氷面(3)

 晶嗣の知らぬ間に、殊勝な従弟は料理の腕まで磨いていたらしい。 

 結局、夕飯には、家主である祖父の好物ばかりが並んだ。茶碗蒸しと味噌汁、鱈のフライに自家製のタルタルソース。晶嗣も独身時代に簡単な自炊をしていた。清之介の場合、自立の過程で身に着けざるを得なかったのか。昔から、専業主婦の祖母は料理が得意だった。

 清之介も、祖母を手伝うと自分から台所に立つことを選んだ。

 晶嗣はといえば、祖母の頼みでおつかいに出ただけだ。鎌倉駅前のビルにあるスーパーマーケットに食材を書い足しに行った。茶碗蒸し用に、鶏肉とボイルの小海老のパックが欲しいと頼まれたのだ。師走の混雑を避け、鎌倉育ちの祖父の案内で裏道を歩いて向かった。

 先導する祖父の、傘寿を迎えたとは思えない健脚には驚かされた。

 温厚な祖母も、実年齢を考えれば祖父に劣らず若々しい。夫婦揃って共白髪、禿げ切ってはいない頭も若く見える理由だ。弁護士は体力勝負だと体を鍛えていただけのことはある。口髭を蓄えた顔は、老紳士というより紙幣の肖像画のような慇懃さだ。

 いただきます、と合掌しながら唱和して食事を始める。

 食卓に、祖父母と孫がふたり。テーブルの向かいには清之介が座る。

 高齢とはいえ、祖父にも晩酌を楽しむ権利がある。フライを肴に、手酌で継いだ缶ビールを旨そうに呷っている。祖母と従弟は、晩酌の乾杯を断って緑茶を飲んでいた。コップのビールを舐めた晶嗣も、鱈のフライにタルタルソースをつけながら祖父の顔色を窺った。

 祖父の前では、面接試験に臨む受験生じみた気持ちになる。

 別段、晶嗣に厳しい人間だったわけではない。晶嗣の父と違い、勉学だけを熱烈に尊崇することもなかった。思慮分別がある人間だったのだと思う。晶嗣も、寛容な祖父を嫌うことはできなかった。自尊心のせいか、優等生として祖父に認められたい願望だけが強かった。

「やっぱり、おばあちゃんの料理は絶品だな」

「揚げ物にはな、母さんのタルタルソースがよく合うんだ」

 箸でフライを割ると、揚げ物らしい匂いの湯気がもうもうと立ち昇る。鱈の断面に具材の多いタルタルソースを塗りつけて齧りつく。粗めに刻んだ玉葱と茹で卵に混じった、漬物のような食感。料理には疎いが、ピクルスを柴漬けなどで代用すると聞き覚えがあった。

 馴染みのない味に、持参した関西土産のひとつだと従弟が説明した。

 関西では「すぐき」と呼ばれる京都の漬物。名前通り、「酢茎菜」と書く菜物を漬けたもののようだ。特有の酸味はあるが千枚漬けほどではない。酢の物が苦手な祖母でも食べられる味らしい。老舗の物を買ってきた、と神戸生まれの祖母を気遣うような口ぶりだ。

 祖母の漬物の趣味など、晶嗣には知る由もないことだった。

 大阪に転居した、という従弟の発言を思い出しながら調子を合わせる。

 買い物の道中、祖父は清之介の帰省についても触れた。晶嗣の記憶では、最後に従弟と会ったのは祖父の古希の祝いの席だ。確か専門学校を卒業する直前だったか。記憶が不鮮明なのもしかたない。確執を避けるため、従弟の動向に興味を持たないよう努めてきたのだ。

 祖父の話では、大阪に拠点を移して仕事を続けていくらしい。

 古着物のリメイク作家。ピアノから洋裁と、大胆な転身には違いない。

 全日制の専門学校ならまとまった学費が必要だったはずだ。家出後、清之介は鎌倉市内の公立校の生徒になった。週末には洋裁教室にも通っていたと聞く。学費に加え、鎌倉での生活費全般を祖父母が負担したとしたら。死んだ曾祖父も、不憫な従弟をよく可愛がっていた。

 当時の晶嗣からすれば、待遇の格差を感じずにはいられなかった。

 現在でも、胸の奥底には思うところがあるのだろう。歳月を経ると、幼稚な敵愾心など湧いてこなくなるものなのか。四人で囲む食卓は、慎ましい談笑を伴う幸福な家庭の模範だ。手料理を食べ進めながら、苦手だったはずの従弟と言葉を交わすことさえできている。

 晶嗣は、アルコールにまかせて「何で大阪に越したんだ」と言った。

「ああ、大事な人が出来て。近くで暮らしたくなったんです」

「じゃあ、大阪の子なんやろか。もちろん、関西の子とは限らないけれど」

 祖母の言葉に、奈良出身なんだと従弟がフライを割りながら答える。色眼鏡を掛けた顔を凝視するが、色恋沙汰が理由だとは予想もしなかった。生真面目にも、茶碗とフライの皿との間で箸を交互に往復させている。時折、茶碗蒸しを思い出したように掬うのを眺めた。

 気泡の潰れたビールを啜ってから、ふたりの会話に口を挟んだ。

「俺もさ、去年入籍したんだよ。結婚式は、来年挙げるつもりなんだ」

 酒のせいか、気が緩んでいたことも否めない。ただ、祖母の喜色を勘ぐる自分を醒めた意識で察する。「孫の恋人」が関西出身だからとは思えなかった。以前、晶嗣が入籍を伝えたよりも喜んでいるように見えたのだ。晶嗣の舌に、ビールの苦味だけが溜飲のように残り続けた。

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