第15話 締まらない男
綺麗に磨き上げた床が光る広い道場の中央で、胴着に着替えた剛毅と丈太が向かい合って立っている。二人は背丈こそ同じ位だが、身幅が全く違う。何も知らぬ人が見れば、これから始まるのは力士と空手家の異種格闘技戦だと思うだろう。
そんな二人がいるこの道場は、炎堂流に代々伝わる道場である。全体的にかなり年季の入った建物に見えるが、中は隅々まで掃除が行き届いていて、床や壁に使われている木の匂いが、ある種の荘厳ささえ感じさせるようだ。
道場の最奥には豪一郎が座り、その横に蓮華が並んでいた。また、道場の左右両壁際にはたくさんの門下生が固唾を飲んで二人の勝負を見守っている。
「改めて言うが、時間は無制限、三本先取した方が勝ちだ。そして、どういう結果になろうと後から文句を言わないこと……解っているな?」
「はい…!」
「ああ、問題ない」
豪一郎の言葉を受け、丈太と剛毅がそれぞれ応えた。どちらが兄か解らない態度だが、これがこの二人の常なのだ。この場にいる誰もが、そこに違和感は持っていないようである。
「では、始め!」
合図と共に、丈太と剛毅が構えを取った。丈太は腰を少し落として左手を顔の少し上に出し、右手を胸辺りに置いた炎堂流の基本の構えである。対する剛毅は、両手を胸よりも少し下に置き、トントンとその場で軽くステップを踏む、ボクサーのような構えだ。これは炎堂流にはない、剛毅独自のものだった。
(ふむ、剛毅には何の問題もない。相変わらず、隙の無いヤツだ。それに比べて丈太は……いや、何だ?丈太はどこかが変わったように見える。まるで、命のやり取りでも経験したかのようだ。一体、何故だ?)
豪一郎の見立ては当たっていた。それは丈太が既に二度、重人との戦いを経験したことによるものである。これまでに戦った二体の重人達は、どれもふざけた姿をしていたものの、その攻撃力の高さは明らかに人のそれを大きく超えていた。ウシ重人のパンチ一発で丈太の左腕が滅茶苦茶になった事からも、それは明らかだろう。いくら変身して、ファイアカロリーとなった上でのこととはいえ、丈太は既に二度も、そんな危険な相手と戦ってきたのだ。その自信と経験が、それまでの丈太よりも強い精神をもたらしていたのだった。
「しかし、丈太坊ちゃんと剛毅坊ちゃんの試合とはな……勝負になるのか?」
「剛毅坊ちゃんは高校生空手選手権で、一年生ながら先日の県大会で連続優勝したからな。来月の全国大会とインターハイでも優勝すれば、最年少で五輪の強化指定選手になれるとの噂もある。丈太坊ちゃんに勝ち目などないだろう。…師範と戦うよりはマシとは言え、流石にな」
そんな弟子達の囁き声は、豪一郎の耳にも届いている。そして、それは豪一郎も承知の上だ。
(正直な所、丈太が本気であるのなら、勝負の結果に関わらず学校へ行くくらいは認めてやっても良かった。しかし、剛毅が相手を買って出た以上、そんな手抜きは通じんだろう。剛毅め、本当に丈太をアシストするつもりだったのか?もしかすると、アイツの方こそ本気で……む?)
「ぇいやぁぁぁっ!」
張り詰めた空気の中、真っ先に動いたのは剛毅であった。まだ少し遠いと思われていた間合いであるにも関わらず、その軽快なステップで一瞬にして距離を詰め、丈太の顔面に右拳で突きを入れたのだ。
「くっ!?」
「剛毅、一本!」
「おおおおっ!早い!」
「あれが、剛毅坊ちゃんの『雷鳴突き』か…!」
「い、一体何をしたんだ?全く見えなかったぞ?!」
丈太が鼻先を赤くしてたじろぐ中、見守っていた豪一郎の弟子達が歓声を上げてどよめく。そう、これこそが、剛毅を全国の並み居る強豪を打ち倒してきた必殺の高速突きである。その速さは、まさに稲妻のようなスピードで、何も知らぬ者が喰らうと、何が起きたの解らぬまま倒されてしまうと囁かれるほどであった。
「確かに速い。剛毅はこのまま育てば、俺よりも速くなるかもしれん。……速さだけならば、な」
「……父さんって、剛毅の事はずいぶん褒めるよね」
「蓮華の事も褒めていると思うが?」
「アタシ達だけじゃないでしょ、
蓮華が何を言いたいのか、豪一郎も解っている。しかし、豪一郎は結果を残さない相手を褒める事はしない性質だ。元よりこの一家は、言葉が足りないのであるが。
「い、痛て…!流石に凄いな、剛毅は。でも、俺だって、まだ負けてないぞ」
「……」
歓声の中、鼻を抑えて呟く丈太を剛毅は少し訝し気に見つめている。必殺の一撃が決まったというのに、全く喜んでいないどころか、どこか不満でさえあるようだ。そんな剛毅の様子を、豪一郎は不敵に笑って眺めていた。
(剛毅め、気付いたか?いや、まだ気付いてはいないようだが……今ので気付けないようなら、
「続けるぞ、二人共、構えろ。…二本目、始め!」
豪一郎が合図をし、再び、丈太と剛毅が向かい合って対峙した。先程と同じ構えで、間合いの取り方も同じである。そして興奮冷めやらぬ中、またも剛毅の雷鳴突きが丈太の顔面に突き刺さる。
「剛毅、一本!」
「くぅ…!」
「おおっ、まただ!速すぎる!」
「一方的じゃないか…!やはり剛毅坊ちゃんはすさまじいな…!」
「お兄ちゃん……」
この時は皆、剛毅の勝利を確信していたことだろう。だが、当の剛毅はその結果に冷や汗を流し、逆に追い詰められた表情を見せていた。
(おかしい……まさか、そんなはずは…)
「……気付いたか?……だが、次に剛毅が一本取れば終わりだ。続けて、三本目、始めっ!」
豪一郎だけは、剛毅と丈太のこれまでのやり取りに何かを勘付いていたらしい。そして、丈太が小さく呟いた。
「
「…っ!?」
その呟きが何を意味しているのだろう、それが聞こえたのは剛毅だけだ。そして剛毅の背筋をゾクリと走るものがあった。その思いついた発想を打ち消すように、剛毅は三度、トドメの雷鳴突きを放つ。
(そんな事が、あるわけがないっ…!)
「てぇいっ!」
「ここだっ!」
「……え?」
タンッ!という短く乾いた打撃音が、道場に響いた。すると、雷光の如き速さで突きを放ったはずの剛毅が逆に、顔面に拳を受けている。驚きの声を上げたのは蓮華だったが、それは反撃した丈太を除く全員が思ったことだろう。今の今まで、完璧に丈太を捉えていた剛毅の拳が外れ、反対に剛毅が拳を受けていたのだ。あまりの出来事に、当の剛毅は殴られた姿勢のまま固まってしまっている。
「じ、丈太、一本!」
「や、やった…!」
一瞬、身体を震わせていた豪一郎が誰よりも早く気を取り直し、丈太の一本を宣言すると、剛毅はようやく状況を認め、少し後ろに下がった。丈太は満足そうに小さくガッツポーズをしているが、道場の中は静けさに包まれている。
「今の…何が起きたんだ?」
「じょ、丈太坊ちゃんが、雷鳴突きを避けて、反撃……した?」
「そんなバカな?!あの速さの突きだぞ!?見切って避けるだけでも至難の技だ!反撃なんて…」
息を吹き返したように、ざわざわと道場内が騒めきだしている。無理もない、直前まで誰もが剛毅の完全勝利を信じて疑わなかった状況で、あり得ない反撃が決まったのだ。丈太に変化を感じ取っていた豪一郎でさえ、今の攻防は完全に予想外の結果だったようである。
(丈太が何か狙っていると思ったが、まさか、カウンターをして見せるとは……何というヤツだ。元々、反応だけは飛びきりのセンスがあったとはいえ…一体何があったのだ?この数日で)
「兄貴、今のはマグレか?いや、自分で確かめてみるか……」
「よ、よし…まだいけるぞ」
「全員、静かに。続けて四本目だ、始めっ!」
豪一郎が合図を告げると、騒めきに溢れていた道場は一気に静けさを取り戻していた。そして、剛毅は自分の中に芽生えた疑問を確かめるように、四度目の攻撃に打って出る。
「でぇいやっ!」
「…見える!」
剛毅が放ったのは、今までの雷鳴突きではなく、変則の連打だった。これは剛毅必勝の戦闘スタイルであり、これまでに多くの猛者達を倒して結果を残してきた戦法でもある。ここまで雷鳴突き一本で通してきた分、ここで違う技を繰り出せば対応するのは難しいだろう。相手がこちらの動きに慣れて、そこに追い付こうと活路を見出した頃に、そのリズムを外すのだ。普通ならばなんてことのない小手先の変化技だが、雷鳴突きが必殺の超高速突きだからこそ、それに追いつこうと躍起になっている相手は面白いように誘いにハマるのだ。
これを使って、剛毅は高校生になってから、負けなしで参加した大会を総なめにしてきたのである。
だが、丈太にその小手先の技は通用しなかった。重い身体の丈太は剛毅よりも素早く動くのは難しい。しかし、丈太には天性の反射神経があり、剛毅の動きの始まりをしっかりと見てそれに対応する事が出来る。その対応能力があるからこそ、変化に騙されず対応できた。それだけ、丈太の反応速度が速いのである。
丈太は素早く後ろに下がり、剛毅の突きを躱してその手を打ち払った。そして、カウンター気味に剛毅へ蹴りを放つ。
「ていっ!」
「っ…!ば、バカな!?」
さほどカウンターに威力がないのは、丈太自身が反撃に力を入れていないことと、回避の方に意識を集中しているからだ。これは剛毅を倒す試合ではなく、あくまで一本が取れればいいのだから、その意味では丈太にとっては有利な話であった。もしもこれが、相手を倒す事を目的とした戦いであれば、丈太は最初の一撃で終わっていただろう。そうではなかったからこそ、丈太はしっかりと剛毅の動きを見る為に、敢えて攻撃を受けるという選択肢を取る事が出来たのだ。
「丈太、一本!」
「おおお…!まただ、まさか、本当に丈太坊ちゃんが……!」
「やはりマグレじゃない…兄貴は、本当に俺の動きを見切っている……!?」
「剛毅……」
ショックを受ける剛毅の姿に、丈太は心を痛めていた。それは当たり前だろう、幼い頃から運動に関しては丈太の遥か先を行き、今は高校生ながら華々しい活躍を見せる剛毅にとって、運動を苦手として冴えない兄が自分を上回ることなど予想もしていなかったに違いないのだ。それがどれだけ残酷な事かと、丈太は心を痛めている。普段、どれだけ冷たくされても、剛毅が小さな頃は自分を慕ってついてきた可愛い弟なのである。
とはいえ、ここで剛毅の為だからと引き下がる訳にもいかない。ここは心を鬼にして試合を続けよう、そう丈太が思った時だった。
――ぐうううううううう……!
「ん?」
「え?」
「あ、あれ……?は、腹が…めまい、が………」
突如、道場全体に響くほどの音量で丈太の腹の虫が鳴り、全身から大量に冷や汗が流れ出す…そうして丈太は空腹で目を回し、そのまま倒れた。所謂、低血糖症状である。この日、丈太はまだ朝食を摂っておらず、エネルギー不足だったのだ。かくして、兄弟の戦いは思いもよらぬ形で唐突に終わりを告げた。その結末に落胆した者は多かったようだが、一部の者達は、丈太に何らかの変化が起きている事を感じ取ったようであった。
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