氷面(4)

 食事を終えた後、溜飲をさげるために後片付けを買って出た。

 帰路に着いたのは、四人分の食器を食洗器に押し込んでからのことだった。

 長居をして、居間で家族団欒という気分にはならなかった。従弟にしても、晶嗣の心情を知ってか知らずか便乗するように辞去を申し出る。晶嗣の「もう帰るよ」との発言に、清之介は目顔を寄越しながら機敏に腰を上げた。泊まっていくと思っていたから拍子抜けする。

 僕も失礼します、と従弟は未練がましさもなく礼を言った。

 目上に向けた言葉遣い。家族でも、線引きされた関係だと暗示するようだ。

 晶嗣は、釈然としないものを感じながら祖父母に頭を下げる。食事の礼を言うと、孫たちに揃って労われた祖母は篤実な笑みで頷いていた。去り際、玄関先で見送る祖父が、晶嗣を諫めるように一瞥したことに気づく。和解しろ、とでも言いたげな非難の目に自嘲したくなる。

 敷地を出れば、自動車も通れない路頭に放り出された。

 表通りを外れると、途端に方向感覚がなくなるのが鎌倉の街だ。

 裏路地には、隘路が蛇行しながら分岐して続いている。時には三叉路となり、緩やかに曲がる幅狭の道路に翻弄される。民家と道路の境に生垣や板塀が巡るせいもある。まるで迷路のような路地だと思う。目前の電柱が、街灯を兼ねてぼんやりと冬の闇を照らしていた。

 晶嗣は、上着のポケットに両手を突っ込むと従弟を呼び止めた。

「なあ、駅前まで、道案内を頼んでもいいか」

「晶嗣くんがそう言うと思って、僕も出てきたんですよ」

 暗闇の中では、二人分の呼気だけが驚くほど白く棚引いている。

 最近では年末に顔を出すだけだ。鎌倉の土地勘だってほとんどなかった。

 清之介は、後頭部のまとめ髪を見せるように踵を返す。鼈甲の髪留めが年寄りくさいな、と思いながら後ろをついていく。その背中が、黒いコートのせいか発表会の記憶と重なる。祖父母も来ていた憶えがあった。まだ初老に差し掛かったくらいの年齢だったはずだ。

 高齢の祖父も、法律事務所を後輩に譲りすっかり隠居の身だ。

 次男である晶嗣の父には、独立を進めて頑なに跡目を継がせなかった。

 晶嗣の借部屋も、実家である父の自宅や事務所も都内にある。祖父母宅への訪問を帰省と呼ぶのは、子供の頃から盆や年末に訪ねていた名残りだ。帰省先とは、晶嗣にとってあくまでも祖父母が住む鎌倉だった。実直な両親は、晶嗣を連れて挨拶に赴いていたものだ。

 兄夫婦の誘いも、不相応だと分かっていて足を運んだのだろう。

「俺はずっと、お前が羨ましかったんだろうな」

 清之介の名前は、晶嗣につけるはずだったと父が言っていた。

 高祖父が、淸之介という名だった。その名を継がせようと思っていたと。

 だが、曾祖父の反対に遭ったとも漏らしていた。長男の孫、つまり嫡男の血筋に継がせるべきだと主張したのだ。晶嗣の父も、三男の曾祖父から字を取って晶志郎。長男である伯父、清之介の父親には清志郎と名付けた。曾祖父は、嫡子にのみ先祖の名前を継がせたがった。

 その名前が欲しかった、と安直に口に出すのは屈辱で憚られた。

 晶嗣が黙ると、清之介は歩調を緩めながら口を噤んだ。電柱の手前、躓きかけた靴先が小石を蹴り飛ばす。会話の意思はあるのか息継ぎが聞こえた。頬の筋肉が寒さで引き攣りそうになるのを堪える。年下の従弟は、晶嗣の発言を境遇のことだと誤解したらしい。

「晶嗣くんが、勉強に時間を費やしたのと同じです。俺の場合、ピアノに時間を捧げるしかなかっただけで。別に、ピアノを特別視する必要なんかないんですよ。何に時間を割くか、自分の意思で決められるわけじゃない。結局は、時間の投資先の違いに過ぎないんです」

 晶嗣は、ついに虚を衝かれて黙った。二の句が継げないとはこのことだ。

 清之介だけが、積年の劣等感を看破するとは皮肉な話だった。弁護士への就職は、高慢な自尊心と承認欲求による選択だ。父や祖父への敬意など方便に過ぎない。晶嗣自身も、伝統的な家父長制の価値観に迎合した。勉学に励み、祖父と同じ職責を尊べば認められると思った。 

 弁護士になろうが意味はない。結局、芸術家気取りの長子が可愛いのだ。

 その従兄に、自分の心情を見透かされたことが癪に障った。

「だから弁護士になれたんじゃないんですか」

「好きでなったわけじゃない。俺だって、お前みたいに認められたかった」

 子供じみた反駁は、なかば脊髄反射のような勢いで口を衝いた。

 前を歩いていた従弟が足を止める。街灯が、頭上で羽音を立てながら明滅する。

 清之介が振り向くと、前髪が発表会と同じオールバックに見えた。実際には三十路を迎える従弟がいるだけだ。背丈まで追い抜かれたことが憎らしい。黒い上着に、灰色のカシミアのストールを巻き付けた男。両目だけが、水晶の象嵌のまま冷たく透き通っている。

 氷のような目だった。軽蔑はなく、ただ自分の姿が映り込んでいた。

 色眼鏡を外していることに、晶嗣はようやく気がついた。

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