そらをつくるもの

英 李生

そらをつくるもの


 平原のむこうへとかけてゆく光の子らのすがたが見えると、マフヴァンドの一日が終わる。朝をつくる子どもたちは、空に送り出した太陽の光をみちびいて、深いあい色の空に色とりどりのカーテンを引く。仕事を終えたマフヴァンドは、一晩じゅうとどまっていた岩場から腰をあげて、首からさげた笛をふき、夜の空に送り出した月を呼びもどす。月がおりてくると、マフヴァンドはかれをたっぷりの水で満たしたランタンに入れて、空からいちばん近いところにある湖まで運び、扉口をすこしずつひらきながら、そうっと水のなかにしずめてやる。そうして夜が終わる。

 ねむりについた鉱石たちを起こしてしまわないよう足音をしのばせながら山をくだるとき、マフヴァンドはいつも、朝をつくる役目をおおせつかった光の子らをうらやましく思った。マフヴァンドがつくる夜というのは静けさを好むたちであるから、かれはもう何年ものあいだ、ひとりぼっちの毎日を送るほかなかったのである。

「ぼく、夜も朝とおんなじようにおしゃべりや色を好きならどんなにかよかっただろうって、いつも考えるんだ」

 ある日、湖までの道のりを歩きながら、マフヴァンドはぽつぽつと語った。その朝はうんとにぎやかで、クロッカスの花が見ごろであるとか、北のほうで子鹿が生まれたらしいとか、そんなすてきな話がいくつも耳に届いたものだから、自分だけがそのひとつだって見られやしないのだと思うと、急なさびしさにおそわれたのだった。

 足もとの鉱石たちはすっかり寝入っていたので、ひとりぼっちのマフヴァンドに答えたのは、ランタンのなかでうとうとしていた月であった。ひとつあくびをして、かれはたずねた。

「朝がうらやましいかい、ぼうや」

「ええ、とっても。ときどきさびしくなるんだ。ぼくもみんなみたく、友だちといっしょに、つぼみのひらいたクロッカスの花や、生まれたばかりの子鹿がどんなか見に行けたらなあと考えるときなんかにね」

 太陽が織りなす光の幕に目を細め、ため息をつく。そんなマフヴァンドのようすに、月は首をかしげた。

「私を空にとどめたまま夜を終える術があるだろう。それを使えば、おまえも私も、夜が終わったってねむらずにいられるというのに。先代に教わらなかったのかい」

「いいえ。そんなことができるの?」

「できるとも」

「せんせいがそれを試したことはあった?」

 月は首を横にふってみせた。

「あの子は夜をつくる役目にのみ生きた光の子であったからね」

「せんせいはそれで幸せだったのかな」

 マフヴァンドは師を気の毒に思った。世のなかのすばらしいものごとはどれも、夜をつくる光の子にはできないことばかりなのである。色づいた花びらがふっくらとひらくようすをながめることも、小鳥たちのさえずりに耳をかたむけることも。それから、友人と呼べる相手と大声をあげて笑うことだって……。それらを一度も味わうことなく代がわりのときをむかえてしまっただなんて、そんな悲しいことがあるだろうか。

「幸せのかたちはそれぞれだからね」

 と月がやさしく言った。

「ぼくは夜を終えたそのむこうを見てみたいよ」マフヴァンドはそう言って、それから「せんせいにはそうでなかったとしても、きっとぼくにはそれこそが幸せだと思うんだ」とつけ加えた。


 マフヴァンド以外はほとんど使わないらしい館の書庫は、やはり多くの本にほこりが積もっており、水晶でつくられたかべは欠けたりくずれ落ちていたりで、ざらざらした面がむき出しになっている。かれが道をとおると、かれのはだやかみの毛からあふれ出る光のつぶがそうした断片にはねかえって、しんと暗い書庫は月光がさしたようにほの明るく照らされた。かれはその光をたよりに、せまくなった通路をかいくぐるようにして進みながら、まだ読んだことのない本をひっぱり出しては目をとおし、そして棚にもどすというのを、夜のあいだ何度もくりかえしている。

 月を空にとどめたまま、夜を終える術。いつかだれかが書きとめたのを覚えていると月が言うので、マフヴァンドはここしばらく、月を空へ送り出し、そして呼びもどすときのほかは、書庫にこもりきりでそれを探していた。文字でしたためられているのか、それとも絵にえがかれているのかは分からない。おまけにどんな表紙であるのかも知らないと言うものだから、かれは何日もかけて、書庫のはしから一冊ずつ本を取り出しては一ページずつていねいにめくって、書かれていることを念入りに確認しなければならなかった。

 からだからあふれる光はあたりを照らすにはじゅうぶんであるが、文字を読むにはやわらかすぎる。ゆびさきに光を集められたらよかったのだけれど、マフヴァンドにはそれがむずかしく、いく度も失敗してはチリッと皮ふを焼いた。すると、ページをめくるたびにヒリヒリとそこが痛んで、かれはたびたび身をすくめた。しかし、かれは夢中で本を探しつづけた。朝をつくる光の子たちのように、夜のむこうにあるものを見てみたい……。頭のなかは、そんな思いでいっぱいだったのだ。

「あいたっ」

 一冊の本を棚から取り出そうとしたとき、またもやゆびさきにピリッとした痛みが走った。思わずもう片方の手でゆびさきをかばうと、マフヴァンドの手をはなれた本は、ささえを失いゆかへ落ちていった。ばさりと音をたててひらいた本を拾おうとかれが身をかがめたとき、ぼんやりとした光に照らされて、太陽と月がとなりあった絵がえがかれたページが目にとまった。

「〝 光の子は、月を空へうかべたまま、朝の空がつくられてゆくのにあわせて……」マフヴァンドは、本を持ちあげて絵の下に書かれた文字を読みあげると、 「 ……月光を、弱めていくこと 〟」さいごの言葉にがっくりと肩を落とした。

「ぼくにはできっこないよ」

 ヒリヒリと痛むゆびさきに目を落とし、マフヴァンドはつぶやく。

 夜空を照らす月を、夜のはじまりに空へ送り出し、終わりとともに呼びもどす。夜をつくる光の子として師からさまざまのことを教わったマフヴァンドであるが、体得することができたのは、ついぞこれだけであったのだ。月の光加減をあやつり夜空のさまざまな表情を引き出すことや、夜のあいだ月を美しくかがやかせたままそのそばを遠くはなれることなどは、かれにはとてもむずかしかったのである。

 本をとじ、顔をあげると、自分のからだから発されるのとはべつの光が、マフヴァンドの瞳孔をスッと射った。朝の訪れである。丸く大きな天窓から、あわいピンクやあざやかなオレンジの光におおわれゆく空のなかに、いまだこうこうと明るい月があるのが見えた。今日の夜を終わらせるため、かれは岩場へと急いだ。

 かべとおなじ水晶でつくられた階段をかけあがると、足もとで光がはじけて、キーン、キーンと氷をくだくようにかん高い音をあたりにひびかせた。この階段をまっすぐにあがってゆくと、外廊下につながる大きな扉が見えてくる。そこにたどり着くと、両うでいっぱいに力をこめて扉をひらき(小さなマフヴァンドには、これが一苦労だった)、白い柱がいくつも立ちならぶ外廊下を走りぬけた。館の裏手にある門までやって来ると、岩場はもう目と鼻のさきである。マフヴァンドの師やその師よりもずっとむかしに生きた光の子がつくったのだと言われる石づくりの階段をのぼって、岩場のいちばん高いところに立つと、かれはピューイと笛をふいて月を呼んだ。

「今日はまたずいぶんと熱心に探していたようだね」

 いつもよりずっと明らんだ空を背に肩で息をするマフヴァンドを見て、月はからかうような声音で言った。

「ええ、そうなの」

「お目あての本は見つかったかい」

「見つけたよ。でも、ぼくには内容がむずかしすぎたんだ」

「そう。それは残念だったね」

 それから、マフヴァンドと月はたくさんのことを語りあったので、湖までの道のりは、いつもよりずっと短く感じられた。時おり鉱石たちが「静かになさい」と眉をひそめることもあったほど、多くのことを語りあったのだった。

「ねえ、お月さま。けっきょくのところ得られるものはなかったけれど、長いこと本を探したので、神さまがぼくのところに、ひとついいことをよこしてくれたみたい。ほらそこを見て……」

 マフヴァンドはほおを紅潮させ、湖をゆびさした。

「おや。魚たちが目ざめているね」

「ぼく、魚が起きているところをはじめて見たよ。うろこってのがきらきらと光って、とってもきれいなんだね」

「〝夜を終えたそのむこう〟がひとつ見られたね」

 月の言葉に、マフヴァンドは力強くうなずいた。


 館へもどったマフヴァンドは、みんなが出はらってしんと静まりかえった大広間を見ると、さびしさで胸がいっぱいになるのを感じた。

 岩場を館の反対へ進み、平原におりることができたなら、自分もみんなと顔をあわせることができるのだ。そうすれば、いっしょに平原をかけまわり、月とするようにおしゃべりをして、クロッカスの花まで案内してもらい、そのお礼に、かれらはきっと目にしたことがない、月のすみかにも連れて行ってあげることだってできるのに……。かれはそんな考えを頭から追い出そうと、ベッドにかけこむとかたく目をつむった。けれども、魚たちがうろこをきらめかせながら泳ぐすがたや、書庫で見つけた本の内容がまなうらにうかんで、朝へのあこがれは消えるどころか大きくなりゆくばかりであった。

 そうして横になるうちに、マフヴァンドはふと、自分がねむれないことに気がついた。いつもなら、仕事を終えて館へもどるとすぐにねむりにつくのだけれども、今日は気持ちがたかぶってか、すっかり目がさえているのだ。

 マフヴァンドはからだを起こし、おもむろにカーテンをひらいた。ガラスごしに見える空は、かれがこれまでに目にしたことのない色をしている。かれは思わず窓をあけて身を乗り出し、空いっぱいにひろがるその色を夢中でながめた。うつくしい色だと思った。夜のあい色よりもずっと澄みわたり、あたたかなオレンジやピンクとはちがって、目のおくまでつきぬけるような強さがある。すばらしいのはそれだけではない。白い雲が風にそよいで、太陽のひかりはじわじわとはだを焼くように照りつけていて……。

「これが、夜を終えたそのむこうにあるもの……」マフヴァンドはうっとりとため息をもらした。あふれんばかりの感嘆のきもちを、小さな胸のなかにおさえてはいられなかったのである。「ぼくはいま、それを見ているんだ!」

 かれは思った。こうしてねむりに落ちることなくいられることもあるのなら、そのときはとくべつなことをしなくたって、朝の世界を見てまわることができるはずだと。それでかれはすぐに身じたくを整えると、ひろく明るい朝の空のもとへと飛び出していったのだった。


 ぐんぐんと流れてゆく雲を追いかけて進むと、マフヴァンドはやがて平原にたどり着いた。手のとどかないところからながめることしかできなかった地を生まれてはじめてふみしめて、かれは心がよろこびで満たされるのを感じた。あざやかな緑色の大地を歩くと、短い草がザクザクと鳴るのがおもしろく、空をながめたのとおなじように、夢中になってそこらじゅうを歩きまわった。しかし、ふしぎなことに、ここにはかれのほかに光の子のすがたは見られなかった。

「みんなはどこへ行ってしまったのかな」

 空がこんなに明るいのだから、朝をつくるためにすべきことをすっかり終えて、みんなどこかでひと休みしているにちがいない。マフヴァンドはそう考えて、さらにむこうをめざしてみることに決めた。そうしてずっと進んでいくと、地面と地面のあいだに、水で引かれた境界線があらわれた。かれはそこで足をとめた。

「これは何だろう」

 水は線のとおりに動いていて、ずっとさきまで大地を区切っている。ここにある水は、湖にあるものとおなじように、空の色をそっくりそのまま映している。しかし、おなじであるのはそれだけで、おどろくべきことに、手ですくってみると水晶のようにとうめいになるし、何より、ひとつところにとどまることができないらしかった。

 引きかえすべきか否かとマフヴァンドが頭をなやませていると、そこに一ぴきの魚が泳いできた。湖で見た魚とはすがたがちがっていたが、ひらひらとすきとおった、やわい布をいくつも重ねあわせたようなところが、ひれがするのとおなじ動きをしており、からだにはきらきら光るうろこを持っていたので、すぐに魚とわかったのである。

「あのう、すみません。これはいったい何というの?」

「川だよ。川を知らない子がいるんだねえ」

 魚は泳ぎをやめてそう答えた。長い長い年月を生きたものだけが出すことのできる、とても深い声をしていた。

「ぼく、ここに来るのははじめてなの」

「そうかい。おまえさんがいつもいるところには、川がないんだね」

「ええ。だけどそのかわり、大きな湖はあるんですよ」

「ミズウミとは何だね」

「おばあさん、湖を知らないの」

 マフヴァンドは目を丸くした。

「あたし、ここをはなれたことがなくてさ。ミズウミだって言ったかい。すてきなひびきをしているじゃないか。どんなものか、ぜひ聞かせておくれ」

「ええ、いいですよ」

 マフヴァンドは、朝を生きるものでも知らないことがあるのだとわかり、得意げに湖の話をして聞かせた。水がそこにとどまり、いつもくぼみを満たしているものを言うのだと。そして、湖というものは空からいちばん近いところにあって、おまけにくぼみを満たす水は夜の空とおなじ色をしているので、月がねむるにはいちばんの場所であるのだとも。魚はかれの話に満足して、「そんなにすてきな場所なら、いつかを運ばなくてはいけないね」と笑った。

「それと、もうひとつ聞きたいことがあるのだけれど」

「かまわないよ」

「この川のこちらとむこうとでは、何かがちがうの?」

「何もちがわないさ。おなじ世界がひろがっているだけだよ」

「それを聞いて安心しました。ぼく、むこうへ行ってみます」

「ああ。気をつけるんだよ」

「おばあさんも。いつか湖が見られるといいね」


 川をこえてひたすらに歩いてゆくと、ずっとさきに丘があって、そこでマフヴァンドは、背の低い花がたくさん咲いているのを見つけた。夜の終わりごろに見かけるようなむらさき色もあれば、夜空にきらめく星とおなじ白色や、夜が訪れるすこしまえに見える光を思わせる黄色をしたものまである。どれもふっくらとした花びらがひかえめにひらいており、冬に着るいっとう気に入りのケープのようにゆるやかにひろがる曲線をえがいているところが、かれの目を引いた。

「あなた、見ない顔ね。どこからいらしたの?」

「あの、ぼく、夜から……」

 あまりに急に、しかもすばらしくうつくしい声音で話しかけられたものだから、マフヴァンドはどぎまぎして、言葉がことごとくのどのあたりでつっかえるのを感じた。けれども、声の主は何でもないように話をつづけたので、かれもすぐに平静を取りもどしたのだった。

「まあ! わたくし、夜をつくるかたにお会いするのってはじめてよ。お名前を教えてくださる?」

「マフヴァンド。きみたちは何というの?」

「クロッカスよ」

「それじゃ、見ごろだとうわさされていたのは、きみたちだったんだね」

「ええ、ええ。そうよ」クロッカスは、胸をはってマフヴァンドの言葉をみとめた。平原で見た川のように、すきとおって流れてゆくような声であった。「いまがいちばんうつくしいころなの。わたくしたちをひと目見ようと、あなたのほかにもたくさんの光の子がここを訪れたのよ」

 クロッカスはとても誇り高く、自身に満ちたようすである。どの花もしゃんと背すじをのばしており、小さいながらも堂々としたそのすがたに、マフヴァンドは心ひかれるのであった。

「きみたちあんまりうつくしいから、ぼく、おどろいてしまったよ。ほんとうに……」

「まあ! うれしいわ」クロッカスは花びらをひらひらさせて言った。「あそこに山が見えるでしょう。そこをのぼっていくと、この丘よりもずっと多くのなかまたちがいるのよ。みんなやはりうつくしいの。よければ見ていらして」

「ぜひ行きたいなあ。でもぼく、ひとを探しているの。きみ、ほかの光の子がここに訪れたと言ったよね。その子たちがどこに行ったか知ってる?」

「ええ。すこしまえに去った子たちなら。お友だちなの。ここからずっと東のほうにいるはずよ。凧あげをすると言っていたから、砂の海だと思うわ。あそこはよい風がふくと聞いたから」

「ありがとう、うつくしいかた」

「どういたしまして。あなたもまた、わたくしたちのところへ足を運んでくださる?」

 クロッカスの言葉にうなずいて、マフヴァンドは東へむかって歩きはじめた。しばらくすると、丘のはしにたどり着いた。そこにはなんと、子どもを連れた鹿がいて、クロッカスのそばで丸くなってうたたねをしたり、じゃれあったりしているようすだった。子鹿は親鹿よりも背中のもようがはっきりとしており、からだはずっと小さい。しかし、大きな耳や、つぶらな瞳はそっくりで……。

「なんて愛らしい生きものなんだろう!」

 とマフヴァンドが感激していると、

「たすけて、たすけて」

 と小さなさけび声がかれの耳に届いた。声がするほうに近づくと、子鹿がはむはむとクロッカスの花びらを食んでいるようすが目に飛びこんできた。

「きみたち、ここから逃げなくちゃ!」

 マフヴァンドはほとんど悲鳴に近い声をあげた。

「だめだよ。おれたちはここに深く根をおろしている。きみや鹿のような足を持つかわりにね。だからここをはなれられないんだ」マフヴァンドの呼びかけに、一輪がこう答えた。「少年、はやくここを去ってくれ。うつくしくないすがたは、だれにも見られたくないからね。どうかたのむよ……」

「それなら、この下にかくれていて。きみたちにきっとまた会うと、うつくしいかたと約束したんだもの……」

 マフヴァンドはえりまきを外すと、クロッカスがかくれるようにやさしくつつんでやった。クロッカスたちは丘いっぱいに咲きほこっていたので、すべてを守ることはとてもできないと、幼いかれにもすぐにわかった。丘を去ったあとも、小さな小さな声でありがとうと言ったクロッカスのことを思い出しては、かれはぽろぽろとなみだを流しつづけた。


 東へ東へと歩を進め、なみだもすっかりかわいたころ、マフヴァンドは砂の海にたどり着いた。白い砂は、風になびいたカーテンのように、ザザアっと勢いよくこちらにおし寄せては、もとの場所へ静かにもどっていった。波の動きにきまりはないらしく、かれのくつをさらおうとするいたずらものもあれば、歩きやすい道をつくってくれるやさしいものもあって、草花も水もないようなところではあったが、けっしてかれを飽きさせはしなかった。

 ここでは歩くと砂のつぶがくつのなかに入って、足のうらがざりざりとした。かれは平原の草をふみしめるのよりもこちらのほうをとくべつ気に入って、くつをぬぐと、ゆびのあいだをとおりすぎてゆく砂の足ざわりを楽しんだ。

 凧は見あたらなかったけれど、海には自分とおなじく光をまとう子どもがふたりいて、それがきっと、うつくしいクロッカスの友人であるのだろうと思った。マフヴァンドがかれらのところへ歩いてゆくと、気配に気づいたひとりが、

「やあ、こんにちは」

 と顔をあげた。

「こんにちは。何をしているの?」

「凧が砂蟲に食われちまったんで、直しているところさ。あんたも気をつけるんだよ。あいつら布がいちばん好きなんだ」

 少年のほうが視線をむけたさきを見てみると、毛糸ほどのひょろひょろと細長いからだにはねを八つも持ったおぞましい生きものが、砂のなかへうぞうぞと身をひねりながらもぐりこんだり、波が寄せるのにあわせて飛びあがり、はねをばらばらに動かしたりしているのが見えた。

「ここにも生きものがいるんだね」

「あたりまえさ。生きものってのはどこにだっている。そんなことをふしぎがるなんて、あんたもしかして新入りかい」

「いいえ。でも、朝ははじめてなんだ」

「朝だって?」

 そこで、少年のとなりでもくもくと凧を直していた少女がはじめて口をひらいた。おどろきに見ひらかれたうす黄の両目とぶっきらぼうなもの言いがまっすぐにぶつかってきたので、マフヴァンドはたじろいだ。

「ええ。ぼくがつくるのは夜だから」

「おどろいた。おまえ、昼を知らないんだな」

「昼って?」

「朝のつぎにあって、空が青くかがやく時間のことだ。ちょうどいまがそうだな。夜をつくるんなら、こんな空を見ることはなかっただろう」

と少女。マフヴァンドはそのとおりだとうなずいた。

「それじゃ、きみたちは昼をつくる役目をまかされているんだね」

「いいや。わたしたちは、そのつぎの夕ってのをつくるんだ。どうだ、仕事するところを見ていくか?」

 朝と夜のほかにふたつも時間があるだなんて、マフヴァンドは知らなかった。それが昼と夕という名前を持つということも、夜のあい色よりもずっと澄みわたり、目のおくまでつきぬけるようなこの空の色を、青と呼ぶのだということも……。それだのに、まだ自分の知らないことがある。そう思うといてもたってもいられなかった。

 ふたりのあとを追って、さらに東へ進むと、かれらは砂が集まって高くなったところで足をとめた。そこにはおし寄せる波も届かず、熱をはらんだ風だけが心地よくはだをなでるのであった。

「砂蟲が集まってる」

 あたりをぐるりと見わたしたマフヴァンドは、砂が低くくぼんだ場所にたくさんの砂蟲が集まっているのに気がついた。

「そこいらがあいつらの住みかなのさ。砂がぐっと深くなるから、近づくんじゃないよ。まえにこいつがあそこの波にさらわれて、うんと遠くまで流されたことがある」

「ここはずいぶんと暑いから、たいへんだったでしょう」

 ひたいのあせをぬぐって、マフヴァンドは言った。

「そりゃあもう。ここは太陽にいちばん近いからね。ごらん……」

 少年が頭上をゆびさす。マフヴァンドが見あげると、そこにはすべてを焼きつくさんばかりにかがやきを放つ太陽のすがたがあった。かれは目ざめたばかりの太陽しか見たことがなかったので、なじみのないそのすがたに、口をあんぐりとさせずにはおれなかった。

「いまからこれで、あいつをずっとむこうに動かしてやるんだ」

 と言って少女が取り出したのは凧であった。まとめていた糸をほどき、風下に立つ少年に凧を手わたすと、風のぐあいを読んで、ここだというところで風上にむかって走りはじめた。マフヴァンドには風のぐあいがちっともわからなかったので、きっとかれらにしかできないことなのだろうと思った。風をうけてぴんと糸がはると、少年がすばやく手をはなした。凧はそのまま空高くのぼってゆき、少女はそのようすを注意深く見ながら、どんどん糸をのばしていく。すると、そばにあらわれた凧に気づいた太陽は、かけくらべをするみたいに、追いついたり追いこされたりしながら、東へ東へとかけていくのだった。

「色がかわった!」

 そうして太陽が砂の海に半分ほどからだをしずめたころ、少年がゆびさきを動かして合図するとともに、太陽はろうそくに火を灯したようにぽうっと赤く色づき、空はごうごうと燃えるようなあざやかなオレンジ色に染まりはじめた。昼につくられた青色との境にじゅわっとにじんだ黄色の光のうつくしさに胸をうたれたマフヴァンドが、

「すごいや、とってもきれい!」

 と興奮ぎみに手をたたくと、少女は満足げにうなずき、少年ははにかみ笑いをした。

 マフヴァンドは空を熱心に見つめながら、夕空というのは朝のそれによく似ていると思った。だからきっと、朝と夕がべつなものであると、ちっとも気づかなかったのだろう……。

「わたしたちは太陽を呼びもどすまでここにいるが、おまえはどうする?」

 しばらく座って、三人で夕空をながめていると、ふいに少女がたずねた。すこし考えて、マフヴァンドは答えた。

「月を送り出さなくてはいけないから、ぼくは館のほうにもどるよ」

「そうか」少女はすこしも表情をかえなかった。「ここを南に行くといい。道に迷わないように気をつけろ」

「こいつ、きみと別れるのがさびしいんだ。おれもおなじさ」

 と少年はなごり惜しそうに耳うちした。


 マフヴァンドはまたひとり、長い長い道のりを歩くこととなった。これまでにないほどたくさん歩いたので、すっかりつかれて、すこしだけ休けいをしようと砂のうえに腰をおろした。高台をおりて、なだらかな砂の海がひたすらにつづくところであるから、太陽と目線をあわせるにはうってつけの場所だった。かれは太陽とおしゃべりをしてみたかったが、声が届くにはいささか遠すぎたらしく、

「こんにちは、太陽さん」

 との呼びかけは、たちまち海のなかへしずんでしまうのだった。

 空を焼いた夕の光を、白い砂のひとつひとつがたっぷりとすいこんで、そこにいると、頭からつまさきまでまるごと空につつまれるような心地がした。マフヴァンドは砂のうえにあおむけになり、目をつむった。夕空はまぶたのうらがわをもその色に染めた。かれはしばらく息をひそめ、じっと横になっていた。大小の波音とやまない風だけがそこにある。そのほかのものは、夜と何もかわらない。

「さびしいな」

 マフヴァンドはひとつ息をついた。夜のむこうがわには、自分が知らないものがたくさんあって、きっと何かすばらしいもので満ち満ちているのだろうとかれは思っていた。けれども、空からいちばん近いところを知らないものもあれば、うつくしい命をいとも簡単にうばってしまう生きものもいて、あこがれや別れ、そして夜が持つそれとおなじ静けさだって、たしかにそのなかに存在していたのである。

 月に会いたい。マフヴァンドの頭のなかは、つぼみのひらいたクロッカスの花や、生まれたばかりの子鹿などではなく、いますぐに湖にかけてゆき、いつものようにささやき声でもかまわないので、月と言葉をかわしたい思いでいっぱいになった。

 けれども、急いでからだを起こしたのがよくなかったのだろう、うち寄せる波のなかで、つかれきった足はまるでささえにならなかった。ぐらりとかたむいたからだが、砂面にたおれこむ。そうしてはじめは、足首ほどもないところで立ちあがろうともがいていたはずだった。しかし気づけば、ざりざり、ざりざりと、砂のなかを引っかくように足をばたつかせている。砂のなかをしずんではうかんで、マフヴァンドはやがて、自分がどちらに流されているのかも、すっかりわからなくなってしまった。

「きみ、ぶじかい!」

 そのとき、頭上から声がふってきた。マフヴァンドは顔に打ちつける砂のために目も口もひらくことができなかったが、それでも話し声はつづいた。

「ばかっ。ぶじなわけがねえだろ。これはおぼれてるんだ」

「どうしたらいいのかな」

「引っぱりあげてやるんだよ。そいで、浅いところへ出してやればいい。でなきゃまた、おぼれちまうからな」

「おれたちで引っぱりあげてやれる?」

「つべこべ言わずやるんだよ! ほら、せーの」

 合図で首のうしろをつかまれ、えりがのどをしめて苦しかったけれど、砂のなかの息苦しさにくらべれば、いくぶんかましになったように思う。

「ありがとう……」

 何度もはげしくせきこみながら砂をはき出して、落ちついたころ、浅く息をくりかえしながらマフヴァンドは礼を言った。

「いいってことよ!」

「おい、ばかっ。飛んでるってのに放すんじゃねえよ」

 そこでようやく、マフヴァンドは自分のからだが宙にうかんでいることに気がついた。足もとに目をやると、砂の海が川のように流れてゆくのが見えて、かれは思わず目をしばたたいた。それでもじゅうぶんすぎるほどのおどろきがあったのだが、何よりかれをおどろかせたのは、かれを助けたものであった。ひょろりと長いからだを持ち、八つのはねで飛ぶかれらは、見まごうことなく砂蟲であったのだ。

「きみたち、やさしいんだね」

 マフヴァンドは、遠くに見たかれらをおぞましいと感じた自分をはずかしく思った。かれらは、かれらよりもずっと重いはずのマフヴァンドをかかえて、海の外を目ざして飛んでくれたのである。そこが思いのほか、遠くはなれていたにもかかわらず。

「へっ。オレたちがやさしいだって。そのえりをほしがっても、あんたおなじことが言えるかい」

「もちろんだよ。ぼくのいのちの恩人だもの」

 そのとおりに、マフヴァンドは浅瀬でおろしてもらうと上着をぬぎ、えりのはしの糸をかみちぎると、ほつれたところからていねいにほどいて、砂蟲にさし出したのだった。砂蟲たちはたいそうよろこんで、はねをおどらせながら自分たちの住みかへと帰っていった。かれはそのせなかを見て、やはり月をこいしく思うのであった。


 砂の海をぬけると、平原にたどり着いた。そのころには、空はなじみのある深いあい色にもどりはじめていたので、朝はあんなにみずみずしく見えた草の緑色も、すっかり灰色がかってつめたいもののように思われるのであった。つかれきった足はかたかたとふるえて、ときおり背の低い草にさえつまさきをつかえてはマフヴァンドのひざや手のひらに傷をつくった。傷はひりひりじくじくと痛んで悲鳴をあげる。けれども、マフヴァンドはけんめいに走りつづけた。

 空はやがて、暗やみにおおわれたかに思われるほど色を深くした。そこに月がなくとも、空は夜の色をうかべ、星たちがまたたいている。そこに月がなくとも、夜は訪れたのである。

「お月さま」

 湖のほとりに、なかばくずれ落ちるようにして、マフヴァンドはたどり着いた。

 月は弱々しくたずねた。

「楽しかったかい」

マフヴァンドは、はいともいいえとも言わなかった。

「いろいろなひととおしゃべりをして、ぼくにも友だちと呼べるひとがいたというのに気がついたの」マフヴァンドはうずもれるようにして月をだきしめて言った。ぱっと光りかがやくまつ毛にはじかれたなみだが、月のまぶたにそっと口づけを落とした。「それはね、きみなんだよ」

 月はぼんやりとした光をまとわせたまま、マフヴァンドのうでのなかにあって、ちらちらとまたたくこともしなかった。空にはさまざまの星が泣いていて、けっして光を失うことはなかったけれど、それらはとてもさびしい光なのであった。

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