本編

氷見晶嗣【従兄】

氷面(1)

 従兄‐ひみあきつぐ【氷見晶嗣】


 鎌倉に帰省すると、何年も顔を見ていなかった従弟がいた。

 珠暖簾を掻き分ければ、褐色の色眼鏡をかけたまとめ髪の男が目に入った。

 六年前、独断で金沢に移住したきり連絡も寄越さなかったやつだ。晶嗣にとって、従弟は父の兄の息子にあたる。父方の、年子の従弟とは幼少期から仲が悪かった。金沢移住の話も、後から両親に聞かされ内心で喜んだものだ。顔を見ずに済む、とすがすがしささえ覚えた。

 人生において、無縁の相手になったものと思い込んでいたのだ。

 晶嗣は、昨年に入籍を済ませた。結婚式の日取りもすでに決まっている。

 この時期に、従弟と出くわすとは思わなかった。だが、晶嗣は弁護士であり、並大抵のことで動じてはならないという自負もあった。それが、職業上の矜持ではなく、気に食わない従弟に対する虚栄心に依拠した自負だとも察していた。ともかく、動揺を悟られることだけは避けたかったのだ。晶嗣の逡巡を、居間でテーブルに着く従弟は即座に見抜いたようだった。

「連絡もしないですみません。もうお暇するところですから」

「いや、会えて嬉しいよ。連絡がなかったからさ、心配してたんだ」

 気づけば、平凡な世辞が滑り出ていた。自分でも驚くほど滑らかに舌が回る。

 晶嗣は、掛時計に目を遣りながら椅子を引いた。今は午後三時過ぎ、手土産で茶をしてから引き揚げる予定だった。軽い会釈の後、向かいの席に腰掛けて従弟の出方を窺う。従弟は、実の父親によく似た面長の塩顔だった。垂れ目だけ、すでに離婚した母親譲りなのだろう。

 自慢の黒髪を、整髪剤で撫でつけてにまとめているらしい。

 祖父の家は、亡くなった曾祖父から相続した日本家屋だ。和洋折衷の造りだが、数年前に大規模なリノベーションをして床暖房などの最新設備を完備した。その際、応接用の客間を居間として使うことにしたのだ。客間の名残りで、今時は見かけることのない竿縁天井が残る。

 カリモクの箪笥、青いガラスを嵌めた欄間は工事前と変わらない。

「今日は偶然でしたね。僕もこっちで用事があったんです」

「金沢から出てきたんだ。都内で個展でも開く予定があった?」

「いや、今は大阪で暮らしてて。ちょっと、顔でも見ようかなと鎌倉まで」 

 そうなんだ、と隙のない整った笑みを浮かべたまま頷く。

 従弟の姿は部屋に馴染んで見えた。何年も前、この家で暮らしていたからか。

 世辞も滑舌も、愛想のよさも父を手本にしたようなものだ。晶嗣の父は、自らの祖父と同じく弁護士という職業を選んだ。晶嗣自身もふたりを人生の模範とした。従弟はといえば、鎌倉で洋裁教室に通い、都内にある全日制の服飾専門学校へと進学した。卒業後、先輩のツテを頼り金沢市に移り住んだのだ。今では、古着物のリメイク作家を名乗っているらしい。

 着物家の曾祖父は、この従弟を買っていたのだと思い出す。

 じゃらじゃら、と鴨居に吊られた珠暖簾が耳障りな音を立てた。

 盆を携えた祖母が、白髪をまとめた団子頭を下げるようにして食器を置く。昔からこの家にある、ノリタケのティーカップとソーサー。白磁の食器は、金縁と淡い青緑がお気に入りだと祖母が愛用する品だ。茶請けには、晶嗣が持参したモロゾフのプリンも添えられていた。

 隣の豆皿に、白地の銀紙で包まれたチョコレートがふたつずつ。

「やっぱりモロゾフですよね。僕はこっちを選んだんですけど」

「ああ、ばあちゃん好きだもんな。これ、ホワイトチョコのやつだろ?」

 晶嗣は、二色に輝く銀紙の両端をねじったチョコを見た。モロゾフには、冬季限定で販売される林檎のチョコレートがある。二種類のうち、蜜漬けの林檎をホワイトチョコで固めたものが祖母の好物だった。従弟の手元には、すでに銀紙の残骸が乗った小皿が置いてある。

 店頭でも、買うかどうか迷ったのだ。結局、生菓子のプリンを選んだ。

「なんや、嬉しいもんやねえ。ふたりが揃うなんて久しぶりで」

 その言葉に、鱧の骨が喉に刺さったような痛みを覚えた。

 晶嗣に対する非難に聞こえたのだ。晶嗣が、無辜の従弟を敬遠していると。

 従弟は、十三歳の時に家出をして祖父の養子となった。もっとも、二十歳で普通養子縁組を解消したと聞いている。家出の原因は、両親の不和と母親による教育虐待だ。音楽家の母親が、幼少の頃から英才教育を施していた。仕事柄、虐待紛いのしつけなどよく聞く話だった。

 祖父母も、そして曾祖父も、この「不憫な孫」に目を掛けて育てあげた。

 気の毒だとは思う。だが、当時の晶嗣には関係のないことだった。

「晩御飯も食べていって。きっと清嗣郎せいじろうさんも喜ぶわ」

 祖母はいまだに、清嗣郎と祖父のことを名前で呼んでいる。

 肝心の祖父は、電話に出るため席を離れたと祖母が言う。柔和な笑顔で、暇を申し出た従弟を引き留めながら晶嗣に目を向けた。孫を窘めるような眼差しに身じろぐ。晶嗣を牽制しているのだと馬鹿でも解る。仕方なく、「清之介」と呼ばれた従弟に笑いかけてみせた。

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