第5話 終わりの始まり

 一翔がして温まらない身体に寝間着をまとい、歯をみがいたのちに居間へ戻ると、ベランダ際のカーテンの前に座り込んでいる『天使』と視線が合った。


 どうしてだそこに居るのかと悪態をきたかったが、彼女の無機質な返答には予想がついてしまい、諦めて腹の奥に押し込んだ。

 『天使』は浴室で気をつかうような発言をした割には、布団を敷いて待ち構えていたわけではなく、その言動にはまったつかみどころがなかった。


 最早もはや幻覚だと足蹴あしげにすることもむなしく、追い払うことも叶わないと断念した一翔は、布団を広げながらぶっきらぼうに『天使』に問いかけた。



「あのさぁ、俺の前で突然現れたり消えたりするの、マジでびっくりするから止めて欲しいんだけど」



 あからさまに迷惑そうな口振りに対して、『天使』は相変わらず人形のような澄ました表情で答えた。



「私は何もしてないよ。君の方が私を認識出来できたり出来できなかったり、むらが大きいのだと思う」



「じゃあ質問を変える。そのむらを安定させるにはどうすればいいんだよ」



「どうと言われても、君自身の心の問題だと思うよ。たとえるなら、壁に偶々たまたま空いたあなを通して私を見ているようなものだから。しくは、動物園に展示されている生き物をごく限られた視界からしかのぞけなくて、たまにしか実物を見つけられないような…そういう感じかな」



 一翔にとってはその『心の問題』が何なのか具体化されないことが不満で仕方がなかったが、それ以上追及したところで濁されることは目に見えていた。

 態々わざわざみずからを動物園の展示生物にたとえてまで干渉のしようがないと示したことを、甘受かんじゅせざるを得なかった。


 それならば自分の視界に入らないよう言い付ければいいとも考えたが、『天使』が見えるようになった原因が自分にあるのならば、そのような利己的な態度をとる余地はなかった。

 むしろその原因、すなわち『心の問題』をどのように落とし込むべきかが重要であると思い立った。


 一翔は布団の上で胡坐あぐらをかきながら、やむなく『天使』に向き合って再び問いかけた。



「あんたは俺のことを生まれてからずっと見守ってきたとか言ってたけど、俺の身の回りで起こったことを全部記憶しているのか」



 一翔は日記をしたためたことはなく、30年近くの生涯しょうがいの大半は記憶からこぼれ落ちているか埋没していた。それは人間として当然の性質であったが、の『天使』はどうなのか探ろうとしていた。



「うん、全部おぼえてるよ。君が幼い頃、浸かろうとした温泉が熱すぎて大泣きしたこととか、親に内緒でお年玉の大半を年始早々ゲームセンターで浪費したこととか、女の子と話す時はいつも若気にやけてるよなって同級生に小馬鹿にされたこととか…」



わかった、もういい、列挙しなくていい」



 掘り返さなくていい記憶を掘り返された一翔は、悪意なく並べ立てようとする『天使』の口を早々に封じようとさえぎった。そしてばつの悪い表情を浮かべながらも、それを前提とした質問を続けた。



「それだけ細かくおぼえてるんなら、あんたの言う俺の『心の問題』にも幾分いくぶんか見当は付くんじゃないのんか」



幾分いくぶんかはね。でもあくまで客観的な事実をもとにしたものでしかないし、それは君自身が自覚している域を出ないと思うよ。君の心境を推察することは出来できても、完全に知り得ることは出来できないからね」



「俺の心までは読めないと言いながら、どうしてそういう推測が成り立つんだ」



「私、何か変なことを言ったかな。それって普通のことじゃない?」



「…ほら、ジョハリの窓ってあるだろ。俺にとっての盲点の領域を、あんたはその…一番良く知ってるってことになるんじゃないのかよ」



「確かにそうかもしれないけれどね。でも1つ確実に言えることがあるとすれば、『心の問題』は盲点の領域じゃなくて、秘密か、あるいは未知の領域に存在しているってことかな」




 落ち着き払った声音で答える『天使』を前に、一翔はみずから論点をずらしてしまっており何ら解決に近付いていないことをさとった。

 ずらすと言うよりも逃げると表した方が的を射ている気がして、彼女の手を借りようとすればするほど自分が内側から力任せに削られていくような反動を覚えた。


 そのことを『天使』に言及されないよう、悄然しょうぜんとしかけながらも別の質問へと切り替えた。



「じゃあ最後に教えてくれ。俺があんたの言う神様ってやつから無価値の烙印らくいんを押されたってことは、俺はこの世の誰よりも劣っているって意味なのか」



「それは違うよ」



 すると『天使』は即座に、やや語気を強めて否定した。だ見せたことのなかった冷たさを帯びた態度に、一翔は若干じゃっかんひるんだ。



「決して神様がこの世に生きる人間すべてを順位付けしたわけじゃない。君は選別されたのではなく、選出されたのだと解釈するべき。無価値の烙印らくいんだなんて捉え方は、流石さすがに悲観的過ぎるよ。むしろ、神様が与えた試練だと受け取るべきだよ」



「でも俺が他人と比べて非生産的な人生を送っているから、それを改善しないと生き続けることを許さないって…そういう趣旨なんだろ」



「それは…そうかもしれないけれど」




 一翔の反論に対して『天使』の返答が尻窄しりすぼみになり、一転して気力が薄れたように見えた。


 その様子を見た一翔は、布団にもぐり込みながら室内照明のリモコンを手に取り、あきれたように言い放った。



「そして俺が死ねば、あんたも消滅する。あんたは消滅したくなくて俺に前向きになるよう促してる。そういうことなんだろ」



「私のことより、君自身のことを気にしてよ」



わかんねぇよ。いきなり30日後に死ぬって言われて、何がしたいかなんて…」



 そして消灯と共に『天使』との会話を打ち切り、一翔は無理矢理にでもみずからを眠りに引き摺り込もうとした。


 暗闇の中で『天使』が何を話しかけて来ようとも、だんまりを決め込もうとしていた。あわよくば今日1日そのものが長い夢であって欲しいと、ついえたはずの願望をもう一度膨らませようとした。



 結局その後『天使』が何か言葉を発することはなかったが、一翔は彼女の気配が薄っすらと感じられるような気がして、静寂の中でなかなか寝付けずにいた。

 たとえこれが1日分の長い夢であっても、それが自分の心を映し出した一幕だったかと思うと、自分自身が不甲斐ふがいないことに何ら変わりはないと思った。



——30日後は11月4日。俺の30歳の誕生日。もし本当に裁定が下れば、その日を迎えることは出来できないかもしれない。選別の根拠のもう1つは…そういうところだったんだろうな。



 そのように自分を納得させても、本当にそのデッドラインが決められているのだとしても、命運を回避するためにするべきこともやりたいことも暗闇の中で何1つ浮かんでは来なかった。

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