弥生 金沢 「手弱魚」
瞼を瞬いては、春泥のような微睡みを堪えた。
車窓から、暖房の結露で濡れ醒めた北陸の夜明けが覗く。
この三日間、浮舟白魚はモデルとしての仕事に徹すると決めていた。
金沢市内を走る車輛は、今日の撮影用に借り受けたワゴン車だった。同乗者も撮影班の人員で、モデルを務める浮舟と氷見を含めた四人編成の班だ。運転手は氷見、助手席には浮舟が座り、写真館を営む写真家と美容師の女性が後部座席に着く。
撮影場所は、主に二カ所を予定する。
東山と香林坊、警察にも道路専有などの諸許可を得た。
午前の早い時間から、ワゴン車で着替えの衣装を運搬しながら移動だった。
JR金沢駅から、大通りを南西に下ると、近江町市場のある交叉点に突き当たる。三叉路のうち、東に進めば東山、西に進めば香林坊の界隈へと続く。金沢駅前まで連なる、商業施設やビルの木立と舗装された歩道。繁華街の香林坊も、高層ビルの懸崖を迫り立たせながらも風通しがいい。城下町に相応しい、豪胆な潔さすら感じさせる街並みだ。
街路樹を見れば、芽吹いたばかりの萌黄が梢に彩りを添える。
香林坊での撮影は、観光客などを避けるため早朝に行う手筈だった。
二丁目の交叉点、新聞会館のビルを目印に左折して有料駐車場に入る。手狭な駐車場に車輛を置き、衣装を収めたスーツケースを持って降りる。交叉点の近辺は、地方銀行などの金融機関やホテルの建物が数多い。撮影班で、交叉点のほうへと引き換えして百万石通りに出る。高層建築の狭間、渓谷の谷底で青空を見仰いでいるようだ。
さしずめ幟旗か、切り抜かれた空はそらぞらしいほど青い。
繁華街でも、北陸の空気は澄んでいる気がするから不思議なものだ。
深呼吸をすれば、朝露を含んだ冷気が気管支に流れ込んでいく。撮影担当の写真家、ヘアメイク全般を担う美容師に指示を仰ぐ。衣装担当の氷見は、建物側に寄った歩道の端でスーツケースを広げていた。追加の羽織物や、兵児帯を仕立て直した小物を取り出す。
街頭撮影は、原則として歩行者に迷惑を掛けてはならない。
撮影も、午前六時前、日の出の前を狙って日程と移動経路を組み立てた。肖像権などの諸権利を考慮すれば、歩行者が被写体として写り込むのは避けたい。また、この付近にはブランドの路面店も多く、店舗のロゴなどが入らないよう注意も必要だった。
浮舟自身、出発前に化粧と衣装への着替えを済ませてある。
「浮舟さん、お化粧を確認したいんですが……」
美容師の指示に従い、最後のメイクの調整のため軽く背を屈めた。
小柄な女性だが、氷見の知人の美容室でも敏腕だという。現在の衣装は、小紋のブラウスと、私物である無地の濃紺色のフレアデニムだ。街頭での撮影では、ボトムまで交換する余裕がない。普段使いの、日常でも浮かない服の組み合わせに寄せた。
正絹の小紋は青海波、瓶覗と白の二色がいかにも現代風だ。
また、メイクにしても、顔の造形を活かして目元と口紅のみに絞った。
写真家に頼み、最小限の撮影機材に抑えたため三脚も使用しない。室内での撮影は、この後に東山の喫茶店とホテルを借りて行う。昨年のスナップ撮影で、写真家自身もかなりの反響を得たからか。続投を即断して、写真館の業務の合間に時間を作ってくれた。
傍に近寄った氷見が、腰元のブラウジングを手早く調整していく。
「今日の衣装、気合入ってんね。まあ、浮舟くん、素材がいいからな」
街頭で構図を決め、写真家の納得とともに撮影を開始した。
選んだ場所は、現代的な意匠の商業複合施設の前だった。壁面はガラス張り、二階部分までを路面店としてワンフロアで使う造りだ。その二階には、垂直に歩道へ張り出した骨組みが露わなガラス製の庇。建物の影が、蒼然と冷え込んだ景色を幽邃に魅せる。
上層階には、窓が鏡面に市松模様を描くように並ぶ。
正面にはベンチがあり、車道側にもバスの停留所が設置されていた。
場所、姿勢を変えては写真家の求めに応じて撮り重ねていく。街路樹の根元、歩道の中央、無人となったバスの停留所。撮影の途中、兵児帯のスヌードや白絣だという羽織物も追加する。綿の兵児帯は藍色、張りのあるジャケットは白大島らしい。
白絣の生地が、遠目には精緻な点描を凝らした白藍と映える。
撮影の間、僅かに氷見と視線が合った。嬉しそうな笑みが逆光に掻き消える。
商業施設は映さず、街頭らしさを強調した画角を狙って撮影を続けた。事前に建物の所有者に許可を得たものの、立地を光源として活かすに留める。百万石通りの先、交叉点では朝日がしらじらと景色を霞ませていた。撮影を終え、忘れ物がないかを確認して現場を離れる。
次の撮影現場は、浅野川大橋と浅野川の河原を予定していた。
結局、往路を引き返し、近江町市場の前を通って十分も経たずに到着する。
浅野川大橋は、金沢市内でも象徴的な架橋として知られる。大正期の建築から、今年で百周年の節目を迎えた国の有形文化財だ。近辺には、主計町茶屋街があり、大橋の手前の有料駐車場に車を停めた。浮舟のみ、車中で着替えと化粧直しを行う必要があった。
暖房の名残で、かすかに温かい空気のなか美容師が尋ねてくる。
「そういえば、氷見さんとはどこで知り合ったんですか?」
「いや、普通にSNSですよ。モデルの依頼で問い合わせのDMを頂いて。対面でお互いに話を聞かせてもらいましょう、と。僕のほうは、会う前にアカウントやサイトを確認しましたけど。他の方との会話、投稿についた質問の返答なんかで人柄を見て」
なるほど、と美容師が苦笑交じりに首肯する。
本名は氷見清之介。但し、作家としては旧字の「淸之介」を名乗っている。
氷見の素性は、名前から推察し得る性別のほかは秘匿されている。サイトの略歴も、卒業した東京の服飾専門学校の名前のみ。作品に関する質問など、問い合わせには辛うじて応じている。慇懃無礼ともとれる、ごく丁寧な言葉遣いが韜晦癖じみていた。
氷見の存在が、他者の好奇心をそそるのも無理からぬ話だ。
会話を終える頃には、美容師による化粧の手直しも済まされていた。
車を降りると、氷見がスーツケースを携えて待っていた。頭から爪先まで、念押しのように衣装を見定められる。正絹のガウンと、繻子の襦袢から仕立てた白地のブラウス。膝下丈のガウンは、露草の花弁とも似通う紺青が鮮やかだ。極彩に近い、デニムよりも明るい青だった。
白地の綸子も、七宝紋が銀箔を捺した光沢を布地に鏤めている。
「氷見さん、本当に浮舟さんがお気に入りなんですね!」
浮舟が問う前に、氷見が屈託のない笑顔で肯定を返す。
会話に口も挟めず、浅野川大橋へと連れ立って歩き出した。
数件の民家を過ぎて、停留所のある橋際から四車線道路が橋上に開けていく。
緑のしだれ柳、洗い晒したばかりの羅のように濡れた青空。漉き流した雲が、淡い白藍の上に延べられている。主計町茶屋街の裏手、浅野川の川畔を這う小路が歩道の脇から窺えた。鏡花のみち、として親しまれる茶屋が整然と並んだ舗道だ。
泉鏡花、徳田秋聲と、文豪の名を冠した道が浅野川両岸に親しまれる。
茶屋街の南には、泉鏡花の生家跡に建てられた記念館もある。情趣を残した建物や、迷路のような小路が入り組む街衢に相応しい橋梁を認めた。遠目に見ても、金沢市民に愛される理由がわかる意匠だ。緩い弧を描き、三つの橋脚が浅野川の水面を跨ぐ。
瀟洒な白縁の橋脚、行燈風の照明や格子を嵌めた欄干が美しい。
まだ、通勤や通学の時間ではなく、通行者の姿もなかったのはありがたい。欄干には唐草の装飾、橋の側壁にも浮彫があり、五個の行燈を束ねた街燈が天日に晒されていた。大橋の左右は、幅広の歩道がタイル張りの舗道として朝日を照り返す。
氷見に袖を引かれ、露草色のガウンの裾の皺を直される。
ここにしてよかった、と氷見が囁く。浮舟は、逆光で見えない氷見に頷いた。
「肌寒いだろうけど、頑張って。よろしくお願いします」
二人と別れ、街燈の下で待つ写真家のもとへと向かう。
見送られるまま、川瀬巴水の木版画のような景色に溶け込んでいく。西今川の自宅の机に飾る、日本橋の朝を描いた摺絵めいた淡彩。指示に従い、街燈の傍らから耀く川面を眺める。香林坊の時と同じく、矢継ぎ早に写真を撮り溜めていく。
撮影は、さらに川畔と、東山の喫茶店とホテルでも予定通りに進んだ。
午後四時過ぎ、撮影を終えて解散して宿への帰路につく。仕事を労われた後、車輛を回して写真家と美容師を送り届ける氷見とも分かれる。とはいえ、展覧会の準備で、最終的には同じホテルに戻る予定だ。うちに泊まってもよかったのに、と氷見が言う。
寄稿のためだと伝え、話を誤魔化して徒歩で宿に向かった。
今回の宿泊先は、氷見が展示即売会を行うマイクロホテルを選んでいた。
東山とは、浅野川東岸の地域を指している。もっとも、この辺りは花街として知られる界隈からはやや外れた地域だった。旧跡めいた寺社の合間に、民家や町家らしい日本家屋が軒を連ねる。東側には卯辰山、丘陵の裾野を緑地と寺社の境内が縁取っている。
上背を屈めると、仕舞屋風の日本家屋の鴨居を潜った。
黒板を継いだ母屋は、二階に肘掛窓を巡らせて黒甍を葺いている。
経営者は、昨年の撮影に快く協力してくれた女性だった。所謂、金澤町家と総称される古宅を改装した宿をいくつか商う。左手が玄関、右手が母屋の家屋は、京都で言う仕舞屋風の二階建てと思しい。仕舞屋とは、店仕舞いをした商家や家敷を指す。
目前の家屋も、切妻造の瓦屋根を重ねて出窓を設えた町家だ。
前回の撮影場所は、大塀造の家敷を改装した開業前のホテルだった。
こちらと違い、大正時代に建てられた医院を再生した物件だ。松の植わる中庭や、敷地を囲む板塀、本館にあたる和風建築などは名家の趣だった。比較すると、このマイクロホテルは、二階建てではあるもののコンパクトな造りに収まっている。
ただいま戻りました、とガラスの引戸を滑らせながら呼びかける。
「浮舟さん、おかえりなさい。今日は肌寒かったでしょう」
撮影お疲れさまでした、との言葉に安堵の息を吐く。
三和土の玄関まで、女性経営者が出迎えに出てきてくれていた。
正面は框、三和土から繋がる土間が道路に面した店舗だ。併設の店舗は、小規模な画廊としても使用される。上り框の奥、廊下の右側には勘定場を模したレセプション。靴を揃えて、勘定場風のレセプションで鍵を受け取る。今日が二泊目だけれど、部屋の鍵の紛失を防ぐために預けておいた。今回の宿泊は、女性に依頼された寄稿のための取材も兼ねていた。
挨拶を済ませ、客室へと引き揚げかけたところで引き留められる。
「昨日のお土産、おいしかったです。従業員といただきました。あのお菓子、先月の雑誌に掲載されたものですよね。雑誌の寄稿、氷見さんがとても喜んでらっしゃって」
「そうやったんですか。ほんま、心ばかりのものですけど」
お口に合ってよかった、と愛想のいい笑みを浮かべてみせる。
雑誌の寄稿と同じ、大阪市中央公会堂で販売されている菓子缶を渡していた。
大阪の手土産、と聞いて咄嗟に浮かんだ相手は氷見だった。好みを察するに、モロゾフのプリンと同じく、正統で古典的な焼菓子のほうが喜ぶだろう。昨年の四月、四日市の近鉄百貨店で、初めて氷見と対面した時もモロゾフの喫茶店を指定してきた。
浮舟が頼んだ、サンドイッチのおまけのプリンも譲ったはずだ。
缶の中身は、モロゾフのファヤージュ。木の葉を象った、薄焼きの菓子の個袋。
菓子缶につられて、氷見のことが芋蔓のように手繰られる。今日の撮影では予定が立て込み、世間話めいた会話はほとんどなかった。それでも、据わりの悪さを覚えたのは事実だ。他愛ない会話でも、気まずさを気取らせぬ演技ができたはずだった。
記事を喜んでいた、などと聞かされればなおさら気に病む。
浮舟は、経営者に礼を言い、氷見の遅参を伝言してから部屋に戻った。
午後六時頃、準備の場に顔を出す予定で昼寝を挟む。ところが、熟睡してしまったらしく、寝坊に気づいた時には夜の九時を過ぎていた。受付まで降りると、制服姿の従業員から伝言とともに夕飯の差し入れを渡された。伝言の主は、洒落た和布の制服を手掛けた氷見だった。
準備を終えた後、現れない浮舟を慮って預けていったらしい。
「氷見さん、とても心配していらしたんですよ。かなり疲れてたみたいだから、とも仰っていて。念のために、御夜食も置いていかれたんです。今日はゆっくり休んで、とのお言伝も承りました。こちらの差し入れは、居酒屋さんのおにぎりだそうです」
従業員曰く、電話を鳴らしても起きなかったとのことだった。
自分の失態に、浮舟は呆然としながら感謝を述べる。丁重に謝罪を重ねた後、客室に引き返してから食事を摂った。六畳間の、板張りのシンプルな小部屋での夕飯。孤食ではあるけれど、氷見の気遣いを思えば贅沢なほどあまりにも温かい。
鮭、昆布の佃煮、焼きたらこのおにぎりを噛み締める。
夜分の電話を避けて、チャットで氷見に宛てて感謝を伝えておく。
翌朝には、遅い夕飯と風呂のおかげか持ち直していた。起床後、身支度を整え、荷物を纏めてから朝食の買い出しに出る。素泊まりのため、備品のレンジでコンビニのおでんを温め直して食べる。食事の後は、すぐに歯磨きと部屋の片付けに取り掛かった。
午前八時半前、チェックアウトを済ませて併設の店舗に移る。
画廊とも、雑貨店とも通じる、和洋折衷の内装はレトロで麗しい。
黒漆喰の内壁、正方形のタイルを並べた床も黒甍のように色濃い。儼乎とした飴色の竿縁天井、鋳物の照明に合うよう、正面の出窓は飾り窓を新調したらしい。吊燈籠を髣髴する間接照明が、格子や欄間を再利用した装飾を厳かに引き立てている。
木製の窓枠も、貫禄がありながらも艶やかな質感を留める。
奥まったL字型の角が勘定場で、接する壁に二段の棚板を設えて地元の特産物や加工品などを並べていた。中央には、窓枠や天井を揃えた、落ち着いた色調の木製の平台。皺になりづらい衣装が畳んである。確認用の姿見も、壁際に畏まるように立てられていた。
氷見の展示のため、複数のラックやトルソも持ち込んである。
今回の展示会は、写真の公開に先駆けての新作発表会だと聞いていた。
男女を問わず、寸法が異なる洋服が十数点は用意してある。素材となる生地は、春から夏にかけての着物地が多い。正絹の繻子もあれば、薄手の綿や麻布、銘仙や紬なども揃っていた。和柄や幾何学柄など、現代のテキスタイルを連想させる布地ばかりだ。
氷見の意向で、数基のラックに季節ごとの衣服を吊るしていた。
「おはようございます。昨日はほんまにすみませんでした」
浮舟は入口で、ラックを整理する氷見に躊躇いがちに声を掛けた。
極端に目を引く、自作だと言うシャツの鮮やかな図柄。松と波濤を描いた、派手な柄物の襦袢で仕立てた代物だ。年代物の男物の襦袢は、大胆な図柄をあしらったものもままあるらしい。白砂青松の摺絵を、濃紺のタックパンツと黒革のベルトで印象を引き締める。
括った黒髪には、白髪めいたハイライトが入れられている。
真鍮製のバレッタは、波小舟を彫った欄間を縮図にした精緻さだ。
前日の撮影で、写真家や美容師たちに掛けられた言葉を思い出す。浮舟に見合う衣装を、氷見が熱心に選りすぐったことは疑いようがない。仕事に贔屓目はご法度だが、好意に胡坐をかかないだけの分別はある。せめて、仕事だけは真摯に取り組みたかった。
仕事でなければ、氷見に合わせる顔がないような気さえした。
「浮舟君、元気そうでよかった。おはよう、今日は来てくれてありがとう」
「いえ、その、お礼を言うんは自分のほうです。準備も手伝わんと、自分だけ眠りこけて寝坊するやなんて。それに、夕飯の差し入れまで頂いてもうて。何やもう、お気を遣わせてばかりで申し訳ないです。助かりました、おにぎりもありがとうございました」
すみませんでした、と浮舟はぎこちなく頭を下げた。
足を止め、氷見の返答を待ちながら固唾を飲む。踵が床を叩く跫音と、暖房の稼働する音がいやに鼓膜を叱咤する。思わず顔を上げると、氷見が垂れ目がちな眦に皺を寄せていた。眉尻を下げ、歯痒そうな顰め面で良薬を噛んで含めるように言う。
撮影中は、まじまじと拝むこともなかった顔だ。
「自分を労わってあげてよ。昨日の撮影終わり、鳥肌立ってたでしょう」
氷見の指摘に、今更になって肌寒かったことを思い出した。
恐らく、着替えの際に目聡く気づかれたのだろう。金沢の地で、その実直さを買われているのも理解していた。写真家や経営者の女性も、氷見に信頼を寄せて親しんでいる。翻って、自らの存在が、氷見にとって有益であるとはとても思えない。
臆病で卑怯者の、本心さえ明かすことのできない男だ。
ばつの悪さに、話題を求めるように店内を見回してしまう。
偶然、目を留めたトルソは、昨年の撮影で浮舟が着用したガウンだった。
夏物だろう、白い綿の紗で仕立てられた丈長のガウン。白打掛と面紗を掛け合わせた印象の、薄く透ける白布を継いだユニセックスの上着。脹脛まで届く、垂れ衣のようなガウンは風に翻ると惚れ惚れするほどだ。蜉蝣の薄翅のようだ、ともSNSで評された。
「このガウン、譲渡希望の問い合わせが来たんだ。少し前にDMでね、非公開作品の販売について聞きたいって連絡があって。浮舟君が着てた、あの白いガウンがどうしても欲しい方から。婚約記念の品で、結婚式やお披露目会みたいな場で着たいらしくてね」
確かに、男物にしては、寸法もデザインも稀少な類だろう。
この衣装を着て、元医院のホテルの客室で撮影した写真が反響を得た。
けれど、それよりも、氷見に問い合わせをした人物に心当たりがあった。浮舟の先輩が、同様の内容をDMで送ってきたからだ。先月の時点で、浮舟は口利きの依頼を丁重に断っていた。元来、販売や譲渡において、仲介役に立つことは望まない性分だ。
心に蓋を被せ、手弱魚のような感情を飼い殺す。
譲渡するんですか、との問いに氷見は緩やかに首を振った。
「非売品だからとお断りしたよ。今後、誰にも売るつもりはないしね」
氷見は、浮舟の顔を眺めながらきっぱりと断言する。潔いまでの口吻に、思わずたじろげば、「どうせなら展示会の間、着てくれてもいいんだけど」と笑って続けた。浮舟が口を噤むと、自分が相応しいと思う相手に譲渡する旨を添える。
語る氷見の手が、愛おしげにガウンの肩を撫でるのを見つめていた。
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