屈折した檻より

私は心地よくその音を聞きながら、彼の顔と裸体を眺めた。

このような関係へと至り、付き合いは3年目を過ぎていた。

 身も心も傷だらけだった私を彼は強引に奪い、私も彼を奪い、この時間へと繋がっている。

 小学生で体は傷だらけとなり、高校生で心も傷だらけになったこの身を。

 体の傷は交通事故で受けた。

 小学校4年生の学校からの帰り、引っ越したばかりの自宅の前、隣のアパートから急発進してきた車が仕事から帰宅し駐車場へと入って行こうとした母の運転する車に追突した。

 車は押し出されるように迫った車は自宅の壁と車体の間に私を挟み込んで止まる。

そこまでしか記憶はない。

 後々に知ったことだが、体に酒が残った状態で運転した者の末路の事故だったそうだ。

 目を覚ました時にはベッドの脇で至るところから管が伸びていて、足元の掛け布団の上で憔悴しきって腕を枕に眠っていた母の姿も覚えている。目を覚まし、同じく目を覚ました私を見つめてやつれた顔でも溢れんばかりの涙を流し、意識を取り戻したことを喜んでくれたのは正直に嬉しかった。

 顔には傷はそれほど残らなかった。

 けれど、体には車の破片と壁の破片が数多くの跡をつけることとなった。

 成長し始めた胸を真一文字に切り裂くような跡、腹部を開いた縦一文字の跡、腕や足にも大小の跡がついた。

それに伴って私は常に痛みを伴いながら成長してゆこととなった。

成長の痛み、傷口の皮膚の痛み、何度かのリカバリーのための手術の痛み、私の思春期は病院のベッドと心身の痛みと共にあった。


「かすみちゃん、傷が……」


 偶然見えてしまった腕の傷をクラスの子にそう言われて半袖を諦めることを決意した。

 母に長袖の衣類を求めることは辛かった。

 『貴女のせいだ』と責め立てているようなものなのだから。

 どう伝えたってそうなってしまう。自らを責め私に詫びる泣き崩れた母に寄り添い同じように涙を零した。

 常にゆったりとした長袖と長ズボンを着用し、できるだけ首元まで隠す素敵な服を母は血眼になって探して私と選んでくれた。

 もちろん、女の子から少女になった私のためにできうる限りの手を尽くしてくれた母の愛情には感謝してもしきれない。私の母は世界一のお母さんなのだ。

 手術のために運動もできず、休みがちな小学生はそのまま中学生になった。

 水泳の授業はすべて欠席し、学校行事にもなかなか参加することが叶わなかった私は、必然的にクラスで浮いた存在となることは当たり前のことだろう。

 もちろん、友人はいるし、クラスの雰囲気も悪くはない。でも、その「特別な」ことに対して不平不満を人一倍抱く年頃でもあるのだ。それでも何とか私は普通に勤めようと努力を怠らず、そのおかげで中学の三年間は概ね順調だった。

 問題は高校へ進学してから立て続けに起こった。

 しばらくすると私は必然的にいじめの対象になった。

 モノを壊されるから始まり、やがては、身体的にも酷い目に合う。

ここで書いてしまったなら、読むのを避けて目を背けたくなるような出来事、当の本人達にとっては些細な事でも、それをされた側にはどれほどの傷であるのか理解できていない連中は、私をどこまでも否定し続けた。

 誰かに助けを求めることはどれほど勇気がいることか、その一歩を自ら踏み出すことなどその時の私は不可能に等しい。

 ある日の夕方、女子トイレで全裸にされて数人の生徒に押さえつけられ、スマホのカメラが向けられる。口にしたくもない罵倒と行為、気持ち悪いほどに歪んだ醜い顔をした連中に、私はただ媚び諂うように泣くしかなかった。


「あ、洋君、これ見てよ」


 その中の1人がガラの悪そうな男を女子トイレに招き入れた。

 身長は高くピアスと茶髪に染めた髪、顔はいかにもと言った感じの強面の素行の悪いことで有名な男子生徒だった。


「どう?バイブも大きいの入ったからやってみてよ?」

「つまんねぇことしてんだな」

「え?」


 呼びつけた女子生徒の腹部に彼の拳が突き刺さるように埋まる。つられるように盛大に嘔吐したそいつが崩れ落ちそして動かなかった。

 トイレの匂いを超える酷く据えた酸味を帯びた空気が漂い、何が起こった分からないまま呆然と立ち尽くしている女子生徒達は、困惑しやがて恐怖したように震えはじめた。


「ったく、めんどくせぇ穴だな、お前ら全員スマホ寄越せ」


 私に向けられていたスマホ達は洋君と呼ばれた不良にすべて取り上げられた。嫌がる生徒には容赦ない暴力が加えられた。汚れた床に這い蹲って嘔吐する様は、先ほどまでの私とそっくりだ。

 彼はスマホ達をピッチャーが全力で投球するように床へと一台一台を大切に投げつけてゆく、そして大きな足で何回も何回も踏みつけた。

 先ほどまでの表情を失って恐怖に泣きだしているそいつ等の写真を洋君は自分のスマホで撮影して、迫力のある濁った眼で睨みつけていたが、暫くすると数人のさらに素行の悪いお仲間が現れて、そいつらを無理やりに(嫌がる奴は殴りつけて)外へと連れて行ってしまった。床に倒れた二人もその場で制服を脱がされ下着姿のまま連れ去られた。


 先ほどの出来事が嘘のように女子トイレには静寂が満ちた。

 そこにるのは傷跡だらけで、生傷だらけの私と、洋君だけ。

 先ほどまで私に浴びせられていたカビだらけのゴムホースから勢いよく流れてゆく音が、静寂の中で響いていた。


「おい」

「汚いから、触れないほうがいいですよ」

 

 私はとっさにそんなことを言って周りに転がったモノを指さした。

 床拭きようの雑巾、タイルを磨くデッキブラシ、便器を掃除するブラシ、そしてカビ塗れの水を垂れ流すゴムホース、どれもこれも先ほどまで私の皮膚を掻いたものばかりだった。


「ちょっと待ってろ」

「え?」


 洋君が振り向くと走ってトイレの外へと出て行った。

 私は呆然としたままで、でも、今までのことで疲弊した心は体を動かして逃げるという選択肢を拒絶した、もし、逃げたら何をされるかも分からない。

 恐怖に心が震えながら数分の宣告の時を待つ、裸体を隠すことすらできぬほどの絶望に私はぼんやりとゴムホースから流れる水を見つめ続けていた。

 そして洋君が姿を見せた。

 その手には紫色の学校指定のジャージを持っていた、それが私の出ないことはすぐに分かる。

 だって、私の鞄はすぐ近くに水浸しで転がっていて、その中に入っているのだから。


「これを着ろ」


 私に近づいてきた洋君が私のサイズの二倍以上あるそれを広げて、そして羽織らせようとした。


「汚いから、私そこの制服を着るから……」


 床の上にずぶ濡れで踏み荒らされた制服を指さして、私がそれに手を伸ばそうとする。途端、その伸ばした手に洋君が持ってきてくれたジャージを握らされた。


「見てろ」

「え?」


 それは咄嗟の事だった。

 カビだらけの掃除用のホースをその手で掴んだ洋君は、勢いよく水が流れ出ている口先を自らの頭の上に向けて頭から浴びた。ワックスで整っていた髪が水で潰れてあっと言う間にびしょ濡れとなってゆく。


「飲まされたか?」

「え?」

「この水を飲まされたのか?」

「うん…」


 真剣な眼差しが私にそう問う。

 汚れ切ったホースを口に差し込まれたことを思い出して、胃液が上がってきた。それを堪えて私は素直に頷くしかなった。


「そうか」


 また、一言だった。

 洋君はそのままそのホースを口に咥える、表情は変わらずに流れ続ける水をゴクリと喉を鳴らして飲む。

 あの、汚いホースから流れ出る水を、喉を鳴らして飲んだ。


「同じとは言わねぇ、でも、一緒だ。だから、それを着ろ」


 ホースを投げ捨てた洋君が無理やりにけれど優しい手つきでジャージを私に着せる。

 初めて男の汗の匂いを嗅いだ。けれど、不思議と嫌悪感は抱かなかった。

 そして上下を無理やりに着せ終わると洋君は私の手荷物をすべて持ち、私の手をしっかりと握ってトイレを出た、ずぶ濡れのままで校舎をある歩き、他の生徒の視線や教師の言葉に振り向きもせず学校から連れ出される。

 夕日の差し込む世界で洋君は私の手を引き続けた。

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