氷面(2)

 晶嗣が、清之介を嫌い始めたのにはわけがある。

 理由のない毛嫌いではなかった。明確に、疎ましいと思う契機を得ただけだ。

 子供の頃の、どんな季節の出来事だったかは憶えていない。ただ、晶嗣は清之介のピアノの発表会を観に行き、都内の立派な音楽ホールのホワイエで挫折を味わった。何故、挫折だと思ったのか言葉にすることが難しい。ただ「挫かれた」という被害妄想じみた意識だけが湧いた。

 晶嗣の前で、清之介は湯水のように賞賛を浴びていた。

 祝花の前に立ち、タキシードを着た従弟が両腕に花束を抱えるのを眺めた。

 だが、当の従弟は、大人に囲まれながら冷めた顔をしていた。実際には、現在の晶嗣と同じく愛想笑いを浮かべていたのだろう。今なら、取り繕うための笑顔だったと断言できる。子供にしては処世に長けた節があった。その冷静さを、当時の晶嗣は目聡く察知したに違いない。

 晶嗣は、従弟の両目に恐怖を覚えた。冷然とした、氷の象嵌に見えたほどだ。

 来てくれてありがとう、と言う清之介がわけもなく怖かった。とにかく、手元にある花束を押し付けて立ち去りたかった。恐らく、「演奏よかったよ」と稚拙な世辞のひとつくらいは言い添えた。だが、演奏の巧拙など、音楽と無縁の晶嗣には判じようがない事柄だった。

 清之介が、何の曲を弾いていたのかすら思い出せない。

 最初から覚える気もなかった。晶嗣は、音楽とは無縁に育ったからだ。

 晶嗣の父は、芸術というものを目の敵にしていた。晶嗣の伯父、つまり清之介の父親は家族の反対を押し切って絵画の道に進んだ。著名な芸術大学を出て、公募展だかコンペティションだかで佳作を獲った。現在は、耽美な画風で知られる日本画家として名を馳せている。

 父は、伯父を見下していたのだ。両親の期待を裏切った不孝者だと。

 嫡男の、長兄が家を捨てたも同然だったからだ。晶嗣の祖父、自分の父親を誇りに思えばなおさらだ。故に、実兄である伯父を蛇蝎のごとく倦厭した。弁護士の職も、嫡男の兄に対する反抗と軽侮の証明だろう。兄弟間の確執は、長兄が画家として大成したことで亀裂となった。

 晶嗣に、父は勉学の尊さを説いた。反面、芸術からは遠ざけて育てた。

 あの場で、晶嗣には音楽の良さというものが理解できなかった。曲名どころか、作曲家の名前すらも知らなかったのだ。従弟の手前、演奏がいいと褒めるしかなかった。音楽家など、音楽室の壁際に並んだ肖像画と同意義だ。そこにどんな知識も紐付けられてはいなかった。

 場違いな人間だと、子供心に大人じみた羞恥を覚えたのかもしれない。

 柔らかい絨毯の感触が覚束なかった。靴裏に触れる毛足すら神経を逆撫でた。

 あの時、晶嗣はフォーマルな子供服を着せられていた。所謂、小学校の卒業式用のセレモニースタイルの衣装だ。両親が、見栄を張って奮発して買ったのだと思う。割と値の張る国内ブランドで揃えたネクタイと上下の服。新品の革靴は、無難な黒のローファーだっただろうか。

 ホワイエには、ワンピースやドレスでめかし込んだ女の子も多かった。

 舞踏会のような、現実感のない空間に放り込まれた心地だった。

 晶嗣には、本当に必要な時間なのかさえわからなかった。終演後のホワイエは、出演者の祖父母らしい老人から子供まで、花束を贈る者や語らう者ばかりだった。突っ立ったまま会話を拾えば聞こえてくる作曲家の名前。あるいは、曲名を指していたのか判別もつかない。

 無教養は罪などではない、という論駁は単なる開き直りだ。

 平凡な家庭で育った、晶嗣という人間の芸術に対する劣等感と自己弁護。

 晶嗣の持論では、教養とはある種の無駄として定義される。人間が生きるにあたり、決して必要不可欠のものではない。最たる例が芸術で、音楽や絵画などは知識をともなってこそ鑑賞と呼ぶに値するのだ。だがしかし、知識の貯蔵には時間や金銭の投資が必要なのだった。

 結局、享楽や道楽、高尚な衒学趣味であることを否めない。

 この詭弁さえ、晶嗣が父親から継承したコンプレックスなのだろうか。

 無教養に対する劣等感と、勉強で優秀な成績を修める優等生としての自尊心。晶嗣はすでにアンバランスな矛盾を抱えていた。ショパンも、モーツァルトも、晶嗣にはまるで縁のないものだった。勉強ができるだけの自分が、恥ずかしい人間のように思えていたたまれなかった。

 価値の乏しい人間。豊かさのないつまらない子供だと。

 鼻面をへし折られるような。あるいは、心の支柱を挫かれるような。

 目が合った時、清之介は晶嗣の心情を見透かしていた。晶嗣よりも年下のはずの従弟の両目に酷薄な軽蔑の色が透けて見えた。まるで氷のような目だった。氷彫刻の、研磨されて透明になった水晶の象嵌だ。氷面に映る、自分の自尊心とコンプレックスに怯えたのも無理はない。

 いや、それだけではない。その冷酷さを悟らせないからこそ疎ましかった。

 周囲の皆が、清之介に騙されているように思えたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る