12月 大阪  「氷魚同舟」

 氷見の目の前で、浮舟白魚はあどけなく笑ってみせる。

 氷見さん、お久しぶりですね、と四カ月ぶりの再会の挨拶に顔を上げる。

 大阪府大阪市にある、阪神百貨店梅田本店の五階の「カフェモロゾフ」を待ち合わせに指定したのは浮舟だった。今回の百貨店での催事は、製作期間を設けたうえで請け負った合同出店だ。阪神百貨店の八階では、定期的に作家の展示会やコンセプト展が開催される。複数の作家との合同展示を請ける、と浮舟に伝えれば「顔を出します」との返信がきた。

 この梅田本店は、昨年から建て替え後の再営業を始めた。

 十二月初頭、催事場を含めたフロアの一部が開放されたのだった。

 百貨店の五階とはいえ、喫茶店というよりカジュアルなカフェらしい内装だ。新装開店にともない、フロアに合う明るく落ち着いた色調でまとめられている。薄い白木の色合いの、網代模様の床板には、白や灰色を基調としたミニマルな調度品が揃う。店内のあちこちに、種類の違う観葉植物が配置されており、白緑色の合皮のソファともよく合っていた。

 二人掛けのソファ席には浮舟がすでに座っていた。

 まさか、あの時は、ここまで話題の人物になるとは思わなかった。

 浮舟が手を振り、銀縁眼鏡をかけた目元を悪戯っぽく緩ませる。初対面の時よりも、さらに打ち解けて見えるあどけない仕草だ。長い睫毛と、頬骨の目立つ面長の顔はどこか手弱女の風情を纏っている。あの映像と比べ、健康的な体格に戻ったとはいえ贅肉などほとんどない。

 眉毛も、丁寧に整えられて筆で墨を引いたようだ。

 氷見はまじまじと、気安く品書きの冊子を差し出す浮舟を見た。

 最近の仕事でも、尾﨑琳汰瑯のエッセイの校正を引き受けたと注目された。浮舟のことは、個別の連絡だけでなくSNSなどの投稿でも追っていた。最終更新は二日前、刊行されたばかりの尾﨑琳汰瑯のエッセイ集の書影の投稿だった。概要欄を見れば、友人の依頼を受けて文章添削を担当したとの説明があった。尾﨑の著書にも、親しい友人なのだと後記にも記されていた。

 この男なら、確かに尾﨑の依頼を断るはずもないだろう。

 本業は文筆や校正業で、友人の著書の監修にはまさに適任だった。

 露出が増えたせいか、容姿や服装がより人目を意識するようになっていた。質感はそのまま、適度にワックスを使って整えた柔い黒髪。襟足は刈らず、前髪の分け目を変えて手櫛の束感を強調してある。薄化粧でも整った肌と、櫛通りのよさそうな髪の黒さの対比が絶妙だ。薄青いハイネックのニット、白シャツの重ね着は、ハイウェストの灰色のボトムで腰を絞ってある。

 革の吊りベルトと、チタンらしい金属製の銀縁眼鏡は垢抜けた雰囲気だった。

 すみません、もう飲み物だけ頼んでますと断るように言う。

「ご無沙汰してます。お変わりありませんか?」

「いえ、こちらこそお久しぶりです。おかげさまで元気にやってます。浮舟さんこそ、お忙しいのにご足労いただき恐れ入ります。先日出版された、尾﨑さんのエッセイ集も拝読しました。この間、インスタグラムに書影を投稿されてらしたので、つい気になって購入したんです」

「ありがとうございます。僕も、文章関連の仕事ができて良かったと思ってます」

 勉強になりました、とは本音だろうか。

 浮舟は、氷抜きの紅茶のグラスを取りながら相槌を打つ。

 氷見が「尾﨑さんもお変わりないですか」と返すと、レンズ越しに目を合わせたまま機嫌よく破顔してみせる。京都での個展後、MVの衣装制作を終えてから、尾﨑琳汰瑯にリメイク作品の発注を受けたのだった。浮舟の話では、尾﨑琳汰瑯は氷見の作品を愛用しているそうだ。

 大島紬の、三崩しの柄の開襟シャツ。納品後、尾﨑から感謝の連絡が届いた。

 浮舟とは違い、あくまでも顧客と納品側の関係でしかない。京都の画廊で、名刺を交換したけれど親交があるとは言い難かった。尾﨑だけでなく、目の前で紅茶を啜る浮舟でさえ、多忙で連絡が取れなかったのだからなおさらだ。どちらも、遠い存在のように感じ始めている。

 向かいの浮舟は、湿った唇を開くとやわらかく笑いかけた。

「氷見さんも、今回の展示はかなり盛況でしたね。先程、八階の企画展を拝見しましたけど、展示作品も成約済みのものばかりで驚きました。もちろん、他の方の作品も興味深いものばかりで。ただ、氷見さんの新作が、あれほど注目されてはるとは思ってませんでした」

 おめでとうございます、との祝福に虚を衝かれたまま頷いた。

 まさか浮舟に祝われるとは思わなかった。展示作品は、八割がたが売買の成約済みだ。

 時間は午後二時過ぎで、浮舟は品書きの冊子を覗き込んでいる。午前中は、市内の服屋や雑貨屋を中心に、作品展示や即売会の打診を受けた店を回っていた。複数のアポの都合、移動に時間を取られ昼食を食べ損ねてしまった。出来るなら、軽食でも食べたいというのが本音だ。

「おなか空いてます? 何か食べはりますか?」

「ああ、そうですね……ああ、そうだ、サンドイッチとか」

 ふと、浮舟が、近鉄百貨店の店舗で食べていたサンドイッチを思い出した。

 冊子を捲り、軽食のページに目を滑らせていく。四日市の喫茶店では見かけなかった、ホットサンドやサンドウィッチの種類もある。つけ合わせも、果物ではなく葉野菜のグリーンサラダのようだ。迷ったすえに、店員を呼んでプリンのついたサンドイッチのセットを頼んだ。

 浮舟は、円型のワッフルと小皿を言づけた。

 それから、「ワッフルも、半分あげますからね」と小声で続ける。

 思えばあの時も、サンドイッチのセットに付属したプリンを譲ってくれた。もしかしたら、浮舟はずっと体重管理を続けていたのかもしれない。浮舟は、律儀で生真面目な人間だ。モデルの仕事が立て込めば、食事制限など体形維持のための努力を強いられるはずだ。

 不安になり、紅茶をちびちびと飲む浮舟を見た。

「ダイエットしてるんですか? その、ワッフルは食べても大丈夫?」

「あはは、ほんま心配性な方ですね。いや、正直、燃費悪いほうやから。そら、撮影の仕事の前は、さすがに食事制限とか運動とかはしてましたけど。でも、しばらく、撮影関係の仕事はお断りするつもりなんです。ワッフルは、氷見さんがおいしそうに食べてはったから」

 ふ、と眦をさげるなり、緩めた口端からおかしそうな笑い声が漏れる。

 浮舟の、あっさりとした告白に拍子抜けしてしまう。

 仕事を選ぶタチだ、とは言っていたが躊躇なく断れるのには感心する。相手からすれば門前払いもいいところだろう。どうやら、自分の可能な範囲で、興味のある仕事を真摯に務めることが流儀のようだった。貧乏性や、守銭奴とは違い、舞い込んだ依頼に拘泥しないらしい。

 浮舟は、真面目で実直な人間なのだ。だから、自分にできることを取捨する。

 気がつけば、氷見の口からは謝罪の言葉が溢れていた。

「浮舟君に、ずっと謝りたいと思っていたんです。俺のせいで、浮舟君が望んでいないような仕事が増えたんじゃないかと。浮舟君は、とても真面目で誠実だから。きっとどんな仕事でも無碍にはしないでしょう。だから、無理を、嫌な思いをさせたんじゃないかって」

 言い募りながら、自分の感情をようやく把握する。

 氷見は、浮舟白魚という人間を使い潰すことが怖かったのだ。

 もし、氷見が浮舟にモデルの依頼をしなければ。無用な詮索や、迷惑なリプライ、執拗なコメントに困ることもなかったはずだ。投稿サイトの日記、無料記事までコメントが急激に増加していた。インスタグラムの投稿写真なんて目も当てられない。

 新規の仕事にしても、執筆や校正業務を受けられたとは思えなかった。

「あのミュージックビデオを見て。自分が、自分の選択が怖くなった」

 浮舟は、どんな気持ちで役を演じ終えたのだろう。

 双子役で、同じ顔の兄弟を演じ分け、あまつさえどちらも死へと向かう。孤独な死出の路を辿る、たった四分間の映像のためにどれだけの時間を費やしたのか。試聴用に送られた、ミュージックビデオの映像を観た時の衝撃を忘れることなどできない。

 浮舟は、確かに映像のなかで自らを殺めて見せたのだ。

 その仕事を、残酷な重荷を、浮舟に背負わせたことに恐怖を覚えた。

「どんな気持ちだったんだろう、と思いました。あんな残酷な、自分で自分を殺めるような役を演じるなんて。自分のために、兄の人生に縋って、自分のために弟を見殺しにするような。まるで互いを、互いのために犠牲にするような人間を演じさせて」

 その役を、君に背負わせたような気がして怖かったんです、と呟く。

 傲慢な考えかもしれない、とも理解していた。仕事を引き受けるかどうか、その選択権はいつだって浮舟にあるのだ。だが、浮舟自身が、京都の画廊で言った言葉を忘れられなかった。「氷見がモデルに選ばなければ、幸運に恵まれることはなかった」と告げた。

 初対面の時にも、自らをだと喩えてみせた。

「氷見さんは、あの動画のあらすじをどう思われましたか」

 唐突な質問に、氷見は話を遮られるがまま言葉に詰まる。結露を眺めていた浮舟が、紅茶のグラスをテーブルに置きながら尋ねていた。銀縁眼鏡の、灰色がかったレンズを通過する透徹な眼差し。冷酷とも薄情とも違う、清冽で濁りのない純粋な聡明さに見透かされるようだった。

 目を逸らせば、グラスをゆっくりと垂れる水滴が目に留まる。

「僕は、あれを心中未遂の話やと思たんです。最初のうちは、題名通りに『』や思いました。でも、実際に演じてみたらまったく違ったんです。ああ、この弟はきっと、兄さんと心中したかったんと違うやろか。そしたら、手紙も薬入りの麦茶も、兄を殺すための準備や思えてきた。ほんま、不思議な話やけど、『弟』として撮られてようやくわかったんです」

 意外な話の展開に、浮舟の顔へとはずしていた視線を戻す。

 浮舟は、氷見が目を合わせるのを待ち構えていたように薄く笑んだ。

 薄い瞼を伏せて、僅かに端正な眦を緩めた無垢な表情だった。ひたり、と焦点がかち合ったばつの悪さに顔を顰めそうになる。とても、動画で演じていた兄弟とは似ても似つかない。返答に困り、思わず歯噛みしながら目を背けてしまう。

 その直後、ギャルソン姿の店員がホットの珈琲を運んできた。

 小声で礼を言うと、熱い陶器のふちを唇で食みながら目顔で話を促す。

「僕はきっと、あの兄弟みたいにはなれへん。人間はひとりでは生きていけませんよね。他者は命綱みたいなもので、多ければ多いほど頼るよすがも増える。それはええことなんでしょう。でも、僕はやっぱり、あの兄さんみたいにはなれへんやろなと思う。たったひとりで、誰かの命綱として生き続けるなんて無理や。誰かのために、頼みの綱で居続けるなんてできへん」

 他者に、誰かに、ずっと寄り添っては生きられない。

 誰かのための命綱として、生き続けるようなことはきっとできない。

 そやから謝らんといてください、と言いたがる浮舟はすべてを見抜いている。

 瞬きをすれば、瞼の裏ではマグネシウムを燃やしたように閃光が爆ぜる。両親のために、心と時間を犠牲にした子供の頃の氷見。過酷な稽古や、望まぬ習い事に、両親の不和と面前での罵倒の応酬はこたえた。実の父親は、粗暴な母親を疎んで風俗に通いつめるようになった。氷見にとって、誰かのために、とは自己犠牲と搾取とに分かちがたく結びついている。

 たとえば、母親の理想をかなえるための人形。

 両親の仲を取り持つための道具。母は、氷見のピアノの腕に縋りついた。

 氷見が、その才能を開花させれば、父親の心が戻ってくると信じているようだった。

「僕は、自分には無理や言いましたけど。でも、弟みたいに身勝手なことは思いませんよ。自分が疎まれとるからて、殺そうやなんて思わへん。相手を自分の思い通りにしたいだけや。たったひとりの人間を、自分の命綱として繋ぎ留めることは呪縛と同じでしょう」

 呪縛だったのだ。氷見にとって、両親という存在のすべてが。

 浮舟の台詞の直後、別の店員がワッフルの皿と小皿を持って現れる。

 礼を言った後、浮舟は目の前に置かれた丸皿に手を合わせる。円型のワッフルを十字に切ると、綺麗な四等分にして小皿へと取り分けた。銀杏切りの生地からはうっすらとほの甘い小麦の香りが漂う。浮舟は、星型の口金で絞ったバターの半分もワッフルに移してくれる。

 小皿と、シロップを注いだガラス製の器を差し出しながら言う。

「今の氷見さんは、たくさんの命綱に繋ぎ留められとる。健全で、ええことなんやと思います。金沢での撮影の時も、美容師さんや写真家さんや、ホテルの経営者の方が助けてくれはったでしょう。皆さん、氷見さんのこと、大事な仲間やと思てるからですよ。金沢に居るかぎり、氷見さんは孤立したりせえへんやろなと思いました。それは、とても幸運なことやないですか」

 琥珀色のシロップが、ガラスの器のなかで振動に揺れている。

 氷見の前に、陶器の小皿が置かれ、ナイフとフォークまで勧めるように差し出された。ありがとう、と呟いた礼は、けしてワッフルを譲ってくれたことに対してだけではない。食器を受け取りながら、金沢の知人や友人、鎌倉や東京で活動している同級生のことを思い出した。

 語り終えた浮舟も、ワッフルが食べたいのかシロップを目線で示す。

 琥珀色のシロップをかけ、浮舟の手元に容器を置き戻しながら頷く。相槌にもならない、そんな囁きにほどちかい小声でありがとうと礼を繰り返した。とても年下とは思えない。聡明で、そして冷徹で、やはりとてもよくできた人間なのだと噛み締める。

 画廊での個展について、結局記事にはしないでくれたような男だった。

 ワッフルにシロップをたっぷりとかけながら浮舟が言う。

「今の、僕の話が、お気に障ったらすみません。金沢に骨を埋めろなんて言いません。いつだって氷見さんは自由です。命綱があるから言うて、引き留められる義務が生じるなんておかしい。命綱は、命を繋ぎ留める保険で、誰かを縛りつけるための方便やないと思います」

 物事の見方は、ひとによって違いますからともつけ足す。

 ふと、浮舟の語った、あの「白河夜舟」のあらすじを思い出した。

 確かに、受け取った脚本には、明確なことは書かれていなかったのだ。弟を見殺しにした兄の自殺幇助とは、脚本を読んだ解釈に過ぎなかった。弟の手紙は兄を殺す懺悔を綴った遺書。麦茶のボトルに入れたのは睡眠薬ではない薬。例えば、致死量の向精神薬だったとしたら。バイトの掛け持ちで憔悴する兄に、見捨てられることを恐れた弟の心中未遂だったとも思える。

 動画のなかで、兄が麦茶を飲むカットは映されていなかった。

 弟が、兄を殺し損ねたのか。それとも兄が、弟を見殺しにしたのか。

「俺はあの映像を、兄の弟殺しだと思ったんだよ。それも、『高瀬舟』とは違う、兄が自分のために弟を見殺しにしたんだって。弟のことを、疎ましく思って見捨てたんだと思った。でも、本当のことなんて、誰にもわからないんだろうなと浮舟君の話を聞いて考え直したよ」

「ほなよかったです。氷見さん、えらい思いつめた顔してはったから」

 別に嫌な仕事ではなかった、ともつけ足してワッフルを口に含ぶ。

 話が摑めたようでいて、結局は掴みどころのない白魚みたいだと苦笑が漏れた。

 迂遠な話は、氷見の傲慢な誤解を正すためだったのだろう。謝ろうなんて滑稽もいいところだった。普段の応対と比べて、逸脱しているように感じたものがきちんと像を結んでいる。浮舟の比喩が、重荷になる可能性を、物の見方の違いだと補足したがる律義さに胸を打たれた。

 だから、つい魔が差した。浮舟が、自分を気に掛けているのだと自惚れた。

「浮舟君は、俺の命綱になってはくれないみたいだけど」

 言ってから、氷見は自分がとんでもない告白をしたことを自覚する。

 素面とも思えない失態だった。これが、愛の告白でないなら何なのだろう。自分の命綱でいてほしい、なんて言葉が無意識に放たれるなんてまともじゃない。なのに、浮舟が優しすぎるからという言い訳が脳裏を巡る。まるで、氷見を愛しているみたいな台詞ばかりを吐く。

「僕にはたぶん、頼みの綱になるんは無理でしょうね。誰かの隣で、ずっと命綱でおるんは性に合わへんと思います。でも、呼んでくれたら戻っては来ます。モデルの仕事もこなします。淋しい時、悲しい時、孤独で居るんがつらいとき。傍で、慰め合える都合のええ男でいます」

 もう謝らんといてくださいね、と浮舟は澄んだ瞳のままで言う。

 いつからなのだろうと氷見は思う。いつから、変わってしまったのだろう。

 隣に居続けることが、愛の証明と挿げ替えられたのはいつだろう。これほど純粋で、冷静な愛が侮られるようになったことがいやだった。この愛を、浮舟の差し出す誠実さを、不純なものだと謗られることに怒りさえ湧く。そう思うことが、愛の証明であるような気もした。

 氷見は、浮舟のことを、愛しているのだという事実が腑に落ちる。

「傍であなたを繋ぐ頼みの綱にはなれへんけど。都合のええ男でおってあげられる。都合のええ男でおることが、僕なりの愛し方なんやろなと思うんです」

 ずるい言葉なのかもしれへんけど、と続ける浮舟を首を振って遮る。

 狡い、狡猾だなんて氷見が思うわけがなかった。ずるいのは、愛を理由に、他人を縛り続けることだと知っている。子供の頃、とうに思い知らされたことだ。だから、ふた切れ目のワッフルを、フォークで突き刺したままの浮舟の言葉を待つ。

 溢れたシロップが、薄青い皿のうえに琥珀色の海を広げている。

「僕は、氷見さんのこと好きですよ。それが、氷見さんの感情と同じ種類のものかはわかりませんけど。好きなひとが男であることと、両性愛者であることと、同性愛者であることはぜんぶ違うことやから。僕はゲイやけど、ひとりの人間としてあなたが好きです」

「それは、男として好き、という意味ではなく?」

「男同士でも構わないんですか。……気持ち悪いとは思いませんか?」

 氷見が、否定しようとしたところでサンドイッチが運ばれてくる。

 葉野菜のサラダ、平皿に載ったプリンのついたセット。耳を落としたサンドイッチは、浮舟が食べていたものと同じ四つ切りだ。白い丸皿にはプリンと、八分立ての生クリームがこんもりと盛られていた。摩天楼の外光で、テーブルに並べられた料理の色彩が鮮やかに見える。

 プリンを見る氷見を、浮舟がわざと話題を切り替えたがるみたいに揶揄う。

「氷見さん、自分が思てるより顔に出てますからね。初対面の時も、僕の顔、えらいまじまじと見てはったし。そのくせ食事に誘ったら上の空で断らはるし。かと思たら、撮った写真見ながら泣いてはるから驚いたんですよ。そないなとこも、素直でかわええと思いましたけど」

 思わぬ指摘に、浮舟の顔をまじまじと見つめ返してしまう。

 僕の顔が気に入ったんやろなって面白かった。たぶんプリンも好きなんやろなって。

 浮舟は、愉快そうな顔でワッフルを咀嚼している。たっぷりのシロップで、口当たりの軽い生地を浸したひときれを頬張る表情は、あどけなくて可愛らしささえ感じさせる。つられて、取り分けられた小皿から、ひときれだけを浮舟の前にある皿に移した。

「俺は白魚君が好きです。人間としても、たぶん男のひととしても好きになれる」

 だから、これは半分返します、と氷見は落ち着いた声で続ける。

 今思えば、京都の画廊で尾﨑と会った時、疎外感から不愉快さを覚えたわけじゃない。

 尾﨑が、氷見の知らない浮舟を知っていることがいやだったのだ。憧れの先輩の話も、露骨な嫉妬だと考えればわかりやすい。憧れの相手のために、おしゃれを覚えたと聞かされたのだから当然だ。その時から、好意を持っていたし、とっくに心をゆるしていたのだとも思う。

 灰色がかったレンズで強調された瞳をじっと見つめる。

 観葉植物の緑と、摩天楼から差し込む外光に浮舟の姿がすこし眩しい。

 浮舟の顔が、豆鉄砲を食らったみたいに間抜けになる。本当はこれが告白なのかも曖昧で、告白を受け入れてくれるか尋ね返しそうで堪らなかった。自分から交際を申し込むのははじめてだった。珍しく躊躇いがちな表情で、浮舟が眼鏡のレンズ越しに視線を何度も彷徨わせる。

 やがて、はい、と静かな声で返事を寄越した。

 そのつつましさに、本当は男慣れなんてしていないのかもしれないと思う。

 氷見は、紅茶の横にプリンの皿をさりげなく置く。「今度は、香林坊のモロゾフでお茶しようか」、と続ければ浮舟白魚が驚いたように目を見張る。浮舟白魚は、もう「俎上の魚」なんて洒落を言ったりはしなかった。むしろ、捕まえやすい可愛い男だ。まるで、俎板ではなく、生簀のなかでおそるおそる足元に懐いてくる魚みたいだった。

 氷見清之介は、途轍もない年下男を捕まえたものだと口端を緩めた。

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