如月 大阪  「魚上氷」

 白魚とは、春二月の季語として知られる小魚だ。

 浮舟の苗字にちなんで、俳句を好んだ祖母が白魚の名を授けた。

 白魚から派生して、白魚舟や白魚網なども同じく「春二月」の季語だった。正確にいえば、陰暦二月の季語、現代の暦であれば二月下旬から四月上旬頃か。祖母の署名が残る、掌に収まる寸法の「季寄せ」には、立春を過ぎてからを二月と定めるとも書いてある。名付け親の祖母は、俳人の稲畑汀子が編纂した「季寄せ」を愛用していた。

 恐らく、稲畑女史の定めるところを二月と信じたのだろう。

 季節外れにも思える、その春の季語で名前を呼ばれることは滅多にない。

 枕に頭を埋め、痰の絡む喉を鳴らせば嗄れた濁声に変わる。途端に咳が漏れ、暗んだ夜闇の泥のなかで飛沫となって散った。片頬に手を当て、まだ熱が引いていないことを悟る。汗で前髪の濡れた額には、温くなったままの熱冷ましのシートが張ってある。

 肌着も寝間着も、どちらもほんのりと体温で湿っていた。

 二日前、珍しく体調管理を怠り、無暗に風邪を拗らせて寝込み始めた。 

 ベッドの横には、和紙張りの間接照明を置いたサイドチェストを据えている。木製のチェストの天板には、経口補水液とプロポリスのミニボトルも備えてあった。市販の解熱剤や風邪薬などを揃えた自前の救急箱が役に立った。

 解熱剤は、夕食後に飲んでから時間が経っていない。

 悪寒に震えながら、ユニクロの保温毛布と羽毛布団を引き上げる。

 昨年の歳末セールで、熟考して買った北欧柄の毛布は手触りがよく温かい。灰色の地に白い水玉を散らした、丸い浮草の葉が連なるような図柄の化繊の毛布だ。口元を埋めたまま短く息を吐けば、毛足の整った毛布の内側に湿った呼気が蒸し込める。

 痰を飲み込み、生唾が溢れないように鼻で息をする。

 最悪だな、とは思ったものの身近に頼れる人間はいなかった。 

 独身でいるからには、大抵の物事に対処できるよう努めるよりほかにない。自前の救急箱や、緊急時に備えた食糧の備蓄も、浮舟なりに心掛けてきたことのひとつだ。今晩で熱が上がり切れば、明日の朝には峠を越しているだろうと楽観して構える。

 とはいえ、久方ぶりの熱で、脳が腫れたように重い鈍痛を訴える。

 熱に炙られた脳の奥では、沸騰した血潮が毛細血管の末梢まで流れていく。瞼を閉じれば、小刻みに振れる置時計の秒針が舌打ちにさえ聞こえた。前歯に舌を当てて、鋭い音を鳴らしているかのような錯覚。悪寒と頭痛、半端な熱はあるけれど嘔吐感はない。

 右に寝返りを打ちながら、敷毛布を毛羽立てるように掌で闇を探る。

 枕元には、念のため救急に繋げるようスマートフォンを侍らせる。救急ダイヤルではなく、救急車を呼ぶかどうかを相談できる窓口に連絡するためだ。大阪府や奈良県をはじめとして、全国の地方自治体の多くが救急医療の相談窓口を用意している。

 電源を点けると、液晶に浮かぶアラビア数字を滑る目で追った。

 二月十八日、午後九時五十八分。つまりは、誕生日の前日の夜更けだ。

 浮舟の誕生日は、黄道十二宮では魚座に分類される最初の日付とされる。占星学に興味はないけれど、不本意ながらやたらと魚に縁のある人生だった。白魚、という名前も、手弱女ならぬ「」ぶりが甚だしいと思わずにはいられなかった。

 祖母は何故、こんな名前を男の自分に付けたのだろう。

 体調を崩すと、普段なら気にもしないことまで癇に触れたがる。

 特段、厳格ではなかったが、礼節や品行には繊細な性質の老嫗だった。幼い頃から、共働きの両親にかわり育児を担ってくれた育ての親だ。祖父の没後も、父の実家で両親と祖母と暮らしたため、炊事や洗濯、掃除など家事の指南をひと通り受けられた。

 授かり婚の両親より、責任感の強い祖母に惹かれていたのは事実だ。

 その祖母にも、祖母にすら、浮舟はついぞ自らの本性を明かさずに看取った。

 今思えば、祖母は浮舟の性的指向を非難しなかったかもしれない。大阪生まれの祖母は、奈良の婚家で随分としごかれたようだった。良妻賢母、ないしは内助の功、時代錯誤ともとれる旧套に歯痒さを覚えたのだろうか。

 息子とは違い、孫である浮舟は自立するようにと育て上げた。

 臍を噛みながら矜持を貫いた祖母を、信じ切れなかったのが口惜しい。

 祖母の没後、浮舟は実家に帰ることがなくなった。時折、両親から連絡はあれど、積極的に帰省を促されることもない。盆や正月も、短い手紙を添えた歳暮を贈るだけに留めていた。親不孝な敬遠ぶりだが、育児を祖母にまかせた負い目か文句は言われない。

 浮舟は、苗字のほうが自身に似つかわしいように思う。

 心のどこかに、他者と己を分かつ分水嶺が引かれているのだ。孤独な舟が水面に浮くままに流されるようにしか生きられない。まるで浮草のようだ、と暗夜を眺めながら息を潜めた。葦原に漕ぎ出せば、孤舟は引き返すことも能わず艪を漕ぐだけだ。

 瞼が落ちるまま、泥濘のような眠気に意識の舟が沈んでいく。

 倦怠感と頭痛すら、まどろむ意識の泥舟ごと眠りの沼に埋もれる。解熱剤が効くよりも早く、副作用による睡魔に怠惰な眠りを望まれているようだった。秒針の音が遠退き、湿る肌着や毛布の感触もおぼろげな五感とともに蕩ける。

 気づけば、薄青く透ける水面をぼんやりと仰ぎ見ていた。

 甕の中にいるのか、暗く澱んだ水が頭上だけいやに明るい。時折、朝日らしい光が、細かな魚群となって躍る。氷魚か、白魚か、それとも育ち切らぬ鰯の群れか。甕に水銹が浮くように、綾目を描く光の網を潜る小魚が銀色の斑となって耀く。

 息を吐けば、泡もまた魚の群れに連なって游いでいく。

 井蛙のようだな、と思う。井の中の蛙、すなわち大海を知らぬ井蛙。

 あるいは壷中天か、との連想にやはり水甕が浮かんだ。ならば、壷中の魚ならぬ甕壷の中の白魚か。氷魚は鮎の稚魚だが、同じような見目でも白魚は成魚だ。氷襲のような、生白い小魚が吐息から生まれる。魚は泡であり、泡は絶えかかる息の粒だった。

 甕の中で、大海も見ずに溺れ死んでいくのだろうか。

 浮舟どころか、白魚ではないかと思うけれど掴む葦もない。死に行く者ならば、藁ではなく葦原に生える葦に縋るだろう。そもそも、白魚なのだから、掴むための手指がないのは当然のことだ。納得してみれば、帷子らしい着物を纏っていることに気づく。

 その着物に見覚えがある。病院着に似た、白装束の褄がほどけている。

 浮舟くん、と誰かの声が聞こえた。「浮舟やなくて、白魚て、」

 啜り泣くような、しとどに濡れそぼる言葉で目が覚めた。弛んだ瞼を持ち上げれば、睫毛に浮いた露が眦へと零れ落ちる。頬骨を伝って、乾ききった素肌を撫でながら垂れていく。目尻を抓めば、金屎のようにこびりついた目脂がこそげた。

 悪夢は、昨年出演したミュージックビデオによく似ていた。

 白河夜船か、と自嘲しながら、布地越しに朝日の染みる窓辺を見遣る。

 薄明りが白んで、厚手のカーテンの裾から漏れている。日が昇り始めても、暖房が切れた室内はやはり冷え込む。氷室のような部屋に、凍えた白檀のフレグランスが心もとなく匂い立つ。安堵の溜息を吐き、浮舟は見慣れた八畳間を首だけで見回した。

 手前は廊下で、奥にはベランダに面した窓とベッドがある。

 壁際に、簀子を畳めるベッドとサイドチェスト。簡素な机は廊下側、二段組みの段ボール製の本棚は間仕切りだった。右手の奥、やはり壁際に本棚があり、手前にはドロップハンドルの自転車。本棚の天板に籤のようなフレグランスを置く。机上を見れば、木目調の小物置きと置き時計、木版画家のポストカードを収めた写真立てもあった。

 壁には、黒革の合皮製のリュックも吊り下げられている。 

 現在の部屋は、八畳の洋室とキッチンや風呂などが付いた1Kだ。

 猫の額ほどの玄関に靴箱があること、なによりも風呂場とトイレが分かれているのがよかった。洗濯機や冷蔵庫の置き場にも困らず、寝起きする洋室にはクローゼットも備え付けられている。二口コンロも、自炊しやすいからと決め手のひとつになった。

 つらつらと考えて、頭痛はおろか熱さえ感じないことに気づく。

 恐らく、体温計で熱を測るまでもないだろう。寝汗で潤びた肌着が、背中にぴたりと吸い付くのが気持ち悪い。まるで本当に甕の中で溺れていたように思えてくる。片手をチェストに伸ばして、安物の体温計を取りネルの寝間着の襟元から差し込んだ。左脇に挟んだまま、枕元のスマートフォンで時間を確認しておく。

 午前九時二十五分とは、随分ぐっすりと眠り込んでいたものだった。

 僅かな間を置き、平熱まで下がり切ったことを示すアラビア数字を認めた。

 備蓄の解熱剤が効いたのは幸いだった。起き上がると、経口補水液を含んでから、フリースの上着に袖を通して寝床を抜け出る。ひとまず浴槽に湯を張り、朝風呂に浸かって寝汗を洗い流しておきたい。昨晩は、悪寒のせいで風呂に入るのを諦めたのだ。

 風呂が沸く前に、髭剃りと歯磨きを済ませようと洗面所に立つ。鏡を見ると、細い顎髭が神経質そうに生えそめていた。毛が薄いとはいえ、さすがに二日間も放置すれば無精が過ぎるだろう。やや汚れた鏡面に、露骨に窶れた頬骨の目立つ細面が現れる。

 青褪めた肌と、爬虫類めいた目元がいかにも物憂げだ。

 無精髭を剃ると、洗顔と歯磨きをまとめて済ませて服を脱ぐ。 

 洗面所、もとい風呂場に接した脱衣所に洗濯機も置いてある。洗濯機に下着や寝間着を突っ込むと風呂場に入った。桶で湯を汲み、掛湯をしてから窮屈な湯船に浸かる。膝を抱えて縮こまると、ぬるい羊水に浸かる胎児のような心地になる。

 浴槽の底で、溶け残った岩塩のかけらが蹠を刺していた。

 濡れた姿見には、薄い腹筋と肋骨の陰翳が浮く男の体躯が映り込む。

 湿った髪を洗ってから、卵白のような泡で肌を撫で回して湯を浴びる。愛用する牛乳石鹸は青箱で、乳白色の扁平な塊からほのかに甘い香りがする。赤箱は薔薇、青箱はジャスミンの香りらしい。地元の奈良や大阪では、赤箱がよく売られているから少数派なのだろう。

 再び湯船に浸かり、洗面台で濡れた髪を乾かして湯冷めを防ぐ。

 肌の手入れは、米糠の化粧水と乳液だけだ。最低限の保湿だけは欠かさない。

 洋室に戻る前に、右の壁に設えられたキッチンに立ち寄った。調理台、ステンレスのシンク、二口コンロが揃ったキッチンの横に単身者用の冷蔵庫。冷蔵庫の隣には、調理用の家電を置いた合板製のシェルフも備える。独身の男にしては、設備の整った台所だと自負していた。

 有難いことに、空咳や痰、喉の腫れもすっかり引いていた。

 今から仕度をするにしても、常備菜などを活用すれば時間はかからないだろう。外食などの交際費を鑑みて、自炊のための食材費は切り詰めている。安価な旬の青果、特売の肉や魚介類、期限が間近に迫った見切り品などを見繕う生活だ。

 最寄り駅の南に、浮舟が通い詰めているチェーンの食料品店があった。

 通い詰める、といっても週に二日ほどに買い物を控えている。冬場なら、特売の大根や白菜、水菜などを買うことが多い。塩で浅漬けにするほか、ピクルスやナムルなどの常備菜もこしらえられる。安値なら春菊も、青葱や韮の葉物は見切りのものを買う。

 最寄りは、近鉄南大阪線の今川駅にあたる。

 地下鉄ならば、谷町線の田辺駅と駒川中野駅が徒歩の圏内だ。

 東住吉区のなかでも、庚申街道の通る西今川の界隈は下町として知られる。まだ学生の頃、雑誌の取材で、西今川で暖簾を掲げた個人経営の書店を訪った。街の懐かしい風情に惹かれ、次に居を移すのならここにしようと決めたのだ。残念ながら、例の書店は移転したそうだが、三年前の大学卒業とともにアパートに転居してきた。

 この辺りは、民家や集合住宅が多いうえ食料品店も揃う。

 駒川中野には商店街もあり、自転車を使えばさらに便利な土地だった。

 今回、浮舟が風邪を拗らせたのも、週に三回ほど自転車で通うプールで泳ぎ過ぎたからだ。ジムなどではなく、東住吉区の公園にあるプールの屋内プールに通う。中学までは水泳部員で、水泳は特技を兼ねた趣味のようなものだった。夕方に訪れ、そのまま二時間ほど泳ぎ通してしまったのが悪い。過度な疲労は、思考を鈍らせるのに有効なのだ。

 無心で泳ぐうち、部活動のごとく時間が過ぎていた。

 原稿が立て込んでいなくてよかった、と浮舟はやつれた顔を歪める。

 まず食事の支度からと、冷蔵庫の扉を順繰りに開けて中身を確認する。祖母はよく、病み上がりの浮舟のために親子雑炊を作ってくれた。冷蔵庫には、大根のナムルと茹でた鶏ささみ。卵はないが、萎れた三つ葉とラップで包んだ冷ご飯が残っていたはずだ。

 鶏の粥に、三つ葉と大根のナムルを薬味に乗せるか。

 献立が決まれば、あとは手早く調理を済ませるだけだった。

 温めた白飯と、鶏ささみを茹で汁ごと煮立てて粥にする。土鍋で粥を煮る間、大根のナムルを保存容器ごとレンジにかける。萎れた三つ葉は、菜切り包丁で髭のような根を切り落としてから刻んでいく。幼児にしては珍しく、青臭い茎の香りを好んで食べたがった記憶がある。鍋蓋に掌を翳して、蒸気穴から噴き出す湯気の雲で暖を取る。

 結局、十分ほどで、鶏ささみを加えた粥がとろりと沸いた。

 蓋をかぶせる前に、大根のナムルと三つ葉を盛りつけて蒸らしておく。

 お盆に食器を載せながら、素人なりに自炊が板に付いたことを思い知る。水泳も、あるいは料理も、縷々と続く自問自答を打ち止めるのに都合がいい。せめて、食事を終えるまでは、自分を取り巻く何もかもを考えたくはなかった。

 洋室の扉を開け、お盆を胸の前に提げてから部屋に踵を返す。

 暖房を点けたおかげで、八畳の洋室は白檀が香るほど温かくなっていた。

 本棚の手前、ラップトップを片付けた机に盆を置いた。普段から、浮舟はこの机で食事を摂っている。孤食は不健康だ、とも言われるけれど慣れれば困らない。子供の頃も、祖母と囲む食卓に両親は不在だった。今の浮舟と、食事を摂りたがる人間はいない。

 いただきます、と丁寧に合掌してから土鍋の蓋を開けた。

 土鍋で粥を煮る間に、取り分けるための茶碗とレンゲを運んでおいた。

 麹を使った甘酒のような、とろみのある粥のなかにほぐした鶏肉が覗いている。ごま油の香りは、大根のナムルから立ち昇る湯気のせいだろう。三つ葉、鶏ささみ、千切りの大根を粥とともにレンゲで掬いあげた。三つ葉の茎の歯触りを楽しめば、独特な癖のある青い香りが鼻に抜けていく。大根や鶏ささみの塩気もいい塩梅にまとめていた。

 空腹だったらしく、黙々と食べ進めて土鍋を空にしてしまう。

 食後に緑茶を淹れてから、浮舟はベッドに腰掛けながら雑誌を手に取った。

 二月十四日付、三月号として発売された雑誌を眺める。表紙には、老舗の旅籠の窓辺でモデルの尾﨑琳汰瑯が読書に耽る写真を飾る。四月号と銘打つだけあり、春を先取りしたような淡色の薄着姿だ。手元の文庫本は、新潮文庫を裸に剥いたものと思しい。

 毎月十四日発売の、大手出版社が手掛ける男性向けの雑誌だった。

 寄稿者であるからか、事前に出版社から郵送で献本を受け取っていた。

 主題は小旅行、冒頭の特集誌面は「尾﨑琳汰瑯のひとり旅」の写真とエッセイ。尾﨑琳汰瑯とは、地方雑誌で同様の取材に同伴してからの友人だ。中盤には、著名人が手掛けた旅先の習慣や理想の旅程などの寄稿を割り当てる。最終盤、連載コラムの直前に、浮舟が依頼された「お薦めの手土産」が写真を添えて紹介されていた。

 雑誌の発売から二日後、浮舟のもとには意外な便りが舞い込んだ。

 二月十六日、誕生日に先立ち、前触れもなく届いたインスタグラムのDM。

 差出人は、高校時代に密かな恋慕を寄せていた先輩だった。就職時に上京して以降、疎遠となっていた人物だ。連絡先どころか、チャットアプリのアカウントさえもわからなかった。仕事で登録し直したのか、前触れもなく名前が消えたきりだった。

 あの頃から、浮舟の好意に勘付いていたのかもしれない。

 届いた当日に、水泳に没頭し、体調を崩して寝込む羽目になった。

 実のところ、背後から鈍器で殴られたような衝撃を受けた。頭蓋の、顳顬のあたりを金槌で殴打されるにも等しい所業だった。そして、衝撃を受けたことに、浮舟は引け目を感じてしまったのだ。氷見の寄せる信頼を、無碍にしている気がしてならなかった。

 雑誌を本棚に置くと、放置していたスマートフォンを手に取った。

 緊急の連絡だけは、受領した旨を手短に返してある。喫緊の依頼は、他を当たるように頼んで断らざるを得なかった。まずは、仕事の連絡が多いフリーメールアプリの整理からだ。件名を確認後、送り主と内容を精査して優先順位を付けていく。新着の多くは、個人間取引の仲介サイトからの通知だ。現在は、同人誌を中心に、個人からの校正業務を多く請け負う。

 整頓を終えると、通知の桁が増えたチャットアプリに移る。

 企業の宣伝らしい、新着のチャットを削除しながら連絡先を追っていく。仕事上の知人や、あるいは関係者は、ほとんどが漢字表記の氏名だから判別しやすい。先程、誌面で目にしたばかりの尾﨑から、四月号の雑誌の寄稿についての感想が届いていた。

 そして尾﨑の直後、順に追ったなかに氷見の名前もあった。

 氷見清之介、と常用漢字で書かれた個別のトークルームを開く。

 師走、正月と過ぎて、今年も初弘法の市で会ったきりだった。とはいえ、来月の第二週に、二泊三日で金沢に滞在する予定がある。氷見が発表する、新作の宣材写真を市内で撮影することになっていた。現在、被写体モデルの仕事は、氷見のものしか受けていない。

 昨晩に受信した、新着の連絡は撮影に関する追伸だったようだ。

 撮影場所のホテルで、臨時の展示会を行うから参加しないかとの打診だ。撮影の翌日、つまり滞在の三日目、ホテルに併設した店舗を作品展示の場とするらしい。前回の撮影にも同席していた、現地で宿泊業を営む女性経営者の発案だとも書かれていた。

 顔を出さないか、との誘いが遠慮がちに述べてある。

 既読を付けた以上、氷見に返信したほうがいいことは分かっている。

 この二日間、浮舟は意図して氷見のことを避けていた。だから、新着の連絡にも、気づかないふりをして見過ごした。氷見に告白した際、「都合のいい男でいる」と言ったのは浮舟自身だ。調子のいい、出鱈目なことを嘯いたものだった。半端者で、氷見を掻き口説くだけの資格もない。今更、自らが不釣り合いな人間にしか思えないとは。

 所詮、井蛙のような卑怯な男なのだ。

 名も苗字も、浮舟白魚という名前が己にはそぐわない。

 誕生日であることすら、浮舟という人間の怯懦を糾弾するようだった。

 返信の文面を考え、うまく言葉を捻り出せずに何度も打ち直す。遅れを詫びる挨拶から始まり、展示会への参加と作品の制作を労う言葉を綴る。けれど、初恋の相手である先輩が、婚約の記念に氷見の作品を求めているとは書けなかった。


【参考文献】

『ホトトギス季寄せ』 稲畑汀子編、三省堂、一九八七年

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