卯月 大阪  「白魚汲」

 朧夜とは、春四月の季語である朧月夜を縮めた略語だ。

 浮舟の見立てによれば、今夜は朧夜に不似合いな雲行きらしい。

 祖母の遺品の、稲畑汀子の季寄せでも目にした単語だ。古風にも春夜の朦朧とした風情を朧であると説く。とはいえ、今朝の気象予報は、雲で朧月は拝めないだろうとの講釈を垂れていた。昼食を済ませ、地下鉄で淀屋橋の街中まで出てきた時も曇天だった。

 危うい雲行きに、わざわざ折り畳みの雨傘を持参した。

 浮舟さん、と控えめな口調で女性の編集部員に呼びかけられる。

 淀屋橋にある、地方出版社の自社ビルのなかの小会議室。地下鉄の淀屋橋駅と本町駅の間、ビルが込み合う路地から離れた界隈に立地する四階建て。大学生の頃、アルバイトとして勤務を始めた出版社だった。当時から、社屋の内装はほとんど変わっていない。薄緑に褪せた壁紙や、亀裂の目立つ長机とパイプ椅子にも見覚えがある。

 とはいえ、机上の書籍は、古巣の出版社の刊行物ではない。

 四月十四日付、先々週に発売された雑誌を机上に認めながら応じる。

「今回はありがとうございました。先月の、モデルのお写真も拝見しましたよ」

「いえ、こちらこそありがとうございます。今回の企画までお声がけくださって。尾﨑さんの著書にも携わらせていただいて、どうお礼を申し上げたらええか。モデルごときが僭越ですが、氷見淸之介さんの作品もご覧くださって嬉しいです」

 女性編集者に礼を言い、浮舟は下座の席を立つために椅子を引く。

 今回の会議は、大手出版社の編集部と、地方出版社の共同企画についてだった。

 尾﨑の著書が出版された折、浮舟も友人として添削に携わった縁での招聘だ。その版元が大手出版社で、地方雑誌も増刷記念に尾﨑と浮舟の対談記事を掲載したのだ。大手出版社も、関西特集の別冊を予定しており、お互いに利益があると見込んで長期の企画を立てていたと聞く。浮舟は、双方に伝手がある都合のいい人材だったのだろう。

 会議の合間、三月に撮影した氷見の新作の写真も褒められた。

 午後の打ち合わせでは、双方の雑誌が連動した企画を敲き合った。もともと、大手側の別冊には、地方出版社の編集部が監修する小冊子の付録の同封。地方雑誌は、大手雑誌で連載を始めたばかりの、尾﨑のエッセイの出張版を掲載すると決まっていたらしい。

 出張版の記事は、浮舟にも紙幅を宛がってくれると言う。

 エッセイや付録の内容、取材先の選定を進めてお開きとなった。

 今晩は先約があるからと、編集部員たちの誘いを断って早々に社屋を出る。

 普段であれば、元同僚の勧誘を無碍にはしない。但し、今回の先約は、浮舟が仕事を請けた知人と交わしたものだった。正確には、MVに出演した縁で、京都の若手バンドのギタリストからライブに誘われたのだ。もっとも、著名なアーティストのサポートとしての出演だった。

 チケットの配分があり、浮舟にもわざわざ声を掛けてくれたらしい。

 大阪公演は全席指定、午後七時から本町駅近くのオリックス劇場で行われる予定だ。直前まで空席もあったようで、関係者席ではなく通常の指定席の券を譲ってくれた。他にも観覧希望者がおり、開演三十分前に劇場付近で合流することになっていた。

 紙のチケットは、合流相手がギタリストから預かっているそうだ。

 午後五時半前、出版社の近所にある居酒屋に立ち寄る。御堂筋から西に入った備後町通に立ち並ぶ、暖簾と提灯を黒甍の軒先に掲げた飲み屋だ。居酒屋ではあるけれど、飯屋としても評判が良いらしく、単品で頼める総菜がわりのアテも豊富だった。

 烏龍茶、白飯と羹のセット、牛しぐれを乗せただし巻きを頼む。

 元同僚たちが、手早く食べられる繁盛店だと教えてくれた。雑誌の取材の賜物か、舌の肥えた食通や健啖家も多い職場だった。前評判と違わぬ料理に、箸を急かしながらも舌鼓を打つ。五時半を過ぎると、行列ができると忠告されただけのことはある。

 名物の羹を啜り、青葱と牛肉で柔らかな卵を包んで掻き込んだ。

 勘定を済ませ、混雑する前に甍を差し出す軒端へと出た。頭上を見仰げば、暗雲が縺れ合いながら濁った夜空をなずさう。俄雨は降るかもしれない、と肌に触れる夜気の湿りを気取る。今朝の予報でも、夕方から天気が崩れるだろうと説いていた。

 服装も、撥水と防寒を兼ね、薄手のコートとシャツにデニムで収めた。

 愛用のリュックに、折り畳みの傘を仕舞い込んでおいた甲斐がある。鈍色の雲が垂れこめるなか、浮舟は建物の合間を這う路地を足早に南へと下る。横堀筋を南下して、阪神高速の高架を潜り、ビル街を抜ける歩道もない通りを歩いていく。

 最寄りの交叉点、左手の公園の半ばまで進むと庭木の根元に人影を認めた。

 人物の特徴が、事前に聞いた待ち人と合致したことに安堵した。

「はじめまして。お仕事お疲れさまです、お待ちしてました」

「遅くなってすみません。こちらこそはじめまして、浮舟白魚です」

 奥二重、甜茶色の髪と、琥珀を削いだような双眸が目に留まる。

 背も年齢も下だろう青年だ。まだ若く、大学生らしい溌溂さがあった。

 今夜はよろしくお願いします、と挨拶がてらに頭を下げる。簡易な自己紹介を済ませ、公園の向かいにある劇場へと向かう。劇場前では、警備員とスタッフが路上撮影をしないよう注意を促していた。躍起なまでの喚起に、青年が笑いながら人波を掻き分ける。

 オリックス劇場は、幹線道路から西に離れた街中にあった。

 五階建て程度か、ガラス張りのビルは入口が奥まっている。ちょうど、二階部分が軒となっており、扉の前に設置されたゴミ箱の間を来場者が抜けていく。今後の降雨に備えてだろう、ゴミ箱には雨傘を入れるナイロン袋が用意されていた。

 杞憂で済めばいいな、と思いながら青年からチケットを受け取った。

 特段、身分の照会もなく、確認済みの半券だけをスタッフに手渡される。

 施設内は、白を基調とした内装と濡羽色の絨毯が上品な印象だった。大理石風の、乳白色の壁と天井。ホワイエにはグッズの販売所が設営され、スタッフたちが行列の整理を行っている。指定席は三階の十二列、最上階までエレベーターで向かうことにした。

 最上階で降りると、ホワイエの混雑は見る影もなく落ち着いていた。

 幸運にも、降りてすぐの正面が最寄りの出入り口だった。座席表によると、左端の縦三列に横三列のボックス席だ。最後列、二番と三番の席を連番で押さえてある。避難経路を確認がてら、下階の男子トイレに降りてから席に着いた。

 青年は、最初の印象よりも、いくらか饒舌で浮薄な嫌いがあった。

「でも本当に、浮舟さんとはお会いしてみたいと思ってて。俺、浮舟さんの写真も、SNSで見たことあるし。昨年のミュージックビデオも拝見しました。衣装も演技も素晴らしかったと思います。あと、先月公開された、氷見さんの新作もよかったです」

 氷見さんとは親しいんですか、との問いに笑みを繕う。

 三月の撮影後、多忙を理由に氷見との親しい連絡を避けていた。

 氷見は、浮舟が昨年出演した、京都のバンドの新曲の映像作品でも衣装を担当した。音楽好きの界隈では、注目の若手株だったため、動画の概要欄にクレジットされた関係者も興味を持たれたらしい。氷見との個人的な親交や、展示会の予定まで知人たちに尋ねられたほどだ。最近では、今後のタイアップについての遠巻きな詮索もあった。

 とはいえ、さすがにまで聞かれるとは想定していなかった。

 お仕事を何度か一緒に、とだけ答えて話を切り上げる。浮舟の逃げの言動に、目前の青年も翻意したのか沈黙を選んだらしい。剽軽な性格ならばともかく、露骨に媚を売る人間はどうも信用ならない。懐かれたのか、いやに上滑りするような口先に尻込む。

 雑談もそこそこに、開演を告げるアナウンスが読み上げられた。

 照明が落とされ、階段下の通路からかすかに光が漏れ出るだけになる。夜目を要する暗中に、潜められた声の漣が寄る辺なくさざめく。緑色の誘導灯も消灯しており、開演間際に駆け込んだ観客をスタッフが席まで案内していた。

 座席の合間を、今際の蛍のようなあえかなライトが揺れ動く。

 虫の息が途絶え、静寂と暗闇がホールを満たすとともに演奏が始まった。

 手始めに、探照灯のような光条が舞台を照らし出す。暗闇に漂う塵が、六弦を爪弾く音をすなどりながら差し込んだ光に游ぐ。三階の最後列のため、舞台上の様子はほとんど見えない。音を漁火として、生音の演奏にうねる暗闇を導かれるまま凝視した。

 荒波のごとく、うたた昂りゆく歌声と演奏が闇を波打たせる。

 冒頭は、新譜の収録作で、シンプルなスリーピースを模した演奏だ。収録の音源とは異なり、ギタリストのソロを活かしたアレンジに化けていた。敢えてピアノを省き、歌唱に寄り添う伴奏と間奏を任せている。ドラムと、ベースの重低音に、唱和するような歌声が縺れ合う波濤。祈禱とならぬ、破り難き緊張に捧げられる厳粛な響き。

 探照灯に、孤独な人影が両手を広げるさまはさながら磔刑だ。

 右隣は空席で、完売でなかったことを心底残念に思う。このまま、最後列は二人のままか、と思ったところで左手に指が絡みついた。目を凝らす暇もなく、瞬きの間すら惜しんで節くれた指が肌をなぞる。痙攣しかけた指を、淫らがましく骨まで辿られるようだ。

 動揺を押し殺して、水面を叩くように青年の手を撥ね退ける。

 その間際、青年が肩口に顔を寄せた。「今夜、俺と一晩どうですか」

 鼻先に、整髪剤と香水の香りが触れる。柑橘と、かすかに溢れる花蕊の芳香。

 目を瞠りながら、嫌悪とも侮蔑とも思える感情を堪える。胃酸が遡るように、饐えて腐りかけた溜飲が咽喉まで迫り上がる。嘔吐くかわりに、頬を差し出したままの若者に毒づく。舌打ちを挟み、声の震えを悟られぬように濁声で締め括った。

「悪いけど、男漁りなら他所でやってくれへんか」

 隣の青年は、浮舟に執拗に絡むような真似はしなかった。

 それきり、寄せた肩を遠ざけ、舞台を覗き込んでライブを眺め始める。二曲目、三曲目までは動顚したせいか音楽が耳に入らなかった。四曲目の、やはり新譜から採用された、テクノポップ寄りの新曲でようよう安堵の息を吐く。

 動悸めいた鼓動が、耀う照明の魚群を追い立てるリズムに紛れる。

 曲に合わせ、照明の演出もたちまち変遷を遂げていく。舞台に立つ人間と、音響を活かした演奏、観賞魚のごとく色彩さえも移ろう照明。最早、投じられる照明すらも魚と変生して闇に流離う。凄艶な歌声は、琉金の尾鰭を翻しながら音の波間に揺れる。

 暗闇に躍り、苛烈なスラップに弾かれる大羽鰯の白銀。 

 あるいは、やはり篝火のごとく、暗晦をも照らす声明に縋るような祈禱か。数曲の演奏を終え、高らかな歌声が劇場内をうねらせた。浮舟は耳を澄ませ、漁火のように燃えながら佇む人影を見る。歌詞を追えば、恩赦を願う祈禱を唱うようにも思えた。

 潮騒の彼方、やおら自分の心を舫われながら押し黙る。 

 無暗とばかり、現世に繋留されているだけの心は孤舟と等しい。

 演奏が止むと、途端に各所の照明が明るく焚かれた。出演者の休憩を兼ね、アーティストによる世間話が始まる。ギタリストが紹介されたのを見届け、浮舟は荷物ごと身を屈めながら脇の階段を降りた。通路を抜け、未施錠のまま半開きになった扉から出る。

 通路を素通りして、左手の階段を中三階まで足早に駈け下りた。

 青年も、浮舟を追うほど酔狂な人種ではないだろう。男子トイレに入り、洗面台に両手を突き出して勢いよく濯ぐ。自動水栓に頼りながら、希釈された石鹸を掌で泡立てて肌を擦り上げた。乾いた手汗を落とし、左手の指の付け根まで念入りに洗う。

 目前の鏡を見れば、青褪めた男の寠れた面相が現れていた。

 虚ろな、空虚な瞳は死魚のようだ。澱に濁り、生気を渇した双眸。

 素肌を覆う白粉は死化粧か。睫に刷く濃紺さえ、陰鬱な翳を白い下瞼に落とす。

 その顔を慮る声が、大理石調の明るいトイレに響く。現れた青年に、浮舟は両手をしとどに濡らしたまま息を止めた。冷水を浴む指から、呆気なく血潮の熱が引いていく。痙攣を免れぬ濡れ手は、淫靡な視線に搦め取られて動かすことも能わない。

 大丈夫ですか、と青年が小首を傾げながらおもむろに歩を進める。

「すみません、怖がらせたいわけやないんです。そないに怯えんといてください。ほんまは俺、浮舟さんに興味があってきました。もしかして、のひとちゃうかなって。顔もタイプやし、お近づきになれたらええなと思ったんは本当です」

 下心言うたらあれですけど、との言葉尻には苦笑が雑じった。

 青年が足を止め、鏡越しに口を噤んだままの浮舟の顔色を窺ってくる。激昂も、落胆も見せず、相手の出方を探るような面持ちだ。、という暗示を否定しないせいもあるだろう。青年の性的指向、すなわち同性愛者であるとの事実は把握した。

 手の内を見せて、浮舟の反応を見定める心算に違いない。

「えらい酷い顔ですね。そんなに、俺が不潔に見えたんですか」

「少なくとも、ああいう風に、手ェ握られるほど親しい間柄やないけど」

「浮舟さん、男同士が苦手だったりしますか。お気に障ったならすみません。でも、この界隈、誰と寝てようが、誰だっていちいち咎めませんよ。こっちのひとなら、割と普通にと思いますけどね。ええやないですか、迷惑かけてるわけでもないんやし」

 お願いだから、と浮舟は鎮まらぬ胸中で祈るように呟く。

 皆、どうしてそうも、無節操な振舞いを平気で出来てしまうのだろう。

 どうか、これ以上、肩身の狭い思いをさせないでほしい。自分を、浮舟自身を、浅ましい生き物のように思わせないでほしかった。性交渉を前提とした、不特定多数との交際ですらない逢瀬。便所での行為や、青姦さえもが当然のものとして黙認されるという慣習。

 自分が、まるで、おぞましい生物であるかのように思えた。

「ああ、それともお相手がいるとかですか」

 ほら、氷見淸之介とか、もしかしてだったりします?

 若燕を指す暗喩は、「氷見淸之介」に対する侮辱のようなものだった。

 氷見は、浮舟のことをどう捉えていたのだろう。浮舟自身も、尻軽な男だと思われていたのではないか。軽薄ではないにせよ、平生から飄然と振る舞っている自覚はある。氷見にも勝る韜晦癖は、他者に「尾鰭」を掴ませないための惰弱な抵抗でもあった。

 せめて、魚のような、掴みどころのない人間でいるしかない。

「氷見さんとは、まったく関係のないことです。それに、燕って言うんは賎称やろ。性別関係なく、年下の情人に対する侮蔑みたいなもんやで。自分の趣味は知らんけど、僕からしたら何もおもろないわ。今日のこと、痴漢で訴えてもええけどどないする?」

 邪推も大概にせえよ、と頭と呂律を必死に回して抗弁した。

 今まで何度、浮舟の良心を、同類であるとの理屈で愚弄されたことか。

 痴漢だと訴える度胸は、男性を恋愛対象とする浮舟にはなかった。せいぜい、ギタリストに青年の淫らがましい手管を告げ口する程度だ。の問題だと片付けられるのは本意ではない。けれど、せめて氷見だけは、軽蔑の目で見られてほしくはなかった。

 浮舟を、ひとりの人間として尊重してくれる相手だった。

「悪いけど、僕はもうこれで帰ります。後はどうぞご勝手に」

 義理堅い男は面倒がられますよ、と青年が眩しそうに目を眇める。自分のような人間が、男同士の仲では敬遠されることも知っていた。所詮、どっちつかずの半端者なのだろう。異性愛者でもなく、けれども同性愛者としては奇矯なほどに潔癖すぎる。

 両親のように、無責任な人間にはなりたくなかった。

「浮舟さん、すみませんでした。でも、身勝手やけど、ちょっと安心しました」

 浮舟白魚らしいと思った、との言葉に虚を衝かれた。

 笑顔に合わせ、甜茶色の髪が揺れる。その小さな頭を見下ろした。

 返事もせず、踵を返して清潔なトイレに青年を置き去りにする。結局、中三階から、三階分の階段を降りてホワイエに戻る。祝花の列を傍目に、グッズの即売所で待機するスタッフに声を掛けた。持参した酒を、名刺とともにギタリスト宛てで預けておく。体調不良を理由にすれば、退席について問い詰められることもなかった。

 正面玄関を出れば、薄暗い夜気が泥のように素肌を覆っていく。

 願いも空しく、灑灑と灌ぐ雨がアスファルトを濡らしていた。街燈の光が、潤んだ路面に映りこんで虚貝うつせを鏤めた螺鈿の破片と化す。公園前を車輛が通り過ぎ、目地の細かいタイルに光が紫斑と散じた。無慈悲な驟雨は、打擲のように舗道を打ち据えていく。

 驟雨のなか、暗夜を押し流される行路を夢想した。

 浮舟の分水嶺は、他者との間に厳然と引かれてしまったものだ。

 何故、男同士というだけで、肉体を明け渡さなくてはならないのだろう。

 孤独死するだろう、という諦念が心の底にあった。だからこそ、孤独な浮舟のような人生を送ると決めたのではなかったか。氷見に対する思慕すら、人間としての親愛で留めおくつもりでいた。まさか、男同士でも構わないとは思いもよらなかった。

 雨傘を開く前に、話をしたい相手に電話しようと思い立つ。

 僅かな躊躇いもなかった。連絡先から、氷見の名前を引くことに。

「氷見さん、ああ、こんばんは、ほんま夜分にすみません」

 電話越しでも、氷見は耳聡く雨脚の駈ける音を拾ったようだった。

 男としてではなく、浮舟をただの人間として扱ってくれるのだ。細やかな気遣いに礼を言い、本題を切り出す機会をさりげなく窺う。氷見は、激しい雨音を憂慮していたけれど、出先で雨宿りをしていると伝えると追及をやめた。

「実は、折り入ってお願いがあるんです。先日、譲渡希望があった、あのガウンコートを先方に譲渡していただけませんか。先方は、僕が世話になった高校の先輩なんです。都合のええ話でしょうし、口利きはどうかと思いますけどお願いしたいんです」

 縁を切る前に、過去を清算するとしたらここが潮時だろう。

 先輩のことだけではない。氷見にとっても、最善の選択でなくてはだめだ。

 氷見には、浮舟と違って命綱がきちんとあるのだ。金沢に居るかぎり、氷見が孤立することはないはずだった。彼の頼みの綱が、浮舟である必要などどこにもない。仕事相手の、それも男である浮舟との交際が露見するほうが命取りだろう。

 今ならまだ、浮舟白魚という命綱を切り離してもいい。

 氷見清之介は、浮舟のもとに舫い続けるにはやはり優し過ぎる。

 けれど、譲渡はしないよ、と答える氷見の声は冷水よりも冷たかった。

 荒んだ雨脚は、軒端に佇む浮舟の足元を蹂躙していく。靴先が湿るのを感じながら、ぬるんだ蜃気のような吐息を漏らす。踏み出せば、驟雨の薄刃が身を切り苛んでくれるのだろう。雨音のなか、氷見がとある「条件」を提示するのを聞いていた。


【参考文献】

『ホトトギス季寄せ』 稲畑汀子編、三省堂、一九八七年

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