湯の温かみ

 タイルで描かれた大きな富士山が湯気に覆われては晴れて姿を見せていた。

 綺麗に磨かれた鏡の前に映る文字通りの傷だらけの身体へと優しくタオルが当てられ心地よい石鹸の香りが漂ってきた。


「大丈夫?、痛いとは思うけど、少し我慢してね」

「は、はい」


 私はその手を受け入れた。

グチャグチャにされた髪は綺麗に洗い流されて、今は優しい手つきで背中をタオルが擦っている、口の中は先ほど歯ブラシを渡され歯磨きを終えているからさっぱりとしていた。

 この建物の隣にある診療所の女医先生が汚れたままの私を診察して、塗り薬と飲み薬を手渡してくれた。そして、しばらく休むようにと言って汚れた頭を撫でると、にこやかに微笑み戻って行った。

 制服や持ち物は、どこからやってきていたのか、若く綺麗なお姉さん達がネイルの施された手が汚れるのを気にすることもなく持ち去っていき、私の持ち物は洋君のジャージに包まれたこの身一つとなってしまっていた。

 銭湯 『松野湯』、私はいまそこにいる。

 松野 洋という彼の名前と、そして実家が銭湯を経営していることを入り口に釣り下がった小さな木製の看板で知った。そして私を洗ってくれているのは、彼の若すぎるお婆さんで月子さんという女性だった。

 壁を隔てて男湯からも桶の音や洗い水の音が聞こえてくる、洋君が男湯に入っているのだ。


「月子さん、この子を風呂に入れてあげてほしい」

「どうした?」

「理由はこんな感じ」


 学校から20分と少し無言でただ歩き続けた末にたどり着いたのは、路地の奥まったところにある一軒の小さな銭湯、その入り口前を掃き掃除していた女性を洋君は月子さんと呼び、手に持っていた荷物を見せた。

月子さんはすべてを察したようだった。


「いいさ、洋、アンタはボイラーの仕事があるからね、この子は任せて風呂に入りな」

「よろしくお願いします」

 洋君は深々と頭を下げた。つられるようにして私も下げる。

「あなた名前は?」

「あ、お前、名前はなんていうの?」

「かすみ、明智かすみ…です」

「洋、あんた、名前も聞かなか…」


 私は名前を名乗って俯いてしまった。

 私に全く似合っていない名前に2人の表情を見るのが怖い。

 月子さんが洋君にそう言いかけて戸惑うように言葉を止めた。

 暫くの静寂ののちに、それが気になってゆっくりと伺うように顔を上げると、そこに驚くほどに様変わりした洋君の表情があった。

 先ほどまでの凛々しい表情は跡形もなく崩れ去っていた。

 だらしなく弛んだ口、垂れ下がった目と上気した頬、伸びてきた手が私の顎に触れて、そのままに上へと持ち上げられる。彼の顔が近づいてくる、緩んでいた顔から引き締まった凛々しい顔になると私の唇に彼の唇が重なる、

 柔らかく温かな感触ののち唇と歯を掻き分けるように温かな舌が入ってきて私の舌に絡んだ。

 私は動けずに固まったまま、洋君も固まったまま、月子さんも固まったまま、3人ともが動きを止めて私はいよいよ苦しくなるまでの短く長い刻を合わせ続ける。


「ん!はぁはぁ……」


 引き剥がしたのは私からだ。

 止めた呼吸がついに耐え切れなくなって、両手で洋君の肩をゆっくりと押し返してゆく、互いの唇が離れて蜘蛛の糸のような唾液が繋がったまま、一点を見つめ続ける猫のような洋君と私の二つの瞳は互いの姿を映したままだ。


「何をやってんだか…、洋、風呂行きな、かすみさんの事は任せな」

「あ、うん」


 名残惜しそうに視線と洋君が離れてゆく。彼の口元が小さく「あとでね」と言っていた。

 私はぼんやりとそれを見つめて、そして、そのまま女湯の入口へと月子さんに手を引かれへ入ったのだ。

 そしていまに至っている。

 さすがに前と陰部は自らで洗った、けれどシャワーで体を流し終えると、肩から湯桶で温かいお湯を、ゆっくりと時間をかけるように何杯も背中から月子さんが浴びせてくれる。

 擦れた傷の痛みが最初は気になっていたけれど、やがて、お湯の温かさが私の身体とそして疲弊した心を撫でるように包む。


「湯はまた浸かればいいさ、さ、上がって薬を飲んで寝ることだね」


 私はそのまま手を引かれて脱衣所へと戻り、タオルを渡されて体を拭いた。

 脱衣所は大きなロッカーが40ほどと網かごの棚があるだけだった。

その網かごの1つにオレンジ色のカラフルなパジャマがあり、それを月子さんから手渡される、その上に袋に入った新品の綺麗なショーツもあった。


「これを着て、ショーツは新品があるからこれ使ってね、きっと私と同じ大きさだと思うわ」

「はい……」


 時間は18時を回っているのにお客さんは入ってこない。

 私はそのまま手を引かれて番台の後ろにあった細く狭い階段を上がる、その上には廊下があり歩いていくつかの部屋の前を通り抜けると、やがて、ある部屋の前で月子さんは歩みを止めた。


「客間だけど、お布団を引いて置いたから、暫く休んで行きな。帰りは洋に送らせるから」

「いえ、そん……」

「断らずに、ご両親には今日の事は知られたくないんだろ」

「はい……」

「なら、うまく私から言っておくから電話番号を教えてくれる?気分が悪くなって隣の先生に診てもらって休むように言われているのでとでも言っておく、それと、二度とそのようなことは起こらないからね、安心して寝るといいよ」


 そう言って月子さんは襖を開けた。

 8畳間の少し広い部屋の真ん中に布団の敷かれていて、あとは液晶テレビと机が1つある、目を引いたのは古い鏡台だった。とても古いモノのようで部屋の一角だけがくすんで見えるほどだ。その机の上にはいつも使っているスマホとペン類などがタオルの上に置かれていた。


「机の上の物は近くの店のお姉さん方が拭いて綺麗にしてくれたよ、誰もが酷い目に合ってきた人達だからね、他人事とは思えなかったんだろうさ。制服は綺麗に洗って干してあるから、帰りまでには着ることができるからね、さ、休んでなさい」


 強引ではあったけれど、このままでは帰ることなどでできない、そして母親にはあんなことを知られることは怖い。だから、私はその言葉に甘えることにして母の番号を手渡す、なにより、洋君にお礼の1つも言えていない。

指先が勝手に唇を触り、先ほどの感触を思い出させた。

 始めは気分が落ち着かなかったので、動物園に引っ越してきたばかりの動物のように部屋をうろうろとし、そして恐る恐るスマートフォンにも触れてみた。

嫌悪するようなメッセージが届いていたらと不安になったが、宣伝メール以外の通知は何一つ届いてはおらず、あの人たちからの連絡は、ただの一通もなかった。

 やがて私は素直に布団に潜り込んだ。

 柔らかくふわふわの羽毛の掛け布団、柔らかいけれどしっかりとした敷布団に挟まれて、沈み込む枕に頭を乗せたまま、私はじっくりと天井を見つめた。

 涙が伝って零れ落ちた。

 人の善意に久しぶりに触れた。

 とても力強く温かな善意と温もりに。

 しばらく泣き続けた私はやがてそのまま瞳を閉じて深い眠りに落ちたのだった。

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