ろくでなしと笑わない天使

第4話 空の浴槽

　見慣れた独（ひと）りの風景が戻ってきたにも拘（かかわ）らず、一翔は暫（しば）し固唾（かたず）を呑んでその虚（むな）しい空間を見つめていた。

　まるで部屋の隙間や家具の影に隠れた虫を無意識に探そうとするように、心の中は騒めき立っていた。過剰（かじょう）なほどの幻覚から解放されたいという願望は、結局のところ果たされていなかった。

——まったく…何だったんだよ。

　だがその気疲れを小突くかのように空腹感が込み上げ、未（ま）だ起きてから何も食べていないことを思い出した一翔は、重い腰を上げて昼食の用意をすることにした。

　その後も度々（たびたび）視線を室内の彼方此方（あちこち）に撒（ま）いていた一翔だったが、『天使』の姿を再び捉えることはなく時間が経過した。

　昼食に茹（ゆ）でた蕎麦（そば）にとろろと刻み葱（ねぎ）を載（の）せて啜（すす）り、アニメやプロ野球中継の配信を眺（なが）め、夕食に麻婆豆腐を作って食べ…いつも通りの何でもない休日が終わりかけても、彼女は現れることはなかった。

　自分が気付かないだけで今も死角に潜（ひそ）んでいる可能性も拭（ぬぐ）えなかったが、その領域は案じたところで切りがないと自（みずか）らに言い聞かせた。

　だが一翔はその一方で、こうして意識し続けている時点で未（いま）だに彼女を幻覚だと割り切れていないことに気付いた。

　あまりにも異質で眩（まばゆ）く、居（い）た堪（たま）れないほど美しい姿をしていたにも拘（かかわ）らず、身内のような『馴染（なじ）み』を不思議と覚えていた。

『本来は君を見守り続けることが、私の存在意義なの』

　就寝前にシャワーを浴びようと浴室のバスチェアに腰を下ろす際、不図（ふと）一翔の脳裏（のうり）に『天使』の一言が過（よぎ）った。不可解な『馴染（なじ）み』は、その台詞（せりふ）に根拠があるのではないかと考えた。

　だが見守るなどと言いながら当人に認識されることなく、人生を助けるでも導くでもない、そこに一体何の意義があると言えるのだろうかと結局は鼻で笑った。

　無価値の烙印（らくいん）と共に余命宣告をするという直接的な干渉こそが余程（よほど）意義深く、宛（さなが）ら建物に設置された非常ベルだと喩（たと）える方が相応（ふさわ）しく思えた。

『君が死んだら、私もこの世から消えてしまうから』

　それ故（ゆえ）に、彼女が言い残した一言が不本意にも引っ掛かっていた。

　30日後に訪れるらしい自分の死に対し中立的な姿勢を採（と）るように見せかけて、彼女自身の消滅を引き合いにその命運を回避するようやんわりと促していることが気に喰（く）わなかった。

　一翔は髪を掻（か）き毟（むし）るように洗いながら、返し損ねた文句を内心で喚（わめ）いていた。

——脅すようなこと言いやがって。突然湧（わ）いて出た幻覚染（じ）みた存在に、情で流されるわけないだろ。

　一翔は熱いシャワーを勢いよく被（かぶ）り、今日起きた奇怪な出来事（できごと）の全（すべ）てが水に流れてほしいと希（こいねが）った。そうして明日からまた普通の日常に戻ってくれることを望んだ。

　だが自分にとっての『普通の日常』が如何（いか）に空虚なものであるか、使い勝手の良いはずの表現がまたしても心の奥に引っ掛かった。

　その顛末（てんまつ）に自虐（じぎゃく）的になりながら、身体を洗おうとボディーソープを馴染（なじ）ませたタオルを左腕に掛けた。

　そのとき視界の左側で、空（から）の浴槽（よくそう）に何かが潜（ひそ）んでいるのを察してしまった。

「あのさぁ…マジで何がしたいんだよ…」

　『天使』が空（から）の浴槽（よくそう）に蹲（うずくま）っていた。

　飛沫（しぶき）や泡の撥（は）ねを鬱陶（うっとう）しがる様子もなく、かといって何に関心を持つわけでもない眼差（まなざ）しで、一翔の剥（む）き出しの背中をじっと眺（なが）めていた。

　大きく広げていたはずの翼はどこにも見当たらず、本物の女性が知らず知らずのうちに潜んでいるという不気味な錯覚をより深刻化させた。

　当然ながら浴室に入る際には誰もおらず、髪を洗う最中（さなか）に侵入出来（でき）るほど背後は広くなかった。

　一翔は嫌悪（けんお）をはっきり示すために熱いシャワーでも掛けてやろうかと一瞬画策したが、呆（あき）れ果てて気を起こすことすら億劫（おっくう）だった。

「いつも思うんだけど、浴槽（よくそう）にお湯は張らないの？」

　他方の『天使』は何ら意に介することなく、藪（やぶ）から棒に尋ねてきた。

「張らねぇよ」

「どうして？ 真冬の季節でも張らないよね。ちゃんと湯舟に浸かった方が温まるし、リラックス出来（でき）ると思うのだけれど」

　彼女の提示する一般論が浴室内で反響し、一翔は殊更（ことさら）に辟易（へきえき）した。

　心の休まらない原因を鏡に映し出して皮肉を訴えたかったが、目の前で長方形に曇る鏡を洗い流したところで、彼女の姿がほんの僅（わず）かしか映り得ないことは明白だった。

　そもそも彼女の肩から胸元にかけて露出した瑞々（みずみず）しい肌がこの窮屈（きゅうくつ）な空間ではかえって生々しく、直視することも憚（はばか）られた。

　この状況で湯を張るなどという問答が下心を煽（あお）られているように思えた一翔は、吐き捨てるように答えた。

「水もガスも割に合わないからだよ。男の独（ひと）り暮らしなんてこれで充分。解（わか）ったら早く出て行ってくれ」

「そう。別に気にすることなんてないのに。君がこれまで認識し得なかっただけで、私は大抵（たいてい）こうして君を見ていたわけだし」

　『天使』は淡々と言い返しながらも、一翔の態度を察してか空（から）の浴槽（よくそう）から立ち上がり、その淵（ふち）を跨（また）ぎながら浴室の扉に手を掛けた。

　一翔はその挙動に驚いて慌てて鏡の方に身体を詰めたが、絹のような彼女のワンピースが泡に塗（まみ）れた背中にシャワーカーテンのように張り付いた。

　だが『天使』は気にすることなく扉を開け、一翔に向かってひんやりとした空気を浴びせた。

「それじゃあ、ごゆっくり」

　そう言って颯爽（さっそう）と扉を閉めた『天使』の姿は半透明な樹脂パネルの向こうで翻（ひるがえ）って立ち去り、一翔はその一連の所作を呆然（ぼうぜん）と眺（なが）めたまま硬直していた。

　それまで幽霊のように神出鬼没だったはずの『天使』が、実際に物質に干渉する瞬間を確かにその目で見てしまっていた。

　幻覚の定義が揺るがす現象を見せつけられたようで、真っ先に冷たいシャワーを被（かぶ）りたい衝動に駆（か）られた。

　未（ま）だ涼しいとは言えない季節のなか、冷水を浴びることに抵抗はないはずだった。だが疾（と）うに一翔の身体には鳥肌が弥立（よだ）っており、一向に安らぐことのない休日に頭を抱えずにはいられなかった。

——ああもう…本当に何がどうなってんだよ、今日は。