第29話 名前

「あぁー…うぅー…うあぁー……」


 その日の晩、ふとリビングに立ち寄ると聖女様がソファに横たわって呻き声を上げていた。魔法技術省では相当ハードに働かされたようで、少しでも元気づけようとミアが用意した豪華な食事を食べる時も上の空、それから少し時間がたった今もまだ重い疲労感に苦しめられているようだ。


「うあぁー……あっ? うああっ」


 俺が見ていることに気付いた聖女様は謎の言語を発しながらソファーをポンポンと叩くと、鉛のように重そうに見える身体をもそもそと起き上がらせ、ソファーの端にもたれかかるようにして座り込んだ。多分、俺に座れということなのだろう。俺も昼間は色々あって疲れていてあまり気乗りはしなかったが、渋々隣に腰かけた。


「あぁー……どうして人は働かなければいけないんでしょうかね、ジャン?」

「えっと、い、生きるためでしょうかね……?」


 女神様に対する奉仕とか、人と人との繋がりとか、社会に対する貢献とか――。神父見習いとして働く中で身に付けた建前が幾つか頭に浮かんだが、聖女様が求めている答えはそういうものではないだろうと却下する。かといって聖女様が望むような答えなど思いつかず、そもそも疲れていてろくに頭を働かせる気にもならず、結局そんな中途半端な答えになってしまった。


「……明日から、あなたが聖女やってくれません? 服とか化粧とか、なるべくお手伝いはするつもりですから」

「そんな事故に巻き込まれるのは嫌ですよ……。それに聖女様以上に立派に、この国の聖女としての務めを果たせる人なんていませんから」

「……なんです? おだててやる気出させようとしてます? そんな手には乗りませんからね」


 ちっ、バレたか……。いや、それは本心からの言葉なんだけど、真面目に受け取ってくれない聖女様の気安さが今はありがたかった。どうしても、昼間のことが頭から離れない。


「……う、うおぅわああああああああああああっ!」


 いきなり聖女様が叫び出して面食らう。しかも、叫んだあとは急に力尽きたように動かなくなってしまった。


「せ、聖女様? 大丈夫ですか?」

「……いやー疲れた。疲れましたよ、ジャン。もうね、私めっちゃ国中に恩寵の力供給しまくってるじゃないですか? じゃあもう、それでよくね? って思って。もう、いろんな行事やら他の仕事やらもう全カットでよくね? って思う次第なんですよ、マジで」


 口調はなかなか怪しいが、どうにか正気を取り戻した様子の聖女様が愚痴る。確かに国中のエネルギーを賄っているというだけで莫大な貢献だし、その他の仕事は免除したり代わりに式典や催事を専門に行う、ある意味お飾りのような聖女を作れば仕事が分担されて聖女様の負担が減るかもしれない。


「そうですね、本当にそうだと思います。でも……みんな聖女様を求めているんです。清くて正しくて美しくて、人々を励まし、救いになるような、そんな象徴を……」


 またこれだ。口から出る言葉は頭で考えていた事とは全く違うもので、多分これが俺の本音なのだと思う。自分の中で聖女というものがその役割以上に大きなものになっていて、女神様を差し置いて信仰の対象になってしまっているのだろう。敬虔な信者や教会関係者たちの一部では問題とされている聖女崇拝だが、一般の民衆の中ではかなり根強いものになっている。きっと俺も、神父見習いでありながら自分でも気づかないうちにそういう考えにどっぷりと浸かってしまっているのだろう。


 その想いは、おそらく誰かを犠牲にしても仕方ないと思えるくらい強いもので――


「象徴ね……。へっ、そうですね。みんな聖女様、聖女様って言って、大事なのは聖女の肩書きで私のことなんてどうでもいんですもんね」

「いえ、そんなことは――」

「あるでしょ――――!」


 急に叫ばれて思わず身体が固まる。聖女様も自分の役割について色々と思うところがあるのだろう。聖女様はまっすぐな瞳でこちらを見つめている。何か大事な話があるのだろうと思い、慌てて姿勢を正した。


「……名前」

「はい?」

「ジャンはいつも私のことを聖女様、聖女様って言って! 一回も名前で呼んでくれたことないじゃないですか!」

「…………」


 思わず無言で天を仰いだ。てっきり深刻な話が来ると思っていたので、内容のあまりのどうでもよさにすっかり力が抜けてしまう。もしかして冗談なのだろうかと思い聖女様の顔を見ると、思いのほか真剣な表情をしていて驚いた。自分にとってはくだらないことでも聖女様にとっては重要なことなのかもしれないと、もう一度居住まいを正す。


「ですが、聖女様は聖女様ですし。それに、あまり付き人が親しげにするのもどうかと……」

「付き人でも、ミアは私のこと名前で呼んでますけど? 私にはセシルという立派な名前があるんですけど?」


 拗ねながらも圧をかけてくる聖女様にたじたじになる。えっ、呼ばなきゃいけないの? マジで? …………。一旦想像してみるとそこまで不自然ではないといえばないのかもしれないが、それでもどうしてもどこか受け付けないというか、どうにも言いようのない抵抗感があった。


「いや、でも……やっぱり聖女様というのでは駄目で――」

「ダメですー、私の名前はセシルですー」

「じゃあ、あの、間を取ってダングルベール様というのは――」

「ダメですー、それは姓ですー。私の名前はセシルですー」

「うぅ……」


 何度提案しても、名前呼び以外は跳ねのけられてしまう。冷静に考えれば、さっさと言ってしまえば納得してくれるだろうしそこまでためらう必要もないはずなのだが、喉につかえたようにその言葉だけは口から出てこなかった。


「……はぁ、そうですよね。結局、私は国中にエネルギーを供給するための聖女っていう機械なんですもんね……」

「いや、違――」

「ふんだ! いいですよもう! 寝ます寝ます! ジャンも明日早いんですからとっとと寝てくださーい!」

「あっ……」


 バタンッ! と大きな音を立てて扉を閉め、止める間もなく聖女様は部屋から出て行ってしまった。


「いや、違うのに……。違うんだけど何かが、こう……」


 自分でも整理しきれない心の葛藤のもやもやが、不明瞭なつぶやきとなって漏れ出る。俺はソファに深く背中を預けると、しばらくそのままただじっと天井を見つめていた。

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