氷象(3)

 子供の頃から、聡明な孫であろうとは思っていたのだ。

 補導されるのが怖かった、と二つ折りの財布を握り締めて孫は言った。

 悪天候の中、よもや鞄ひとつで家出をするとは誰も想像できまい。鎌倉駅から、清嗣郎の営む弁護士事務所までは徒歩で十分もかからぬ距離だ。訪ねる間、梅雨の霖雨に手酷く打たれたのであろう。背負った荷物が、雨傘からはみ出ていたのか水が滴るほど濡れていた。

 退勤間際、夕方の事務所に押しかけるなり清之介は言った。

 家出をしてきました。弁護士であるおじいさまに助けてほしいんですと。

 握った財布は、子供用のパスケース付きの合皮製か。十三歳の孫は、見るからに冷え切った青白い手を動かした。電磁読み取りの、ICカードの裏側から紙片を引き抜きながら言う。それは一葉の名刺であった。二年前か、清嗣郎が孫に譲った弁護士業の名刺と察した。

 捕まったら、この名刺を出そうと思っていたと俯きながら呟く。

「名刺を見せて、弁護士の祖父にを頼まれたと言うつもりでした」

 薄青色のシャツ、フードのついた上着には雨滴が斑に滲んでいた。

 濡れた手は、小刻みに震えたまま湿り気を帯びた名刺をつまむ。あたかも、免罪符か寺社の守札であるかのようだった。緊張のためか指が白くなるほど強張っている。三つ指で押さえつけられた紙片に皺が寄る。財布を握り締めていたのはこのためか、と清嗣郎は得心した。

 鎌倉駅前、繁華な東口には派出所が置かれているのである。 

 近辺も、駅の東側の繁華街だ。裏路地とはいえ人出も多い地域と言える。

 清嗣郎の事務所は、鎌倉駅と若宮大路の中間の路地に構えている。東口の改札を出てから駅前の派出所を警戒したと思しい。鎌倉駅には、JRと江ノ島電鉄が乗り入れる。所謂、表口にあたる東口は、バスの乗降場もあり、正面の停車場を囲むように数箇所の乗り場を設けてある。

 普段であれば、帰路に着く観光客で混雑する頃合いだろう。

 だが、この烈しい雨脚だ。私服姿では、悪目立ちしたかもしれない。

 清嗣郎は、窓を穿鑿せんばかりの篠突く雨の音を聞く。霖雨ではあるが、亜熱帯の驟雨とも見紛う雨脚だった。暗雲に覆われ、陰鬱な墨色の景色が広がるばかりだ。役にも立たぬ雨傘に細い体躯を隠してきたのか。荷物を背負い、不案内な道を辿ってきた孫に肝を冷やした。

 蒼白な顔には、齢相応とは思えぬ憔悴が色濃く滲んでいた。

 まずは体を拭いたほうがいい、と孫の顔色を窺いながら言い含める。

 事務所には、清嗣郎と孫を除いて誰もいない。所属弁護士も、常勤の事務員もすでに帰宅している。清嗣郎が戸締りを担って帰宅する手筈であった。給湯室に洗い替えのタオルがあったはずだと足を運んでみる。手狭ながら、一口コンロと冷蔵庫を備えた給湯室があった。

 築年数を経た、いかにも昭和期に建てられたである。

 六畳の応接室と、給湯室が附属するだけの事務所は静かだった。旧型の蛍光灯が古めかしい室内を照らす。賢い孫は物音も立てずに黙って待っていた。静粛が過ぎ、健やかな精気をまるで欠いている。黙ったままの孫に、清嗣郎は棚から引き出したタオルを手渡してやった。

 応接間に促し、足元に荷物を置かせると革張りのソファに座らせた。

「落ち着いて、何があったのか順序立てて説明してみなさい」

 最後に会ったのは半年前か。音楽発表会で、立派なピアノ演奏を披露していた。

 清嗣郎の口吻に、瞼を伏せた孫はおもむろに息を吸い込んだ。唾を嚥下する喉が、青褪めて痛ましいほどに白く見える。未成熟な少年の、日陰で育つ白独活のような体躯はいかにも脆弱そうであった。暫くの間、深呼吸を続け、息を整えてから足元の荷物に手を伸ばす。

 荷物を膝に抱え上げ、一冊の学習ノートを慎重に取り出した。

「恐らくですが、僕は母親から教育虐待を受けているのだと思います」

 実の祖父として、霹靂じみた告白に瞠目せざるを得なかった。

 十三歳の孫は、恐縮したような挙措で学習ノートを差し出した。恭順とも、ないし怯懦とも異なる、明白な危懼を擁しているのであろう目顔に驚く。その表情から、周囲の人間を信用できぬ状況は十分に伝わる。他方で、他者を峻拒せんとする剣呑な冷徹さも垣間見えた。

 実の孫が、逼塞していることにも気づかなかったとはとんだ痴れ者だ。

「ここに、僕が受けてきた『』がすべて記録してあります」

 練習日記、と記されたノートを受け取り顔を顰める。

 家庭内暴力の証明に、仔細な記録をつけることは常套な手法だった。

 孫は、実の母親から熱心なピアノの指導を受けていた。よもや、過度な稽古が虐待紛いであったとは思うまい。否、と清嗣郎は見立ての甘さに臍を噛む。音楽家の家庭で、教育虐待が散見されることは周知の事実である。自分の蒙昧さに、呻吟ともつかぬ唸り声が漏れる。

 表紙に書かれた、「氷見清之介」の名前を労わるように指の腹で撫ぜた。

 清之介は、幼気に揃えた膝の上で拳骨を握り締めていた。


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