皐月 京都 「波追舟」
五月晴の空は、浮舟の杞憂を洗い晒す快哉ぶりだった。
肩に黒革の鞄を掛け、肩紐を湿った指先で摑みながら石段を上る。
伊勢丹、もといJR京都伊勢丹のビルは外の大階段へと続く。大理石調の石段の先、京都駅の屋根を蓋うように展望台が市街を望む。展望台には、青竹を植えた井桁の前栽と、御影石と思しいベンチが配されていた。夜中に雨が降ったのか、アスファルトがかすかに濡れている。
慎重な足取りで、溝にできた水溜まりを踏まないように歩いた。
足元は、黒革のビットローファー。靴下は、露草めいた青を差し色に選んだ。
大島紬で誂えた、単衣仕立てのジャケットのセットアップ。濃紺の地に、銀の箔を捺すように地紋を織り込んだ上物だ。中には、紋綸子の、七宝紋の白のブラウスを仕込む。元は襦袢だろうか、薄手のとろみのある絖地を中華風の詰襟に作り変えてあった。
正面には、飾りに白蝶貝のボタンを並べている。
八分袖のブラウスも、その袖口を揃いのボタンで留めてある。
JR京都駅の北側、京都駅の屋上庭園は驚くほど見晴らしがいい。とはいえ、盆地にぬるむ湿気は、風通しがいい和布を透かしてなお気怠いほどだ。大島紬のジャケットは、襟のない仕立てで、陽光を浴びると金属めいた光沢が柄を際立たせる。
明らかに、京都旅行のための格好とは言い難い。
実際、仕立てた氷見も、訪問着としての意匠を凝らしたのだろう。
遠景を見渡しながら、浮舟は薫風に梳かれて翻る黒髪の房に手櫛を通した。
京都市街と、夏霞の紗を垂らした朧げな山稜。黛青の濃い山麓が、青空を背にして碁盤の目を劃く街衢を取り巻く。観光客はまばらで、和蠟燭のような見目の京都タワーが間近に見える。赤い尖塔は、燃え盛る燈芯のような朱色を空に焚き熾す。
この快晴なら、今後の予定が狂うということもないだろう。
今日の昼、京都市内で、氷見と「商品」の受け渡しに立ち会う手筈だった。
展望台の縁に立ち、遠目に京都の街を眺めていると懐が震えた。氷見手製のジャケットの、内側に縫われたポケットからスマートフォンを抜く。液晶には、氷見清之介の名前とチャットの新着。横長の、ポップアップの表示を親指で叩く。
返信を打つと、大階段の横に設置されたエスカレーターで下階に降りた。
JRの在来線改札口、改札前にある券売機付近で待機する。氷見は、金沢からJRの在来特急で訪れる予定だった。午前十時頃の到着で、金沢を七時台に出発する始発に乗ったらしい。浮舟自身は、JR京都線の米原行きの新快速を利用した。
午前九時過ぎの到着後、地下街にある喫茶店で軽く茶をしばいた。
伊勢丹の催事場と、展望台のある屋上庭園で持て余した時間を潰していた。気が急いてしまい、待ち合わせよりも早く現地に乗り込まざるを得なかったのだ。先月、氷見に提案された条件とは、ある商品の譲渡に指定された衣装で立ち会うことだった。
この衣装も、事前に元払いの宅配便で自宅に箱詰めを送られた。
そして、商品は、今から合流する氷見が自ら運んでくる。
暫くすると、氷見が小型のトランクを引き摺りながら現れた。浮舟が会釈をすれば、色眼鏡越しに目を細めてから口端を緩めた。近寄ると、男物らしい、紅茶のような淡い香水の匂いが掠めていく。久しぶりだね、との柔らかな口吻にかすかな安堵を覚える。
「おはよう。よかった、ちゃんと着てきてくれたんだ」
「それは、氷見さんのご希望ですから。今日は、よろしくお願いします」
この衣装も、ありがとうございますと改めて頭を下げた。所詮は借り物なのだから、拝借している立場としては礼を言うべきだろう。浮舟の言葉に、氷見は虚を衝かれたように瞠目してから苦笑する。変なことを言ったのか、とはさすがに尋ね返しかねた。
改めて眺めれば、氷見の装いもどことなくめかし込んでいる。
初対面の、四日市の喫茶店で、面通しした時の服装と似通うようだ。
左腕に掛けた上着も、黒い和布で仕立てたジャケットと思しい。小紋らしい、八分袖に詰襟のシャツと大島紬らしい亀甲柄のパンツ。紬の地色は黒、織柄の糸も黒色といかにも洒脱だ。黒革のベルトと、ウィングチップの革靴で印象を統べていた。金縁眼鏡や、ベルトの金具の金は差し色なのだろう。塩顔と、垂れ目がちな目元も馴染んで見える。
前髪ごと、黒髪を束ねた額の際には汗の珠がいくつか浮いていた。
受け渡しについては、事前に氷見が先方と話をつけてくれたと聞いた。場所の指定も受けており、寺町の商店街にある喫茶店に予約を取ってあるらしい。最寄りは、地下鉄の京都市役所前駅だけれど、氷見の宿泊先に荷物を預けるため三条通を経由する。
「じゃあ、とりあえず行こうか。今日もよろしくね」
氷見の言葉に頷くと、京都駅の人混みを縫って移動した。
市営地下鉄烏丸線に乗り、前回の来訪と同じく烏丸御池の駅で降りる。
ところが、地上に出る際、複合商業施設へと繋がる出口を利用してしまった。
新風館との名称を冠した、外資のホテルなどが入居する商業施設だ。薄暗い構内から、飴色の照明で照らされた上階へとエスカレーターで運ばれる。地下二階が駅の構内、上階の通路には、映画館がビラを貼り倒したガラス越しに内装を晒していた。単館上映と思しい、上映中や封切り間近の邦画と海外映画のビラの群れ。
水色の壁に、極彩色の受付と配管が剥き出しになった天井。
店の中央には、売店を兼ねたチケット売り場が孤島のように目立つ。
案内表示に従い、階段を上がっていくと商業施設の中庭に出た。緑が梢に滴る庭は、煉瓦造りの旧建築に囲まれているらしい。ガラス張りの、改装されたアパレルの店舗が左右に続く。建物沿いに、隧道にも似た回廊のような通路が通りの景色を切り抜いていた。
中庭を抜け、正面の建物のアーチを潜って外に出る。
敷地を北に縦貫したのか、姉小路通のほうに出てしまったようだった。
前庭らしい、躑躅と青椛の若木。葉翳から、淋漓と零れた燐光は石畳に斑を抜く。
本来は、駅の南側、三番出口から三条通を進む想定だったのだ。仕方なく、姉小路通を右へと歩き、途中で南に折れることにして歩を進める。三条通とは違い、住宅街らしい民家や町家の立ち並ぶ町並みが続く。道幅も狭く、通行車輛が白線の脇をすり抜けていく。
横筋を数本、素通りしてから柳馬場通を南へと下った。
小路の両側は、築地塀や漆喰塀の立派な日本家屋やビルが迫る。
三条通の交叉点の手前で、右手に目当てのホテルの目印らしき旧建築が見えた。緑青で覆われた天蓋と、花崗岩らしい石造りの壁はやはり登録有形文化財だ。前回、氷見に案内された店も、この二階建てと同じく端整ながら洒脱な外観を留めていた。
旧建物は、柳馬場通からは尖塔を添えた長方形に見える。
尖塔は、六角形の細身で、直線的な意匠に半円と細かな装飾を凝らす。
建物の前には、南国を連想させる観葉植物の前栽。尖塔に続く回廊の手前、白磁色のビルにホテルの玄関はひっそりと設けられていた。旧建築の背面に、現代的なビルが建てられており、隠れ家のような趣で慎ましやかに佇んでいる。
ちょっと待っててね、と告げて去る氷見の背中を目で追う。
氷見が荷物を預ける間、正面の通路に置かれたベンチで待つことにした。
五月の日差しに、ジャケットを脱ぐかどうか躊躇う。それでも、もう着る機会はないと思うと、地紋を鏤めた上着から腕を抜く気にはならなかった。右脇に立つ、赤い郵便ポストの前を、観光客らしい男女の二人組が通り過ぎるのを眺める。
交叉点の角では、同年代の若者たちが尖塔を写真に撮り収めていた。
戻った氷見の右手には、商品を収めているらしい紙袋が提げられている。
椅子から腰を上げ、三条通を西に向かって歩いていく。かつての目抜き通りらしく近代に建てられた建物が多い。老舗の時計屋を改装した、骨董物の旧建築はアパレルショップのようだ。他にも、服飾関係の店舗、ポールスミスの路面店などが軒を連ねる。
隣を歩くのも最後だろう。景色を眺めながら、歩調を緩めそうになった。
三条通のどん突き、突き当たりが三叉路の商店街に分岐していた。
左手の商店街、寺町と看板を掲げた専門店街へと氷見と連れ立って進む。タイル張りの舗道は、鉄骨の梁が剥き出したガラス屋根に覆われている。右の手前には、黒甍の破風と提灯を飾る地蔵尊の小寺。二階建ての商店が、道の左右に並んで身を寄せ合っていた。
天蓋のガラス越しに、五月晴の陽光がしらじらしく店を照らし出す。
薄明るい商店街は、閑静とも評し難いほどいやに侘しい。
さらに進むと、左側の路端に行列のできた喫茶店が見えてきた。
二階も喫茶店の店舗で、焦茶のタイルと塗装が慇懃な店構えだった。店の正面はガラス張り、配管などの細部を茶色の覆いで隠してある。アルミ製か、金属の窓枠が店内の照明を反射して黄金に輝く。入口の前には、ランチの品書きの看板が置かれている。
氷見が迷わず店に入り、店員に予約客であることを告げた。
「氷見様ですね。お待ちしておりました、二階の席へどうぞ」
平日の昼時は、電話でランチの予約を受け付けているのだそうだ。
入口の勘定場の前で、丸椅子に腰掛けて案内を待つ客を素通りする。静かな店内も、暗色に寄せた木調の落ち着いた趣きがあった。店員に従い、二階の食堂へと続く木製の階段を上がった。手摺に掴まり、踏板を軋ませながら慎重に上がっていく。
階段の周囲は、扉のあるガラス壁で間仕切られていた。
二階の扉を開けると、食欲を煽る洋食の香りが押し寄せた。
奥が厨房らしく、店員が予約席の札を置いた四人掛けを勧めてくれる。
左右の壁際には、生成の革風のクロスを掛けた食卓を並べていた。右手の階段を囲うガラス壁に沿って予備の椅子が整列する。濃鼠の絨毯と、栗色の革張りの椅子も、鼈甲めいた白熱燈の光がよく馴染む。天井の照明は、瀟洒なガラス製の火屋が美しい。
二名様ですね、との確認とともにお冷のグラスが置かれる。
修正する前に、氷見が緩く頭を振ってから目顔で制した。店員に、後で注文を取るように伝えて席を離れてもらう。浮舟が問うまでもなく、氷見のほうから重たげな口を開いた。罪悪感の滲む面相で、懺悔のごとく思い詰めたように吐露した。
「今日、ここに浮舟君の先輩は来ないよ。商品の受け渡し、っていうのは嘘なんだ。依頼を受けたのは本当だけどね。でも、取引の前に、きちんと話がしたかった。俺のこと、ずっと避けてたでしょう。こうでもしないと会ってくれないかと思って」
「ほな、今日のは全部、僕と話をするための方便なんですか」
浮舟は、氷見の渋面を凝視せざるを得なかった。
放心しながらも、冷静さを留めたままの脳裏を憶測が掠めていく。
確かに、京都での受け渡しは不自然だった。先輩は東京在住で、京都に出張するような機会は滅多にない。出張の折に、商品を受け取るというのも都合がいい。高校の後輩とはいえ、浮舟を取引の場に同席させるという条件も奇妙だろう。
考えずとも、無理筋な話であることは明白だった。
辻褄が合わないのに、迂闊に信じてしまうほど逼塞していたのだ。
氷見は、品書きを差し出しながら言い添えた。まず、ランチを頼んでから仔細を聞くことを了承する。二種類、好きな主菜を組み合わせられる仕組みらしい。頭が回らず、選択制の主菜は、氷見の勧めでクリームコロッケと海老フライの盛り合わせにした。
行きつけの店だ、という氷見の助言におとなしく従っておく。
店員を呼んで、食後の珈琲を足してから注文を終える。無言のまま、お互いにグラスの水を舐めるように口に含んだ。縺れる舌を、冷水で潤して慰めるしかない。口を噤んでいれば、腹を括ったのか、背筋を伸ばして浮舟をひたと見据えてくる。
氷見が、スマートフォンを弄ると机上に差し出した。
「去年、京都で個展を開いた時、尾﨑さんと先輩のこと話してたよね」
液晶には、記念写真と思しい画像が映っていた。
紀智慧。きの、ちさと。きのさん、と唱える前に唇を引き結ぶ。
確かに、個展を訪れた尾﨑と、「憧れていた先輩」の話をした覚えがある。
紀智慧は、地毛らしい甜茶色の髪が目立つ男だった。小顔を強調するかのようなマッシュボブ。素肌に近い薄化粧と、薄手のハイネックとブラウスの取り合わせ。枯茶色のジャケットが肌や髪色と馴染む。タイではなく、金地のスカーフを首元に仕込んである。
進学後も、何度か顔を合わせたものだ。憧憬と恋慕を寄せた相手だった。
「偶然ね、先月電話を貰う前に東京でお会いしたんだ。専門学校の同期が、ポップアップの店を出してたんだよ。そしたら、紀さんがいて声を掛けられて。確か、白魚くんと同じようなことを言ってた。都合のいい話だけど、どうしても譲渡してほしいって」
でも、断ったんだ、と氷見は眇めた瞳をこちらに向けた。
浮舟が顔を上げれば、凄んだ目顔がひたと両の瞳孔に据えられる。黒目がつぶらな、射干玉の双眸は瞬きすらしない。垂れた眦も、二重の瞼も、求肥に勝る柔らかさを消し去っていた。直截な言葉尻さえ、決しきらない目尻を代弁するかのように鋭い。
今までの浮舟の言動が、癇に障ったのだろうことは明白だった。
「そしたら、今度は新規の依頼ならどうかって。だから、個人依頼は、原則ほとんどお断りしてると伝えたんだ。でも、結局は向こうの粘り勝ちだよね。俺もやっぱり忍びなかったから。事情も特別だし、納期も問題なさそうだったから受けることにした」
婚約記念に、男物の白物のガウンを二着分。
氷見の口から、その言葉を聞くのは骨身に堪えるものがあった。
浮舟は、連絡を受けた時から、婚約相手が男であることを知っていた。相手は、職場の元同僚で、同期入社した頃から同居していたらしい。交際に発展後、紀の転職を契機として婚約を決めたと綴られていた。相手が同性だとは思わず愕然としたものだ。
「白魚くん、知ってたんでしょう。紀さんがさ、『疎遠になった相手から、男相手だって聞いて驚いたと思う。浮舟には申し訳ないことをした』とも言ってた。実際には、白魚くんと同じ奈良訛りの関西弁でね。例の先輩だろうな、って俺も勘付いたんだけど」
今回のおねだりは、大事な紀先輩のためなのかとの問いに息が詰まる。
同時に、氷見の言動にも、嘘の「条件」を持ち掛けた理由も腑に落ちた。四月の下旬、ほぼ三週間前、ライブを抜け出して電話を掛けた。当時、氷見は紀との邂逅を終えていたのだ。先輩である紀に、未練を抱いていると推察されても仕方ない。
実際、三月以降、金沢での撮影から氷見と距離を置いていた。
恋人である、氷見の複雑な心境を斟酌すれば合わせる顔もない。矮小で卑怯な、どうしようもなく身勝手な人間だった。何故、浮舟を尊重してくれる、氷見という相手を蔑ろにしたのだろう。罪悪感に苛まれ、懊悩していたのがほとほと馬鹿らしかった。
氷見に声を掛けるべきではなかった、と何度も思った。
告白しなければ。唆すようなことを言わなければよかったと。
「ほんまに、ほんまにすみません。氷見さんを傷つけたかったわけやないんです。紀さんに未練があるわけでもない。僕は、僕はずっと、自分に幻滅してたんです。学生の頃、紀さんに告白せえへんかったんは、どうせ異性愛者やって決めつけてたからやった」
けれど、紀自身は、生涯の伴侶として同僚の男を選んだ。
氷見の懺悔など可愛いものだ。告解のような、贖罪のような独白が漏れる。
他者を峻別し、偏見に基づいて差別していたのは浮舟だったのだ。きっと、浮舟が告白しても、紀は熟慮のうえで交際を判断しただろう。見込みがない、と諦めたのは浮舟の意思でしかなかった。そんな蒙昧な自分が、氷見の恋人でいることが赦せなかったのだ。
氷見の好意を、信じ切れない自分が愚かで堪らなかった。
「気持ち悪いんちゃうか、って自分でも思とるんです。男性が好きや言うと、体目当ての痴漢紛いなことしてきよる奴もおる。男同士なら、それが普通で当たり前のことやって。僕は、そういう人らのことを軽蔑してるんや。でも、結局は、自分も同類なんやと思ってまう」
思えば、誠実だった祖母にも打ち明けられなかった。
祖母に合わせる顔がなかった。礼節を説いた、祖母の人生を裏切るようで。
紀が連絡を絶ったのは、浮舟の好意に勘付いたからだろうと思った。学生の頃、頻繁に献血に通っている同性の友人がいた。不特定多数の男と、平気で寝ていることを風の噂で知った。浮舟が抱いた、生理的な嫌悪と、あの腐臭のする憎悪と落胆は筆舌に尽くし難い。
同じように、紀も嫌悪を覚えたのだろうと思ってしまった。
氷見を見れば、細眉を顰めながらまじないでも囁くように続ける。
「俺の実父は、ずっと風俗通いしてたんだ。彼女に無断で男娼してたやつも知ってる。別に性的指向は関係ない。傾向はあるのかもしれないけどね。でも、結局のところは、人間性の問題なんだと思うよ。俺の両親も、結婚したけどうまくいかなかった」
心配いらないよ、とあえかに笑んだ氷見の顔が霞む。
そこに、奥の厨房から、折よく洋食のセットが運ばれてきた。
二人の店員が、白磁の洋皿をクロスの眩い食卓へと並べていく。会釈をしながら、軽く顔を伏せる間に目頭を指で拭った。鼻先に、生温かい潮の匂いが滲む。けれど、炊き立ての白飯と、からりと揚がったフライの芳香に掻き消えた。
「折角だから、熱いうちに食べよう。ここ、洋食もすごく美味しいんだ」
氷見の言葉に、ただ頷くことしかできなかった。並んだ洋皿は二枚あり、縁が波打つ皿は白飯、無地の平皿には黄金色のフライを盛り合わせる。クリームコロッケと、小ぶりな海老フライ。付け合わせに、ミニトマト、千切りのキャベツとマカロニサラダ。
フライには、櫛切りのレモンとタルタルが添えてある。
紙ナフキンを膝に広げ、おしぼりで手を拭ってから銀食器を手に取る。揚げたてのクリームコロッケを割ると、柔らかいベシャメルが溢れた。刻んだ海老の身と、乳色に蕩けるベシャメルの滑らかな舌触り。火傷しそうな熱さえ、濃厚な甘さを引き立てる。
海老フライも、薄い衣と身の詰まった海老の食感が絶妙だ。
マカロニサラダも、素朴でシンプルな名脇役らしい味付けだった。
「実は、黙ってたことがまだあるんだ。さっきのホテル、本当は二名で予約してある。あと、その服は、誕生日に渡し損ねたプレゼント。ほら、春生まれって聞いてたけどわからなくて。どうせ、別れ話になるんだろうなって思ってたから」
断られたら、潔く諦めるつもりだったと氷見が言う。
浮舟は、堪え切れずに、嗚咽で噎せそうになる口元に拳を宛がう。
平皿の上に、銀食器をハの字に置いたまま氷見の告白を聞く。話に拠れば、ホテルの予約も二名分を前払いで押さえたらしい。紀から受けた、二着分のガウンは来月に届ける予定だった。椅子に置かれた紙袋には、あの白い紗のガウンコートを収めてあるという。
また着てくれる、と続ける氷見は、純朴であどけない表情をしていた。
浮舟の前では、まるで卑怯な本性を正すための鑑のようだった。
喫茶店で、好意を伝えたのは、氷見が自分を人間として扱ってくれたからだ。氷見の人生を、棒に振るかもしれないという危懼は欺瞞だった。やおら頭を横に振り、辛うじて啜り泣くことだけは堪える。謝罪のかわりに、「ありがとうございます」と小声で唱えた。
瞼を瞑ると、温かな白熱燈の照明に照らされた目裏が白んでいく。
いい日になるといいね、と氷見は眦を緩めて笑った。
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