳と共に腹に流し込む適当な朝食をいつも通りに済ませた。


 10月に入っても日中はだ30℃近くまで気温が上がる異様な陽気が続いており、今日も曇りがちだが蒸し暑くなる予報だったため、スーツは仕舞しまったまま無地のワイシャツと紫紺しこんのパンツをまとって玄関を出た。

 そして中古で購入したブラック系統のコンパクトSUVに乗り込み、道路混雑を見越し2,30分程を要する通勤路へと発進した。



 『天使』はこの日の朝もベランダぎわに座り込んでおり、何気ない挨拶あいさつ寄越よこした。

 一方の一翔は挨拶あいさつかどうかも曖昧あいまい相槌あいづちを返して身支度みじたくに移っており、その後も幾度いくどか彼女の姿が視界に映ったが、何を会話することなくアパートを後にしていた。


 こうして自家用車で移動している最中さなかも、助手席か後部座席かに『天使』は居座っているのだろうと苦々しく想像したが、音楽をかけながらそれなりに運転に集中していたためか、尻目にもバックミラー越しにも彼女が映り込むことはなかった。


 昨夜のこともあり、勤務時間中は流石さすがに彼女も立ち回りに配慮してくれるだろうと思いたかったが、その代わりに休日の間に気にすることのなかった懸念けねん点と向き合わざるを得なかった。



——本当に1ヶ月後に俺が死ぬと決まっていたとしても、会社に何を釈明出来できるわけでもない。迷惑がかからないよう仮に退職しようにも、今の住まいは契約上借上かりあげ社宅だし、賃貸住宅の解約って1カ月前には通告しないといけないんだろうし…何をどう考えても唐突とうとつな申し出が穏便に済むとは思えない。


——逆にあれこれ憂慮ゆうりょして仕事も住まいも捨てたにもかかわらず生き延びたなら、それはそれで損をするだけだし…てか、何もかもを捨てたらそれこそ『価値のある人間』とかいう定義とは逆行するんじゃないのか?




 わずらった病を秘匿ひとくしながら出社するかのようなにぶ気怠けだるさをいだいていると、始業8時半の20分前には職場の駐車場に到着していた。


 一翔は『株式会社オサカベコーポレーション』という名称が掲げられたやや古びた3階建てのビルの裏手に回ると、従業員通用口にあるタイムカードを打刻した。

 そして狭い階段を上った2階にはいくつかの部屋があり、その突きあたりにある『株式会社刑部おさかべ緑地開発』という札が掛けられた扉を開いた。


 そこは40㎡ほどの横長の空間であり、入ってぐ右手側の机では眼鏡めがねを掛けた大柄な老人がすでにノートパソコンでメールをチェックしていた。



「…おはようございます」



「おはよう」



 その上司である老人——取締役部長である伊熊いぐま次朗はちらりと振り返って一翔に挨拶あいさつを返した。


 一翔は伊熊部長の対面に向き合うように置かれた机に回り込むようにして着席し、自分のノートパソコンの電源を入れた。

 やや劣化しているのか毎度起動に時間がかかっており、スマホでSNSを適当にながめながら操作がく状態になるまで待機していた。



 すると部屋の扉が開いて、小柄なスーツ姿の老人が短く挨拶あいさつを口にしながら入ってきた。取締役社長である匂坂こうさか滋生しげおであった。



「…おはようございます」



 一翔は伊熊部長とあわせるように挨拶あいさつを返したが、匂坂社長は一瞥いちべつすることなく入って左手側にある自分の机にかばんを置き、生地きじの厚い椅子に腰を下ろして持参した新聞を広げた。

 一翔もその反応にして気にすることなく、受信されたメールの確認へと移った。




 一翔の勤めるゴルフ場ホールディング会社『刑部おさかべ緑地開発』は、取締役を含めて従業員は5人しかいない。

 他の2人は課長職であるが、傘下さんかゴルフ場の幹部を兼任していて出向扱いになっており、たまにしか事務所に顔を出すことはなかった。


 そもそもこの刑部おさかべ緑地開発という会社は、東海圏で商業用不動産を主に扱うオサカベコーポレーションの100%子会社である。


 様々な不動産を買収しくは貸借運用するに連れて保有数が増えてきたゴルフ場について、包括的に運営が出来できるよう10年程前に設立されたのが背景であり、その際に保有ゴルフ場の株式もすべて譲渡されていた。

 だがそれはオサカベコーポレーションの起業者であり現代表である、刑部おさかべ寿明としあきのゴルフ好きが高じた一面でもあった。



 そして刑部おさかべ緑地開発の取締役社長である匂坂滋生は、刑部代表の義兄であり今年の春によわい80を数えた。


 元より浜松市内で金属精錬業の現場にたずさわっていたが、定年前に退職してオサカベコーポレーションに移り、程なくして創立した刑部おさかべ緑地開発の社長の椅子にいたのだと一翔は聞いたことがあり、一族経営の側面を持つ組織ならではの人事だったのだろうと見做みなしていた。



 一方で取締役部長の伊熊次朗は、オサカベコーポレーションが最初に取得した静岡県西部のゴルフ場の元支配人であり、営業から芝の管理まで熟知しており業界でも顔の広い存在であった。

 現在は東海圏を中心に保有する6社のゴルフ場を統括しながら、新規のゴルフ場買収案件を精査している。


 とはいえ先月によわい72を迎えており、寄る年波としなみから屡々しばしば身の引きぎわを模索しているようだが、それを口にするたびに刑部代表や匂坂社長から留意りゅういされていた。

 刑部代表もよわいは78であるため、伊熊部長は年齢を理由にした引退を正式に進言することがままならないようであった。



 そしてよわい29の一翔は、業務課主任という役職であった。その職務内容は漠然としており、2人の課長もまた別の肩書かたがきがあったため、『業務課』も『主任』も名ばかりのようなものであったが、対外的に一応のはくが付いていたのは事実であった。


 主な役回りとしては、各ゴルフ場から毎日メールで届く営業報告から得られる全体的な売上や資金繰りの予測および前年実績との対比、予算や設備投資計画との照合、ほか口コミなどで報告に無いトラブルがあるかいななどを取りまとめて部長や社長に提出することである。

 また経理担当として出金や記帳の管理、ゴルフ場側と交わす請求書の作成管理等を担い、対外的に金融機関やリース契約、保険担当者等と連絡を交わすこともある。


 だが昨夜の飲み会で自虐じぎゃくを垂れた通り、これらで勤務時間のすべてを程よく消化することはほとんど叶わない。

 イレギュラーな仕事や出張が発生しない限り、一翔の仕事の半分程度は電話番であるといっても過言かごんではなかった。



 そもそも一翔は社会人になるまでゴルフなど触れたことはなく、特段関心があるわけでもなかった。

 そんな一翔が新卒としてこの会社に就職することになった理由は、刑部代表と旧知の仲である一翔の祖父、袴田はかまだ慶三けいぞうの紹介にるものであった。

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