君は艫なりや
睦月 京都 「氷面鏡」
初弘法の市は、浮舟の想像を容易く凌ぐ盛況ぶりだった。
紙コップを片手に、蓋のかわりに翳した掌で甘酒の湯気を受ける。
東寺、もとい教王護国寺の南、裏手にある細い間口の穴門へと続く参道の神社前。無骨な礎石を組んだ石垣と、朱塗りの玉垣を四囲に巡らせているのは鎮守八幡宮だ。丸めた猫背が玉垣に触れないよう、羊毛の襟巻に顎を埋めながら紙コップで両の掌を温める。
素肌を鑢で削るような、冴えざえとした寒さに手指が悴んでいた。
足元は、新品のスエードの運動靴。襟巻と同じ、青みがかった灰色で揃えた代物だ。
裏起毛のデニム、白のハイネックと濃紺のニットベスト、銀鼠色のキルティングジャケットという冬の格好でもなかなか寒い。弘法市に行くからと動きやすさを重視したが、冬の京都にはかなわない。盆地に溜まる寒気は、裏地つきの綿の靴下越しにも忍び入る。
京都駅の南西、壬生通と国道に挟まれた寺院の敷地は驚くほど広い。
筋塀伝いに参道を見れば、鍋やザルなどを売る金物屋が店を構えていた。運動会で見かける、救護用のテントのような四つ足に布を張った露店だ。随分前、取材で来た時には、アジアの雑貨や革製品を売る店が出ていた。玉砂利にブルーシートを敷き、用途に応じた多種多様な鍋や道具を並べる。雪平鍋や、槌目の細かいボウルなんかも置いてある。
乾いた唇を開けば、湿った吐息が寒気にゆっくりと霧散していく。甘酒を買った時、念のため手袋を外した両手でぎこちなく紙コップを運ぶ。乾いた唇をつけて啜れば舌に沁みる麹の甘み。凍えた体の芯が、喉をなだれ落ちた甘酒に胃の底から温められる。
こんな調子だと、氷見といつ合流できるかも怪しいものだ。
今日は、京都市内で、氷見清之介の「買いつけ」に付き合う予定だった。
金沢在住の氷見は、古着物のリメイク作家として界隈で名を馳せる。仕事を始めた当初から、東寺の市に定期的に通って古着物を買い付けてきたらしい。京都駅前、八条東口近くに常宿があり、贔屓の露店で掘り出し物を狙うことにも慣れている。
通い慣れた氷見が、裏手の「穴門」の近くは穴場で空いていると助言してくれた。
築地塀を背に、露店が立ち並ぶ参道は人波でごった返している。まさに、足の踏み場もないという慣用句が相応しい初市の繁盛具合に苦笑が漏れた。氷見の話では、師走の酉の市と比べれば控えめなほうだそうだ。甘酒を啜りながら、境内を行き交う人影を酩酊したように眺める。
所謂、人酔いというやつだ。この辺りは、まだ流れが緩やかに見える。
浮舟自身、人波に揉まれるのはさほど得意じゃない。
仕事柄、混雑する場所も訪れるが、やはり書き入れ時は避けたくなる。東寺の弘法市は、毎月二十一日の開催で、境内のほとんどを露店が埋める。焼餅や甘酒の屋台から、金物屋や骨董品を売る古物商、新進気鋭のハンドメイド作家まで多様性に富んでいる。今日の市にも、取材をしたことのある真鍮作家が出店していた。
慣れさえすれば、常連として通い詰めたくなる醍醐味があった。
実際、取材の際は、「弘法市の魅力を再発見」というタイトルで筆を執った。
勤務していた雑誌の編集部が、若者に京都を紹介する特集を組んだからだ。通な読者に、古着や小物、小粋なヴィンテージを仕入れる穴場として取り上げたのだ。現在は個人で記事の執筆や校正業務を受けているが、当時は編集部の契約社員として働いていた。
あの時は、古着ばかりで、着物までは紹介しなかったなと思い返す。
露店のなかには、古い着物を扱う店もかなり多かった。着物を専門に扱う店にとどまらず、骨董や中古品を売る雑貨屋にも畳んだ着物が山積みになっていたりする。レトロな食器、ブリキの玩具や絵葉書に混じって、派手な着物を吊るしたラックもあるほどだ。
「浮舟くん、遅くなっちゃってごめんね」
右肩を叩かれ、思わず野良猫のようにびくりと首が竦んだ。
浮舟が振り向けば、氷見清之介が膨れたリュックを背負って立っていた。
朱塗りの玉垣の角に立っていたせいで気付かなかったようだ。神社の脇は、南大門前まで広がる砂利敷きの広場だ。裏手の南大門から、正面の金堂に至るまで、参道の両端には屋台や露店が軒を連ねる。境内をくまなく渉猟してから戻ってきた様子だった。
薄手のダウンベスト、焦茶のツイード地のジャケットがよく似合う。
境内で別れる前、首に巻いていたスヌードはとうに除けたらしい。起毛のスヌードが、砂糖衣で固めたドーナツみたいで可愛かったのが残念だ。前髪をひっつめにしているからオールバックに見えるが、毛先の明るい黒髪をバレッタで纏めてある。
伊達の薄茶の色眼鏡も品定めのためにはずしていた。
「あ、甘酒飲んでたんだ。境内で飲むと、いつもよりおいしく感じるんだよね」
「自分だけすみません。あの、氷見さんも飲むなら買うてきます」
「いや、そこまでは。……ひとくち分けてもらえる?」
この人混みのなか、露店を巡って物色するのはさぞ疲れただろう。数口ぶんしか残っていないが、境内の寒気で乾いた喉を潤す足しにはなる。紙コップを手渡すと、空いた右手で髭を剃った口元に運ぶ。軽く口に含み、甘酒の熱を馴染ませるように飲み下した。
「ええですよ。残り、ぜんぶ飲んでください」
氷見が、じゃあ遠慮なく、と時間をかけて喉を潤すのをじっと待つ。
背後には鎮守八幡宮の拝殿、銅板を葺いた立派な入母屋造りが建っている。初市だからだろうか、玉垣の板や拝殿の鮮やかな洗朱がいやにめでたく見える。玉垣の内側には、枝葉を剪定された落葉樹が生えており、僅かながら残された梢が玉砂利に葉の影を落としていた。木陰の乏しさよりも、裏手から差し込む日差しのぬるさのほうがありがたい。
東の方角を見れば、五重塔が朝の白んだ陽光を沐浴して霞んでいた。
「今回の収穫はどうでした? ええもん見つけはった?」
「ううん、初市だとなかなか見つからないかな。年輩の女性物の羽織と、仕立ても生地もいい男物の着物を何着か。掘り出し物ではあるけどヴィンテージだと思う。綸子の羽織とかいい生地だった。どうしても、派手な女物が多かったりするんだよね」
ごちそうさまでした、と氷見は乾した紙コップを軽く振った。
氷見との会話は、昨年の四月に出会った時からあまり変わり映えがない。
氷見の作品の宣伝のため、撮影モデルの依頼から始まった関係だ。編集部員の頃から、街頭撮影などの被写体モデルも請け負う。現場での撮影や取材などを通じて交際まで漕ぎ着けた。実際には、阪神百貨店のカフェで交際を申し込んでくれたのは氷見のほうだ。最近ではお歳暮の贈り合いと、チャットのやりとりだけが続いていた。
彼氏やら、恋人やらと呼んでみてもあまり実感が湧かない。
今日の買いつけも、デートと言うよりは同伴取材みたいなものだ。
「こればっかりは運だからね。浮舟くんは、何か気になるお店があった?」
「ああ、そういえば、昔に取材した真鍮作家の方がいてはって。挨拶はさしてもらいました。正月やから店や品揃えが違うんかもしれませんね。骨董屋なんかな、それこそヴィンテージの、綺麗なカフスやブローチなんかは見てて楽しかったですけど」
「そっか、お会いできてよかったね。……もしかして、ちょっと調子悪い?」
やっぱり寒かったかな、と氷見が眉尻を心持ち下げる。瞼を半端に眇めて、垂れ目がちでつぶらな瞳に浮かべた純真そうな思慮。整えた眉黛が、険しい山嶺を描くように顰められた。塩顔の範疇に収まる面に、齢相応の渋さとあどけなさを縫い合わせている。
年上の恋人ながら、裏腹な印象が可愛らしいと思う時がままあった。
「軽く人酔いしただけなんで、気にせんといてください」
「とりあえず、京都駅に戻ろうか。烏丸御池までは堪えられそう?」
「今、十一時前ですけど、まだお昼食べるんは早いですか。もし氷見さんがええなら、京都駅の近くにおすすめのうどん屋さんがあるんです。昼時は混むけど、今から行けば空いてると思います。そこで休憩がてら早めの昼食はどないですか?」
うどんとか、中華そばとか稲荷寿司なんかも旨いんです。
今日の旅程の素案は、甘酒を買い求めながらなんとなく練っておいた。
今朝、東寺までの行きしなでは、市営地下鉄の烏丸線で烏丸御池まで移動する予定だった。初市の混雑具合から時間がかかるだろうと踏んで、昼食を挟む案が浮かんだだけだ。幸い、目当てのうどん屋は、八条東口を出て室町通を南へと下った裏通りにある。
目印は、室町通と東寺通の交叉点。徒歩で十五分もかからないだろう。
「あ、それもいいね。もしかして、知ってる店かも」
氷見が挙げた店名が、浮舟の想定とぴたりと符合したのに笑う。
結局、東寺道を東に向かって引き返すことにした。境内を戻る気にはならず、紙コップを捨てるために南大門の前にある屋台に立ち寄る。店員に声を掛け、潰した紙コップを屑籠に放らせてもらった。築地塀を横目に、慶賀門のある丁字路まで歩いていく。
何度かスマホの経路案内に頼ったものの、さほど遠くはなかった。
二階は住居らしく、掲げた白看板と甚三紅の暖簾が昭和めいて懐かしい。店先には、「うどん、丼物」と太文字で書いた看板が立つ。左の窓辺を見れば、通りに面して福助の置物が鎮座する。薄紅色の暖簾が白抜きの「うどん」の筆文字を天日に晒していた。
横に引き戸を滑らせ、前屈みになりながら暖簾と鴨居を潜る。
店内は、昔ながらのうどん屋の造りだった。磨硝子を嵌めた格子戸から、店前の通りを歩く人影が影絵のようにおぼろに覗く。入口の左脇には、観葉植物の鉢植えと旅行客のスーツケース。タイルの床に、四角の机と硬い木製の椅子が並ぶ懐かしい店構え。右奥が調理場と勘定場で、薄茶色にくすんだ壁に品書きの紙が貼ってある。
調理場の手前、壁際に置かれた四人掛けの席につく。
湯呑を受け取り、二人前の中華そばを頼んでぬるい茶を啜った。東寺からの帰りしな、中華そばを食べることは決めていた。観光客向けに、英語が併記された品書きがあるあたり繁盛具合が窺い知れる。最近では、雑誌や書籍でも取り上げられる繁盛店だ。
右隣の壁にも、名物の「たぬきうどん」のビラを掲げていた。
「中華そば食べるのははじめてだな。いつも鳥なんばばっかり」
「自分はここの中華そばが好きで。あと、たぬきうどんも旨いですよ」
京都のたぬきうどんは、油揚げを刻んだ餡に生姜や葱を添えたものだ。京都では普通の品だけれど、東京生まれで鎌倉育ちの氷見には珍しいだろう。たぬきうどんに限らず、京都は餡を使ったうどんが多く、卵で綴じた餡をかけた「けいらん」なんかもある。
茶渋にくすんだ店内で、暖房にだしの芳香がほんのりと匂い立つ。
「ああ、ご当地たぬきうどん。別の店で、けいらんなら食べたことあるかな」
お待ちどうさまです、と運ばれてきた丼に目を奪われる。
薄靄のような白い湯気が、醤油の利いただしの香りを蒸し込めていた。
前を見れば、箸を割った氷見が中華そばに合掌する。黄味の強い細麺が沈む、醤油が濃い目の澄んだだしには脂の溶けた泡が揺れる。山盛りの青葱と二枚の叉焼、うどんと同じピンク色のかまぼこ。葱山の頂から、肌理の細かい胡椒を振りかけた中華そばだ。
浮舟も手を合わせ、卓上の箸入れから箸をとって割る。
思わずつゆを啜れば、食道が熱で焼けつくように火照った。
箸で細麺をつまみ、青葱とともに控えめに吸い込む。絶妙な茹で具合の中華麺が、だしと胡椒と葱を搦めてつるりと喉に流れる。その喉越しを引き立てる、濃い旨みを感じるつゆが堪らなくおいしい。青葱と細麺に合う叉焼も、噛み応えのある厚さと味付けが堪らない。
麺を啜り終わっても、丼の底が見えないほど濁ったつゆが後を引く。
つゆが名残惜しく、何度もレンゲを口に往復させてしまう。
食後の合掌を済ませた氷見が椅子に置いたリュックを漁りだした。やけに膨らんだポケットに片手を入れる。ぎこちない手探りで、上端を折った小さな紙袋を取り出した。
「これ、弘法市で待たせたお詫びに。浮舟君の服に似合うかなと思って」
「え、いやそんな。……ほんまにええんですか」
驚愕よりも、気を遣わせた罪悪感のような後ろめたさが勝った。
浮舟が問い返せば、氷見は「貰ってもらえると嬉しい」と頷く。素直さに拍子抜けして、ありがとうございますと両手で紙袋を受け取った。蠟を引いたような、張りのある質感の白い紙袋を丁重に開く。重量のある中身は、牡鹿を象ったタックピンだった。
黄金に近い、黄色に寄った綺麗な金色が手元で輝く。
牡鹿の角には、枝に生る果実のような小粒の真珠がいくつかあしらわれている。今にもこぼれ落ちてしまいそうな繊細さだ。真鍮に似た、何某かの金属らしい。鼻と瞳だけはアラザンめいた銀色で、精悍な胴には刷毛筋を連想させる毛並みが刻んである。
「ヴィンテージなんだけど。奈良出身だから、鹿が浮かんじゃったんだ」
つい目が合って、との言葉に息が詰まりそうになる。
奈良出身だからと、鹿を選んだ人間にはほかにも覚えがあった。今では連絡先すらもわからない、高校の先輩が使っていたチャットアプリのアイコン。芋蔓のように、奈良公園で撮影された鹿の顔を思い出して、大人げない動揺を悟られないよう笑みを繕った。
「えらい嬉しいです。ありがとうございます」
「その鹿も浮舟君に気に入ってもらえて喜んでるよ」
昨年、交際を始めた氷見は、浮舟のことをとても気にかけてくれている。
浮舟は同性愛者だが、氷見自身は恋愛経験の乏しい異性愛者だと聞いていた。全日制の専門学校時代に、同級生の女生徒と付き合ってすぐに別れたらしい。相手の性格にも因るだろうが、彼氏として課された役割が当時の氷見には重荷だったのだそうだ。
ならば、今の状況はどうなのだろう。氷見は、無理をしているのかもしれない。
「この後も、買いつけに付き合ってもらえるかな。行きつけのお店があるって伝えてたと思うんだけど。そのお店も、昔のボタンやビーズを輸入して取り扱ってるんだ。カフスに興味があるなら、ヴィンテージのボタンとかも見てみると面白いかもね」
弘法市を見た後は、富小路通沿いにあるビルを訪れる予定だった。
事前に調べた情報では、富小路通と三条通の交差点あたりのビルらしい。大正時代に建築された骨董物のビルに入居する手芸用品店だ。烏丸御池の駅からは、三条通を西にまっすぐ進むことになる。駅周辺は結構な繁華街で、京都国際漫画ミュージアムなどの観光名所や飲食店も数多くある。もともと、駅の近場で何某か昼食を取る予定だった。
ふたりでうどん屋を出て、室町通を北に遡って京都駅まで戻る。
市営地下鉄に乗り、京都市内を南北に貫く烏丸線で烏丸御池駅を目指した。
地上に出ると、地方銀行のビルを目印にして交叉点を左に折れる。三条通はかなり細く、石畳を敷いた道路の端を慎重に歩いて行く。東洞院通の角に、赤煉瓦が鮮やかな洋風建築が目に留まる。大阪の中之島にある中央公会堂を思い出させる豪奢な造りだ。
三条通沿い、特にこの界隈は旧建築のビルが多く立ち並んでいた。
目当てのビルも、有形登録文化財らしい建築物だった。
角張った石造りの建築は、華美な装飾を削ぎながらも上品で瀟洒に見える。
左右対称の棟は、思わず青空を見仰ぐほどに屋根が遠い。乳のような冬の日差しが、素人目には石材らしき外壁を淑やかに垂れていく。直線的な意匠は、花崗岩の白さを際立たせて上品だ。横長の石材を重ねた下層と、モザイク画のように細かい目地に覆われた上層。中央に玄関があり、上部は円筒型の装飾窓が三条通へと張り出していた。
緻密な浮彫はなく、方形と円形を器用に組み合わせた意匠が美しい。
「この建物も綺麗ですね。大正時代の建築なんでしたっけ」
「そう、中もレトロでおしゃれなんだよ。昔の建物も好きだから嬉しい」
狭い玄関を入れば、右手には化粧品店の店舗が店を構えていた。
高い天井は、木板を継いで細やかな装飾を凝らす。上階へと続く階段は、手摺りも欄干も往年の落ち着いた質感を留めたままだ。飴色の手摺に触れると、傷跡の目立つ木材の硬い感触が指をなぞる。壁紙は生成色だが、下半分は階段と同色の木板を継いである。
三階のフロアは、木造の旧校舎のような懐かしさが漂っていた。
頭上から、照明の柔らかい光が踊り場まで降り注いでいる。
学校のようだと思ったのは、壁に設置された火災報知器の赤色が目立つからか。木造の印象を強調するように扉や廊下に備えられた椅子なども濃茶色で揃えてある。正面は美容院の店舗で、洗髪材らしい芳香が開いたままの扉から溢れていた。
板張りの廊下は、慎重に踏み締めてもなお硬質な靴音を響かせる。
「静かでいいでしょう。ここに来ると落ち着くんだ」
「ええんですか、こんな穴場みたいなところ教えてもうて」
浮舟の何気ない相槌に、氷見が豆鉄砲を撃たれた顔をする。
途端、浮府は、自らが氷見との距離を掴みかねていることに気づいた。
高校生の時、男性しか好きになれないことを自覚した。当時、進学先の高校で、二学年上の先輩に好意を寄せた。先輩は同性で、そして恐らく異性愛者だった。純朴な恋心を把握したところで告白する気にはならなかった。見込みがない恋に溺れたくはなかった。
恋を諦め、学業や仕事に没頭する人生を望んで歩んだ。
「浮舟くんは特別だから。それに、言いふらしたりしないだろうし」
幼気なのか、無垢だからか、臆面もなく言い返しながら見詰めてくる。
交際を決めたのも、氷見が浮舟の仕事を慮ってくれたからだ。梅田にある阪神百貨店のモロゾフでの問答を思い返す。氷見の依頼で撮影した写真が呼び水となり、望まぬ依頼や仕事が舞い込んだのではないかと氷見は葛藤していた。
氷見の前では、まるで鏡を覗き込むように本性が露わになる。
だからこそ、浮舟も魔が差したのだ。気づけば、好意を口に出してしまった。
あの時の謝罪は、浮舟の人生を棒に振ることを危懼してのものだろう。所詮、赤の他人でしかない、ただの仕事相手にさえ思い詰める律義さに気が緩んだのだ。無意識のうちに、氷見の上着の袖口を掴んだまま、「ありがとうございます」と言っていた。
躊躇って口を噤むと、力の籠る指先が溜まる血潮で赤らんでいく。
いいものが見つかるといいね、と氷見は目を眇めて笑った。
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