第82話 娘と瞳

十年前 歷弩れきどの国  松栄山まつばやま城下 


 桜は散り、雪深いこの地方でも春が芽吹いている。


 サヤは、ようやっと母に願って許された寺での手習いの帰りのことであった。

 

 自分の屋敷に人だかりがあり、たすき掛けをした役人が門のところを固めている。


 何があったのだろう。いぶかしく思う。


 門に駆け寄ろうとすると、左手を握る者がいる。  


 結構強く握られ、離さない。


 おふじという名のサヤの家に仕える娘だ。


「サヤ様、大事が出来しました。ここにいては捕まりまする。こちらへ。」


「どうして逃げるの?」

 サヤは手を離して門へ向かおうとする。


 お藤はサヤの前にかがみ込み、その両の手を包んで小声で

「サヤ様、よくお聞きくださりませ。旦那様、いえ、お父上様に謀反むほんの疑いありとお城からの使者が参りました。」


「むほん?」

「お城のお殿様に逆らう行いです。もし本当のこととされれば、厳しい罰が与えられます。わたくしは奥様からサヤ様をどこかに匿うよう言いつけられているのです。」


「トト様はそんなことはしないわ。」

「ええ、断じてそのようなことはされません。しかし、謀反を起こしたと勝手に決めつけられる場合があるのです。」


 お藤は、立ち上がりサヤの手を引いた。ここより立ち去らねば。

 奴らの本当の目的はこのサヤ様なのだから。


「カカ様は?カカ様はどうなるの?」

 足をつっぱるサヤ。

「後で、必ずこの藤がお連れいたしまする。信じていただけませぬか?」

 方便だった。お藤には逃げるのが精いっぱいなのに口から出た。

「・・・分かった。お藤を信じる。」

 お藤は心の隅に何か重たいものが乗っかったのが分かった。


 まだ七つのサヤ様は自分の身の上をよく知らない。旦那様と奥様がまだ幼いからと話しておられないのだ。ただ、お藤のような信用をおける者には、いざという時のため言い含めてあったのだ。

 

 その時が来た。


 お藤はそう思った。


 自分がこの家に奉公に来てから生まれた少女サヤ


 恩のある優しい夫婦の一人娘。


 主従であるが、心の隅に妹のように思う可愛い存在サヤ


 何としても逃がさねばならない。彼女の持つ血をきっとかたきは狙っている。


 十七歳の娘は、自分の伝手をたより、郊外にサヤと身を隠した。


 訪ねたのは、旅芸人の一座の拠点のひとつだ。


 お藤は以前この旅芸人の一座に居た。


 ちょうど、公演でこの地にしばらく滞在するとのこと。


 ここの座長夫婦を、元は自分を拾ってくれた恩人を頼ったのだ。


 ーお藤ー

 十二年前、アダケモノの襲撃により家族を失った少女。

 着の身着のままで逃げまどい、ひとりでいるところを旅芸人の一座に拾われ、厳しいながらも優しく育てられた。


 そして八年前、ちょうどこの地で公演を行っている時、観覧に来ていたサヤの両親と知り合う。利発で、可愛らしく、かいがいしく働く姿を気に入られたようだ。


 サヤの両親からお藤を屋敷の奉公人に貰いたいとの打診があった。必ず悪いようにはしないからと。


 座長夫婦は当初渋ったが、お藤の将来を考えると厳しい旅の暮らしよりもと、最後は折れた。


 これが、お藤の運命を決めたのかもしれない。


 座長夫婦は肝の据わった人物であった。流れ者を囲うことも多いせいか、面倒ごとは数多くこなしてきた。かと言ってただ、強面こわもてというふうではなく、人情に厚い二人。特に女将さんの方は姉御肌で、とても五十路に近いとは言えぬ美貌であった。


「いいよ。気が済むまでおりねえ。」

 ただ一言だけが、答えであった。


 お藤はサヤとともに深々と頭を下げる。

 その姿を物陰で見つめる一人の少年がいた。


 名をムミョウ丸。


 黒髪を束ねた美しい少年。女の子と見間違うようだ。


 当時は十歳ぐらいの姿形をしていた。住み込みで一座と旅をしているという。


 お藤が奉公に出てから、一座に紛れ込んだという。


 サヤと目が合う。


 にっこりと笑う少年。


 少女はひと目で心を持っていかれた。


 この人を探していた。彼女の中の何かが目を見開いた。


 ああ、この人だ。この子に違いない。  


 魂の海に落ちた一滴の波紋。確実に隅々まで広がっていく。


「こら、ムミョウ丸!何してんだい。仕事に戻りな!」

 女将さんの声で彼がそこから退散しても、少女の瞳は彼の居た場所にあった。

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