第90話 霧と鐘

 旅芸人の一座は霧の中を進んでいた。

 もう陽は傾き山の陰に隠れている。


 渡上の国の澪津みおつ城下を出発した一行は、途中、その東の鮎井あゆい城を経て、そのまま東の勇那いさなの領国に入り、一度北上して福真ふくざね城から虎成とらなり城下へ進む道を選んだ。南にはク海が勢力を増してきたからだ。


 鮎井あゆい城下を出て東へ進み峠を越え、左に曲がって谷沿いに北上を始めたころだった。

「おかしいな、もう冬はとっくに終わっちまってるのに。」

 まだ冬の冷たい空気が空に残っていて、湿った空気の頭を抑えているのだろうか?座長は首を傾げながら進む。


 進み続ける内に、前を歩く人間の背中さえ霞んでしまうようになった。

 気のせいか、目自体も霞むようだ。


 まいったな、これじゃあ道に迷っちまう。皆、不安になりかけていたその時。

「あっ、寺がある。」

 前を進む者から、嬉しさの混じった声があがった。

「ああ、お前たち、ともかくここでひと息いれるぞ。」

 座長の一声に行列は路肩に荷車を置いて止まった。


 大きくて静かな寺だった。

「こんなとこに、寺なんてぇあったっけぇかなぁ?」

 座長は女将とともに、寺の人間に挨拶に向かおうとする。

「あんた、私、この寺初めて来たよ。」

 袖を引く女将さんに座長も言う。

「だろう?俺たちゃぁ、霧でだいぶん道をそれたかねぇ。」

「ずいぶん、立派できれいな寺だよ。ここは。」

 一座を始めて三十年近く。二年に一度ほど通る道だがまるで覚えがない。


 不思議だった。

 人の居た気配はする。


 なぜなら、掃除は行きとどどいているし、食事の支度は途中なのか、野菜は切りかけで、釜戸に火はくべてある。庭には桜の散った花びらを集めた山があるがほうきがだけが転がっている。

 本堂に至っては客人を迎えていたのか、茶が入ったままの湯呑が座布団とともに数組置いたまま。


 まるで、人だけが瞬く間に居なくなったようだ。


「変だねえ、誰もいやしない。」

 一座の者も一緒に探してくれるが、誰もいないという。

「しかし、この霧だ。下手に動くと危ねえ。一晩泊めてもらおう。後で謝るさ。」

「そうだねえ。屋根の下を借りるだけなら、いいでしょ。」


 サヤ達も必要な荷だけ解いて、一晩泊まる準備を始めた。


 もう、辺りには薄闇が迫っていた。


 だれかが灯りを灯したのだろう。本堂の周りはそれなりに明るかった。


 サヤが顔を上げると寺の鐘が霧の中にぼんやりと見える。


 誰かが、鐘楼の石段に足をかけて立っている。


 ムミョウ丸だ。


 めずらしいな。皆の手伝いをしないなんて。サヤは本堂から鐘楼しょうろうに近づく。


 ムミョウ丸は鐘楼しょうろうを昇り、鐘をペタペタと触っていた。いや何か貼っているのか?


「なんしよると?」

 サヤは身元を隠すため、一座の年配の女性から遥か西のお国言葉を習っていた。北の国の匂いを少しでも消すためだ。元々、器用な質なのか、咄嗟とっさの一言も訛るようになっていた。


「うん、おまじないさ。」

 ムミョウ丸は顔立ちが幼くなっても、中身は前のままだ。


 振り返り、束ねた黒い髪を揺らして笑う男の子は、まるで月の使いかと見間違みまごうほどの煌めきがあった。


 この子は私が守る。


 どこかに連れていかれるくらいなら、いっそウチが・・・・。


 ーさらってでもー


 サヤの唇は確かにその言葉のように動いた。


 少女の内側の心の湖を波立てる、自分ではどうすることもできない感情は何なのだろう。


 魂の記憶なのか?前世からの縁なのか?


 人は持って生まれたかのようなどうしようもない感情に急に目覚める時がある。


 理由がないのではない。理由を知らないのだ。忘れさせられているのだ。


 でも関係ない。


 それを今生で手にいれたい。ただそれだけ・・・。



 ムミョウ丸は石段を駆け下りてくる。


「今から、懐剣とお椀をその身から離しちゃいけないよ。」


 その言葉はサヤを現実へと引き戻した。

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