氷見清嗣郎【祖父】
氷象(1)
祖父‐ひみせいじろう【氷見清嗣郎】
高校生の孫が、清嗣郎の父親の月命日の片付けを始める。
今回で三度目の月命日だ。鎌倉市内の菩提寺に、供養の読経を依頼していた。
月命日といえど、所詮は住職と読経するだけの簡単なものである。六畳の仏間には座布団ばかりが残る。四枚の座布団を部屋の隅に重ねながら孫を見た。生真面目な孫は、喪服ではないにしろ黒や暗色の洋服を選んで着る。読経の後、仏壇の整頓は孫の仕事となっていた。
平日であれば、夕食を終えた頃に住職を迎えることが多い。
今日は土曜日であり、住職の事情で昼過ぎから経を上げることになった。
孫の手は、清嗣郎の知らぬ間に骨張っていた。仏扇を持ち、軸の細い漆塗りの柄を三つ指でつまんで蝋燭を煽ぐ。長い手指は母親に似たのであろうか。仏扇は年季が入り、茶渋色に褪せた地紙も蛾の翅翼のようである。火蛾の羽音か、穂先と燃える燈芯が微風の前に掻き消えた。
曾祖父たる父が、仏扇を弄んだ幼い曾孫を𠮟りつけたのを思い出す。
今や、齢十五を迎えた高校生だ。心なしか、精悍さを増したようにも見える。
東京の親元を離れ、孫が鎌倉に越してからすでに二年が経った。勉強の甲斐もあり、無事に高校受験を終えて志望校の合格も得た。学費の節制のためか、鎌倉市内の県立校への進学を希望していた。利発な孫だ、金策を憂慮したことは想像に難くない。私立校と比べ、通学費を含めても安上がりに済むとの算段であろう。気を揉んだが、進学後の様子に胸を撫で下ろした。
孫の意向を尊重し、清嗣郎の養子として迎えるには覚悟を要したものだ。
「お
「ああ、気が利くな。火事になると困るからそうしてくれ」
清嗣郎が頷けば、仏壇の正面で跪坐を保ったまま仏扇を経机に置く。
仏壇には、おりんや線香を立てた香炉が揃えてある。物静かな孫が、線香の束を手に取るなり丈を詰めるように手折った。衝撃で香炉の中に灰の塊が落ちる。清嗣郎の鼻腔にも、線香の先から燻る煙が押し寄せる。生前の父が好んだ、樟脳と白檀の混じったような薫香であった。
着物家で、着道楽の父だった。和箪笥にも、樟脳を焚き染めた古着物が眠る。
清嗣郎の説得に、父親も十三歳だった「曾孫」を受け入れた。
高校生の孫は、敬虔な挙措で両手を合わせて仏壇を拝む。仏間には、長押を飾るように先祖の遺影が並べてある。水墨画じみたピントのずれた遺影ばかりだ。白黒の遺影は、祖父とその妻の遺影だった。遺影の列に、清嗣郎の父もまた妻と寄り添って色写真を連ねた。
高精細な顔写真に、口髭を蓄えた慇懃な表情が写し取られている。
死因は老衰で、愛顧の訪問医に臨終の確認を受けた。大正生まれ、卒寿を目前に控えての大往生だった。最後には親族に看取られて永眠した。都内から、清嗣郎の次男夫婦とその孫も駆けつけた。目前に座る孫は、今際まで居候であるとの自覚を捨てなかったのであろう。
同居人として、十五歳とは思えぬほど熱心に介抱を続けていたものだ。
孫の両親、清嗣郎の長男と妻は勘当され敷居を跨がなかった。
「このお線香、
「多分、白檀だろうな。最近は、サンダルウッドと呼ぶんだったかな」
香料の話へと話題を逸らす。清嗣郎の妻も、アロマオイルに関心があるらしい。
孫の手前、遺品整理の話を振るには人情味を欠く。父親の葬儀後、登記を含む遺産の名義変更の手続きに追われた。いまだ箪笥の肥やしは手付かずだ。着物を主とした、遺品整理までは手が回らなかった。処分するとなれば、専門の買取業者を呼ぶか手蔓に譲渡するかだろう。
情操の面からも、遺影の前で相続や遺品について語らうことは憚られた。
香炉の中で、線香が灰に頽れるのを見届けてから部屋を出る。
障子戸を滑らせると、経机を整えていた孫も連れ立った。小脇には、鎌倉駅前にある洋菓子店の地味な化粧箱を抱える。仏前の供え物も手際よく回収したようだ。前日の夕方、清嗣郎が駄賃を持たせて孫に遣いを頼んだ。父の好物だったレーズンサンドを買い求めていた。
栗色の紙箱は、妻に手渡して数日分の茶請けとする習慣だ。
仏間は二階にあり、板張りの廊下に出ると庭が見渡せる。相続した家屋は、戦後に父が知人から譲り受けた数寄屋風の古民家にあたる。古いガラス窓が、庭に張り出した肘掛窓に嵌まる額縁のようである。陰鬱な窓外では、青椛の枝葉に霧のような霖雨が降り注いでいた。
窓の表面を、微細な雨粒の群れが水脈を引きながら流れていく。
天気予報はどうだったか。雲行きは、薄曇りのまま杳として窺い知れぬ。
利発な孫は、窓を見詰めたまま足を止めていた。十五歳、十代半ばともなると情緒も不安定な時期だ。進学先では同級生とうまくやっているだろうか。学友たち、クラスメイトの話題は小耳に挟んだこともある。二度目の子育てのブランクを鑑みれば気負わざるを得まい。
「清之介、少し散歩に行かないか」と齢の離れた孫の名前を呼んだ。
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