氷象(2)
鎌倉駅前にある、老舗の喫茶店に寄るにはいい時間帯であった。
清嗣郎は、台所で妻に声を掛けてから孫を連れて家を出た。お茶をしてくると言えば、鷹揚な頷きとともに返答を得た。住職に供した粗茶を片付けながらの応答だ。以心伝心、ないし阿吽の呼吸というものか。妻もまた、孫と二人で話がしたいと斟酌してくれたのであろう。
意図を察し、得心したように玄関先まで見送ってくれた。
雨傘だけは忘れずに、との有難い忠告によく礼を言って傘を携えた。
清嗣郎の自宅は、鶴岡八幡宮の手前に入り組んだ路地にある。地名に照らせば、雪ノ下と呼ばれる閑静な地域である。史跡に混じり民家や集合住宅が立ち並ぶ。鶴岡八幡宮まで南北に貫く若宮大路を東に逸れた裏路地だ。あたかも、狭隘な迷路のように細道が錯綜している。
狭路は何度も蛇行し、鉤形のクランクに継がれながら続くのである。
清之介も、駅に至る道順を覚えるまで苦労していたものだ。
「折角だから、お茶でもしていこう。駅前までならちょうどいい」
二年も経てば、喫茶店を目的地に指定しても迷うことはない。清嗣郎が名前を挙げると、鎌倉駅前にある喫茶店まで先導してみせた。薄曇りの空は、暗雲に覆われているものの本降りではない。霧雨で済む間に、駅前の通りに軒を連ねた喫茶店の店先まで辿り着いた。
鎌倉駅の東側、若宮大路と並行する小町通りにある名店である。
創業は、清嗣郎がまだ幼少の頃だっただろうか。飲食店、洋菓子店から喫茶店へと姿を変えて続いている。現在では、観光客にも好まれているらしい。常連客ではないが、妻や父親とともに足繁く通っていた。花の溢れる庭や、いかにも落ち着いた内装は居心地がよかった。
四月頃には、中庭に面した軒端に薄黄のモッコウバラが咲き乱れる。
清嗣郎の妻は、こぼれんばかりの花の点描を好んでいた。
「私はホットのブレンドを。清之介は、ホットケーキでも食べるかい」
店員に、妻と息子たちが好むホットケーキを頼む。今回通された席も、中庭の窓辺に接した四人掛けの席だった。温室か、あるいはサンルームとでも言うべきか。緩やかな勾配の天井は、薄日に透けるガラス張りで仄暗い。庭の花壇と、幹のうねる庭木を霧雨が濡らしていく。
清之介を見れば、膝を揃えて畏まったまま小声で礼を口にする。
謙虚な孫は、勘当した長男によく似た顔をしていた。先程も、長男の名前を呼びかけたのを堪えたのだ。長男である「清志郎」もホットケーキを食べたがった。だが、清之介の年齢前から親子仲は悪化の途を辿った。十五歳ともなれば、惨憺たる反抗期を迎えていたものだった。
孫の姿が、清志郎の記憶と重なる。学生服で、市内の進学校に通学していた。
十五歳となり、体格や顔の造形も精悍になる頃合いだ。
「最近はどうだい。部活動や、何か楽しめることは見つかったか」
「どうかな。運動は得意じゃないし、音楽とか美術部みたいなのはちょっと」
清之介の口吻は、歯切れが悪く奥歯に物が詰まったようだ。
そうか、と穏和に頷きながら自分の短慮を悔悟する。孫の両親は、どちらも芸術関係の仕事に就いていた。母親は音楽家、清嗣郎の長男である父親は日本画家である。実家を離れた孫が興味を持ちづらいのも察しがつく。屋内の部活動も、吹奏楽部や美術部などが中心であろう。
高校の三年間、長男の清志郎は美術部で写生にのめり込んでいた。
最後に、進路のことで仲が破綻した。息子は、芸大を受けると家を去った。
息子と比べ、清之介は年齢と不釣り合いな聡明さを具える。若者らしい髪型だが、垂れ目に収まる瞳は清冽なほど透徹だ。水晶を削りだした象嵌にも思われる。あたかも万事を見透かすような眼差しだった。前髪のためか、眼光の鋭さはいくらか抑えられて見えた。
幼子の頃は、まだ幼気な愛嬌というものがあったに違いない。
清志郎が、新妻を連れて現れた時には驚いたものだ。父も、清嗣郎も、結局は若い新妻が産んだ新生児に絆された。子ではなく、孫が鎹になったようなものである。清志郎もまた、公募展で賞を拝受し、気鋭な耽美派の美人画家として知られていたのが功を奏した。
当時を思い返し、清之介の進路にだけは口を出すまいと誓う。
せめて、目前の孫には、子供らしく青少年の時期を過ごしてほしかった。
名物のホットケーキは提供に時間がかかる。二段重ねの生地は、厚みが十センチはあるため焼き上がるまで数十分を要した。孫と触れ合うには十分な時間だ。待つ間、実の祖父として同じ時間を過ごすべきだろう。清嗣郎も、最後に「おやつ」があると思えば安堵できる。
二年前、鎌倉まで家出した孫を迎えた時も雨が降っていた。
梅雨時の、陰惨な驟雨に近いような雨脚の日だった。連絡もなく、清嗣郎の弁護士事務所を訪ねてきたのである。清之介はまだ中学生だった。思えば、案内された革張りのソファも事務所のものと似通う。窓越しの雨音に、二年前の記憶を思い出さずにはいられなかった。
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